ペトルーニャに祝福をのレビュー・感想・評価
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最初の一歩を踏み出したヒロインの祝福されるべき衝動
あらゆるドラマは意志と衝動によって生まれる。この映画のヒロインも日々の暮らしで様々な抑圧を受ける中、内側に秘めたものを徐々に膨張させ、マケドニアの小さな町に暮らすあらゆる人々が目撃しているであろう伝統行事の最も大切な瞬間に、つい炸裂させてしまう。この行為の意味を彼女が理解するのはだいぶ経ってからで、私はこの瞬間、ペトルーニャのことがどこか50年代のアメリカで白人にバスの席を譲るのを拒否した歴史的女性、ローザ・パークスのようにも見えた。きっとパークスがそんな行為に出たのも理屈を超えた意志と衝動がきっかけだったのではないか。それによって歴史はうねり、染み付いた悪しき常識はものの見事に覆っていく。本作はその最初の第一歩を、時にコミカルに、そしていつしか笑いを通り越しシリアスへと振り切れるくらいピンポイントに描きこんでいく。彼女のどんどん度胸が座っていく態度、表情、まなざしに興味が尽きない一作だ。
良作すぎる
ペトルーニャ最初は理屈ばっかりのめんどくさい女、友だちにも気分次第で悪態ついたりしてまあ最悪。こんな嫌な空気が続くのかしらと思っていたら事件とも言えない事件が起こり、母親や警察署長の常識一点張りで全然理論的じゃない主張にすっかりペトルーニャ頑張れーってなりますよね。ムダにジェンダー意識の強いリポーターやとにかく事なかれ主義の同僚カメラマン、ネオナチか?とも思うほどのおそらく教養も学もない生まれ育った街から出たこともないいわゆるヤカラ、別にこの事件自体はなんとも思ってないけどとにかく穏便に済ませたい神父、キャラクターの重量、配置が完ぺきです。いよいよペトルーニャに味方したくなる。そして何よりダルコが「連絡するよ」って言ってくれたの心の底から嬉しかった〜!ねーペトルーニャそりゃニヤつくよ。そして一件落着。だってホントは十字架なんてどうでもいいんだから信仰心ないし。あー面白かった。
ペトルーニャは最後に悟った訳だが、そのセリフ『この十字架は貴男とあ...
ペトルーニャは最後に悟った訳だが、そのセリフ『この十字架は貴男とあの男達の為にある』その意図する事は間違っている。その前段に『神が女だったらどうする?』というセリフがある。つまり、この映画の結論とペトルーニャの出した答えが同じと仮定した場合、彼女はこの男たちを俯瞰して『この十字架の為に争うのはバカバカしくなった』と受け取れる。さて、
でも、この演出家と脚本家の経歴は、1975年位の生まれで、ユーゴスラビア連邦共和国の出身。現在、脚本家がボスニア・ヘルツェゴビナで、監督が北マケドニア。どちらの国も1991年ユーゴスラビアから独立した。つまり、彼女達は、国の独立の時に17歳だった。感受性の高い時期に国が大きく社会が変革している。また、
ユーゴスラビアは修正社会主義と言う実験的な国でもあった。
従って、その旧社会に対するアンチテーゼが、彼女達に芽生えていると見るべきだ。単純な男尊女卑を訴えているでは無い。もっと根が深い。男に対して、女が優位に立つと言った次元ではない。そして、
この国の宗教は北マケドニア正教になるが、その北マケドニア正教自体に対する疑問を超えて、宗教そのものに対する女性としての疑問が、演出家達にはあると思う。旧約聖書の創世記まで遡る事や『神が女性だってらどうする』と言うセリフが出てくる。それがイスラムやユダヤを含めた宗教全体に対する女性差別の訴えに感じる。その大事な訴えをペトルーニャには、わがままで、些か引きこもりのマザコンの女性として醜く、コミカルに演じさせている。その意図する所を、デフォルメとして笑い飛ばしていると私は感じた。共感出来る映画だ。
最後の音楽も良いが、題名が分からないのが残念だ。
