「人権を命がけで守る」黒い司法 0%からの奇跡 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
人権を命がけで守る
いい法定映画には必ずひとつかふたつ、弁護人による胸のすく素晴らしい台詞がある。弁護士の人となりが窺い知れる台詞だ。本作品にはそういう台詞がいくつもあった。
アメリカも日本と同じで、司法が行政権力から完全に独立することは難しい。特に最高裁判所の判事は大統領が任命することになっているから、どうしても司法が行政に忖度せざるを得ないのだ。日本ではもっと酷い。地方裁判所の骨のある裁判官が政権に反する判決を下しても、高裁や最高裁で必ず政権寄りの判決になる。その行政を仕切っているのが頭の悪いボクちゃんだから救いようがない。
なにせ「私は立法府の長」で「森羅万象すべて担当している」とのたまう総理大臣である。三権分立も何も解っていないのは明らかだ。検察を牛耳って権力を集中し、牛に鼻輪を掛けるようにして日本を好きなように引きずり回そうとしている。中井貴一主演の映画「記憶にございません」の総理大臣のように、小学校の社会科の先生から学び直したらいいと思う。冗談ではなく本気でそう思う。
本作品では「それがアラバマだ」という台詞が何度も発せられる。もちろん否定的な意味合いである。ムラ社会、古臭い価値観、既得権益、権力者の横暴など、田舎町では必要を遥かに超えて他人に干渉し、束縛し、果ては排除したり弾圧したり、人権蹂躙も極まれりである。それがアラバマなのだ。
アラバマ州はアメリカの深南部と呼ばれる場所にある。朝日新聞の編集委員だった本多勝一の「アメリカ合州国」を読んだ人は知っていると思うが、南北戦争が終わった後も、第二次大戦の後も、アラバマ州を始めとする深南部では有色人種、特に黒人に対する差別は根強く残り続けている。有色人種である本多勝一が乗った自動車も銃撃を浴びている。1955年のアラバマ州モンゴメリー市のバスで起きた逮捕劇をきっかけに、市営バスのボイコット運動が起きたのは有名な話で、キング牧師が中心となって活躍したことはよく知られている。
憎悪というものは歳を経ても薄れず、脈々と受け継がれる。石原慎太郎の「三国人」発言は2000年のことだ。敗戦から55年も経っていた。石原のような差別的な精神性は何十年立っても色褪せずに残っていく。1955年の時点で黒人差別が酷かったfことを考えれば、その65年後のいまでも黒人差別が色濃く残っているのは間違いない。ジョージ・ブッシュ・ジュニアはアメリカ南部のテキサス州育ちだ。
黒人が南部に行って弁護士をして社会的な弱者の味方をすればどんな目に遭うかは、最初から明らかだ。もちろん主人公ブライアン・スティーブンソン弁護士も解っている。それでもひとりで南部に向かう。その理由はストーリーの中で明らかになる。この弁護士の勇気と行動力には本当に頭が下がる。実在の人物として、現代史の教科書に載せてもいいくらいの出来た人間である。
殆ど出ずっぱりのマイケル・B・ジョーダンの表情がとてもいい。権力をカサにきた小役人の横暴にも黙って耐える。屈辱を晴らす方法は暴力ではないと知っているのだ。彼の武器は唯一、法廷闘争である。だからそのために全精力を傾ける。人権は市民革命によって命がけで確立された概念だ。それを守るのもまた、命がけなのである。
絶望的な展開もあり、胸のすく展開もある。死刑囚は必ずしも全員が冤罪ではない。登場人物には酷い人間もいるし、哲学者のような考え深い人間もいる。冤罪の囚人が善人とは限らしない。そのあたりはリアルに表現されている。
起訴をする警察と検察は行政である。司法は行政と被告とを同等に見なければならないのだが、裁くのが人間である以上、平等はあり得ない。判決は必ず偏っていると悟ることが必要だ。
ナチスがユダヤ人を排斥したのはその富を奪うためと、民衆の怒りの標的を提供するためだ。民衆の怒りとは結局、損得勘定に由来する。難民問題も突き詰めて言えば、自分たちの仕事が奪われるとか、文化の違いへの対応が面倒くさいとか、要するに既存の住民による損得勘定である。
アメリカでは奴隷として連れてきたはずの黒人が権利を主張しはじめたことで、これまで一方的に享受してきた自分たちの利益が損なわれたと感じた。その感情が怒りとなって黒人差別に直結する。
合衆国大統領は就任の際に聖書に手を置いて宣誓する。その聖書には「人を裁くな。自分が裁かれないためである」と書かれている。敷衍すれば、人を差別するな、自分が差別されないためである、そして人を許せ、自分が許されるためである、となる。つまり寛容が説かれているのが聖書なのである。
損得勘定だけで動く大統領が人々の支持を得ているアメリカは、もはや寛容を放棄して損得勘定だけの怒りの国になってしまっている。いっそのことスティーブンソン弁護士が大統領になれば、どれほどいい国になるかと思ってしまった。