【”伝統への固執は進歩を阻む。”保守的思想が蔓延る北マケドニアで実際に起きた男性のみの伝統儀式に女性が参加し”幸せの十字架”を手にした事から起こった出来事をアイロニック&ユーモアを塗して描いた作品。】
■北マケドニアの小さな町で暮らす32歳のペトルーニャは、仕事も恋人もなく、鬱々と日々を過ごしていた。 就職面接でも冷たくあしらわれ、最悪な気分の帰り道、ペトルーニャはキリストの洗礼を祝う神現祭に遭遇し、女人禁制の祭事に参加してしまうが、見事に”幸せの十字架”を手に入れるが・・。 ◆感想<Caution!内容に触れています。> ・32歳のペトルーニャは、外見がポッチャリした可愛らしく、歴史にも通じた聡明な女性だが、縫製工場での秘書の面接で、面接官の男から相手にもされない。 ー 最近見た「金の国 水の国」で描かれた愚かしきルッキズムを思い出す。- ・そして、彼女はむしゃくしゃしていたのか、帰り道に女人禁制の祭事に参加し、川に飛び込み見事に”幸せの十字架”を手に入れる・・、が。 ー ここからの、警察や司祭や十字架を手に入れられなかった男達の愚かしき姿が、シニカルに描かれる。 “アバズレなどと,言われながら・・。”そんな中、ペトルーニャは臆する事無く、目をしっかりと見開き対応する。芯の強い女性である事が分かる。ー ■女性リポーターは上司と思われる男と電話で”これは大事な事だから”と必死に取材を続ける。 ・そんな彼女に、男性警官のダルコだけが、優しい。そして、彼は言う。”僕も君みたいに勇気があれば・・。”その言葉を聞き、涙を流すペトルーニャ。 <ラストも良い。漸く解放されたペトルーニャに司祭が掛けた言葉”祝福を・・”。それを聞いて、ペトルーニャは司祭に十字架を返す。 彼女は、”幸せの十字架”が欲しかったのではない。 彼女は、女性としての尊厳を認めて欲しかっただけなのである。 保守的思想が蔓延る国で、自らの意思を貫き通したペトルーニャの姿は尊い、と私は思った。>
私は秘書希望です
あー誰も好きになれない、特にペトルーニャとなったらもう辛い映画の極地。何もせず家でダラダラ、のくせに母に当たり散らし現状に文句ばかり、大学出てるからってミシン使って働いている人を見下した感じ、秘書やりたいって絶対無理だし、友達も大事にしない。母は過干渉かもしれないが、何でも許す父が気に入らん! たまたま祭りでの十字架取りに突然脇から参加し奪った形になり、返せ返さないの展開はもう意味わからん。薄ら笑い気味に答えているペトルーニャときたらもういい加減にして。テレビリポーターも勝手だし、あーあー若い警察の人はいい人そうだったけどペトルーニャを気に入ったりしたとしたらあーあり得ん。
「聖なる十字架」を勝ち取り、「一番福」となった彼女のこれからは?
本作の主人公は学歴もあり、聡明なアラサー女性だが、 世間体ばかり気にする「毒母」や世間の風習、世の男たちのメンツとデリカシーの無さなどに翻弄され、人生の行き詰まりを感じている。 ある日、某世界三大宗教の女子禁制の儀式に主人公は無許可でやけっぱちで参加。 そして、その一年幸福が約束されるとされる「聖なる十字架」を手にし、その場から逃走する。 もちろん、この彼女の行動は、教会・宗教・マスコミを 巻き込んだちょっとした騒動となる。 ただ幸せになりたい女性、 伝統を守りたい教会、 どう対処していいか混乱する警察、 この騒動を利用して虐げられている女性たちの代弁者となりたい女性リポーター、 儀式に参加した信心深いのか敬虔な信者なのか疑わしい男性たち.... 登場人物は主人公を含めて卑しい奴らばかりだ。 (そこがこの作品の良さであり、人間社会のリアルを包み隠さず描いている) 私はどちらかといえば、フェミニストというよりはマスキュリストだ。 だから、この女性がこの後どうなろうが知ったこっちゃない。 したがって、祝福はできそうにもないが、 それでもどうか一年といわず幸せを感じられる人間になってほしいと願った。
主人公の女優の圧倒的存在感。 淡々としてるけれど、リアリティがある...
主人公の女優の圧倒的存在感。 淡々としてるけれど、リアリティがある。 中国革命を夢見て、決して自分を失うことはなかった強い女性。周りが全部クソでも、こんなに強く生きていける。素晴らしかった。
マケドニアまで行かなくても灯台もと暗しヨ~(笑)
なんだかよくわかんないけど、村の習慣はもやもやしているなぁ 自分たちが何かにとらわれているとか、住民は知るつもりも無くて。 昔からの雰囲気で、女には自粛と“わきまえ”を求めるのね。 同様に雰囲気的に、男たちには“女性を支配する日常”が求められているの。 正教会の宗教者だって村社会の長(おさ)として2000年やってるし、 「眞子様問題」はずいぶんと尾を引いているけれど、皇国でも「祝福の十字架」は男系の占有物だし、 眞子様を叩いて足を引っ張るのは圧倒的に同性の女たち。 陸の孤島マケドニアと、海の孤島の日本はよくまあこんなに似ているなぁ、という鑑賞後感だった。 (そういえば、看護婦さんが土俵=男の聖地に登って大騒ぎになった事件を思い出した)。 ペトルーニャ本人が「ジェンダーフリー」とかは分かってなくて、後先考えぬ衝動的なのがとっーても愉快で、僕は好きだ。 友だちになりたいタイプ。
マケドニアから届いたフェミニスト映画
最初のくだりで、毎年行われる西宮神社の副男を思い出しました。日本にも同じような行事がありますね。はっきりとした根拠や理由はないけれど、「女性は土俵に上ってはいけない」的な女人禁制の行事や習慣や伝統があります。
面接でのセクハラ&パワハラシーン。男性は知らない世界かもしれないけれど、私も同じような質問をされたし、日常的に起こっています。暴力的でいやらしい質問をしつこくされたペトルーニャは、退席しようとした。内心は仕事がほしいはず。でもこうした理不尽な行為に毅然とした対応をする彼女に賞賛と尊敬の思いでいっぱいです。私なら、抗議できずに我慢してしまう。あるいは愛想笑いでやり過ごす。日本女性は長らくこうして過ごしてきすぎたのかもしれません。
警察の尋問でもペトルーニャの知的レベルの高さが表れています。本来、これは違法行為という訳ではなく、逮捕できる案件ではないはず。手を変え品を変え繰り出される警察官や神父の説得や脅しにも屈せず切り返し、相手はぐうの音も出ません。
いい意味でADHDなのかな?と思わせる落ち着きのなさや「空気を読まない」姿勢が、彼女をこうした大胆な行動に出させたのでしょう。
ところでラストで、ペトルーニャがあっさり十字架を返したのはなぜだったのでしょうか。
神父が彼女にも「幸運を」と声をかけてくれたことで、頑なだった心が溶けたからなのか。または警官とのラブロマンスの予感で、すでに幸運は手にしたからだったのか(笑)。軽~いラストに少々拍子抜けしてひっくり返りそうになりました。
面白かった。
最初は現地の女性軽視の抑圧を打ち破る女性の話かと思っていたらぜんぜん違った。
お父さんも、若い警察官も、地元の司祭も、近所のおっちゃんも別に女性を軽くは見ていない。
確かに女性を軽視する暴力的な輩たちや、女性軽視という概念に凝り固まった記者は出てくるが、この人たちは同じ穴のムジナで、規定に凝り固まって進歩がない偏った人種として描かれている(記者は自分の欲望のために家族を壊し仕事仲間も失っていく)。
デブで引きこもりの冴えないペトルーニャは十字架を取ったが、依存的な母親や頭の固い警官や脅してくる署長に尋問に反発する中でどんどん本来の自分を取り戻す。目には確かな知性の光が宿り、言葉はいっそう理知的になっていく。それを見て若い警察官や司祭や検察官は彼女は正しいとの答えに達する。
これはペトルーニャが自分自身のアイデンティティを取り戻し自立する物語だ。
自分には力がある、自分は素晴らしい人間なんだと再確認できた彼女は(大学はオールAの成績だから元は賢い女性なのだ)そうなるともう十字架などというお守りはいらない。
このお守りは、現実を切り開き幸せを掴む力のない哀れな者たちのためにあるのだ、と最後は十字架を司祭に返す。
なんだか全てに納得のいく物語で自分にはとても面白かった。
(若い警官とのラブはちょっと唐突だったけど。)
伝統対進歩でなく、自己存在を問う物語
日本でまず見ることがない北マケドニア映画とあって、終映直前に見てきた。この国はヨーロッパの片田舎という感じだが、首都スコピエでなく更に田舎が舞台で、なんとも町の雰囲気も素朴な感じ。 女人禁制の行事で主人公の無職アラサー女性が幸運の十字架をつかんでしまう小さな事件だが、伝統対進歩の図式で報道しようとする女性レポーターも浮いてしまうような自己実現が難しい社会の中で若者が自分の存在を自問するという、どこか普遍的なテーマを抱えた映画なので、私たちにも何か伝わるものがある。
北マケドニア版 #Me Too ? 毒親との決別物語か?
たとえば、関西の正月の風物詩・西宮神社の通称「福男選び」。一等賞が実は女子だとわかったら、令和の日本でもきっと同じ騒動になるんだろうな。でも普通わざわざ女子は参加しない。受けるダメージの方が大きいことが予想されるから。ペトルーニャもそうだった。きっかけはあくまでも偶然。本人も言っていた。自分は動物と同じことをしただけど。その日の朝には、過保護で保守的で近所の目を気にするお母さんに出された朝食をベッドの中で食してしまう程度のダメ子だった。 賽が投げられた後は、どこの国にもいそうな自己顕示欲の強い「頑張り屋さん」の女性レポーターの手にかかる。本件は「進歩を妨げる伝統への固執」を徹底的に糾弾する物語へと進化を遂げる。ペトルーニャも本領発揮した。当たり前のことを主張して、毒親へのきついジャッジを下した後、抱きしめた。賢い32歳だから。小さなロマンスにも恵まれ、アップの顔立ちがどんどん美形であることが強調されてきた。 ストーリー展開はちょっと冗長だった。
コメディじゃないよ。
東欧のコメディかな、、、と思って観たが、、 ガチのフェミニズムもので、宗教物だった。 色々上手くいかない現状で勢い飲み込まれてやっちまった事ではあったが、怒られ逆ギレして粘る主人公を誰も説得出来ないし、正しい答えを提示出来ない。一触即発の膠着状態。 これがこの北マケドニアの現状なんだろうか、 宗教に緩い日本ではなかなか理解が難しい映画。 スカッとする映画じゃ無いけど救いはある。 小さな優しさに心の余裕がうまれるのだ。
逮捕?
女性は外見と年齢で、価値づけされている。 学歴や知性、能力ではない。まず、そのことが母との対話、面接の場面で強烈に示される。 ペトルーニャもそのことは痛いほどわかっている。そんな抑圧が、彼女の衝動的行動の伏線かもしれない。抑圧っていうほどのこと? そう、抑圧だと私は思う。 ペトルーニャの、私は価値ある人間だ、という堂々とした晴れやかさが良かった。
いいぞペトルーニャ!
まったりと、話は進む。予告編だけでほぼ映画の内容わかってたような。それでも、最後まで、結構痛快だったりクスクス笑ったりイライラしたり、登場人物すべてがなんとなく面白いのだ。失業者、というより働く気も機会もなかったペトルーニャ。見た目もいけてない。親は世間体かなんかでガミガミ。中国革命専攻の大卒インテリ?なのか。 小さな町で起きた事件をとっかかりにキャリアを伸ばしたいのか、フェミニズム主張を広めたいのか、シングルマザー子育てにも苦労しながら都会で過酷な競争社会に生きる女性レポーター。女性同士の共感そこにはなし。ペトルーニャにそういう意識は薄い、たぶん。
状況を超越する精神性の獲得
主人公ペトルーニャを演じた女優の演技が凄すぎて、映画が始まると同時にグッと引き込まれた。主人公に感情移入すると、上映中ずっと怒りと悲しみと恐怖の感情に揺さぶられっぱなしだ。 ペトルーニャの自由な精神性に対し、住んでいるシュティプという土地の精神性は封建主義であり、ギリシャ正教を強制する女性差別主義である。その代表選手がペトルーニャの母親というのだから、救われない。大学で歴史を学び、世界を科学的に客観的に評価することを学んだペトルーニャだが、母親の硬直した精神は溶かしようがない。 北マケドニアでも女性はご多分に漏れず容姿で評価されるというか、差別される。容姿のいい女性がいい仕事にありつき、キャリアを積むことができる。頭がよくても容姿がいまひとつのペトルーニャは仕事のキャリアがなく、キャリアがないことで面接で落とされる。 なんとも理不尽な出だしだが、帰り道で出くわした宗教イベントで、ペトルーニャの状況が一変する。男たちが真っ先に取ろうとして争う十字架を、タイミングよく川に飛び込んで取ってしまったのだ。女は取ってはいけない規則だと、ペトルーニャは土地のスクエアな精神性によってたかって責められる。その一番手は勿論ペトルーニャの母親だ。 敢えなく警察署に連行されてしまうペトルーニャだが、ここから彼女の頭のよさが発揮される。周囲にいるのは警察署長、司祭、それに十字架を女から取り返そうとする頭の悪い凶暴な男たち。ハリウッド映画であれば目に見える派手な解決場面を用意するだろう。フェミニストの団体が大挙してシュティプに押し寄せてペトルーニャを男たちから救い出すとか、または狂気のテロリストが、男たちをマシンガンで皆殺しにするとかだ。 しかしそんなことをすれば、その場ではペトルーニャの気は晴れるかもしれないが、明日からもシュティプで生きていかねばならないことを考えると、なんの解決にもならないことがわかる。フェミニストらしきテレビの女性レポーターは奮闘していたが、彼女の上司はスクエアな側だ。マスコミには何も変えられないことは、ペトルーニャには端からわかっていた。 本作品では、ペトルーニャの人生観や世界観が少しずつ広がっていく様子が伝わってくる。苦しい状況に置かれながらも、怒りや悲しみをコントロールし、徐々に恐怖を克服していく。司祭の身勝手な要求や警察署長の短気で愚かな質問を柳に風と受け流し、鋭い質問を浴びせて逆に彼らを追い込んでいく。 スクエアな状況が変わることがないのであれば、そんな状況を気にしないで超越して生きていく精神性を獲得するまでだ。短時間で波乱万丈の経験をしたペトルーニャは、すっかり成長してもはや怖いものがない。もちろん神など存在しないから、十字架にご利益などない。 頭のいいペトルーニャには感心したが、シュティプにも北マケドニアにも絶対に行きたくないと思ってしまった。
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