ジョーカーのレビュー・感想・評価
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無敵の人
まさに日本で言う「無敵の人(貧しくて家族や恋人もいない失うものがない人)」であるアーサー。
完全に狂った男ではなく、笑ってしまう病気に苦しむ様、道化として病院の子供を喜ばせる仕事をしていたり、身のこなしが美しかったり、繊細な目をしていて、悪人に思えないのが悲しい。
この映画をみて「怖い」「狂っている」という感想しかない人もいるだろう。そうとしか思えない人がいる反面、どうしようもなく、自己投影する人もいるのが環境や性質の分断だ。
個人的には彼の動画をテレビで流して笑い者にしたテレビの人気司会者がウザかった。地下鉄で女性に絡んで、アーサーに撃たれる男たちも見覚えがある。あの人を馬鹿にしてる感じはものすごくリアル。あんな人々で巷は溢れているのだ。
自分に優しくしてくれた小男を撃たなかったのにはホッとした。
荒んだ世の中では誰でもジョーカーになるのは紙一重だ。
怯えた表情、笑い声の涙目、狂った暴力性、まさに怪演。
アメコミのヴィラン映画としてはカタルシスが足りない
前評判が良かったのと、ノーランのバットマンやスーサイドスクワッド等も観に行っていたので試聴。
本作のジョーカーは、孤高の悪のカリスマのヴィランではなく、劣悪な社会環境・家庭環境により精神を病み殺人を犯してしまった哀れなおじさんだった。
勿論、ホアキンフェニックスの演技はよかったのだが、映画自体は終始暗く、ストレスはあってもカタルシスは感じられなかった。
ジョーカーというヴィランの悪性、魅力は、ほとんど感じられず、哀れなアーサー君が殺人者に身を落としていく過程が描かれていた作品。
狂気もあまり感じられない…というか、アーサーが置かれた状況で精神を病んでいれば、殺人者になってもまぁ是非もないよね!という感想。
同日に視聴した『宮本から君へ』の宮本の方が、余程狂気的で恐ろしかった。
魅力的なヴィランであるジョーカーを期待するなら、観ない方が良いだろう。
ジョーカーが誕生するに至った説得力のあるストーリーを(面白いかどうかに関わらず)観たい人なら、観に行ってもいいかもしれない。
大多数の人とは意見が違うようですが…
あまりに多くの人を安易に殺してしまうので、感情移入ができない。もっと善と悪の狭間で葛藤する様子にフォーカスしてほしかった。その上で最後に1人裏切り者を突発的に殺してしまい、その罪の重さで狂人となってしまう方が私にはしっかり来るかなと思いました。なぜあんなにフォロワーが生まれるのか、その過程や理由がほしいです。
喜劇の上で生まれたジョーカー
アメコミ原作の映画とは思えないほどの作り込まれた作品だった。
現実と幻想との境界線が消えていって、どこまでが現実だったのかがわからなくなる。
特に物語のラストシーンを見て、今まで見ていたものを全てを疑い始めてしまった。
また、今回のホアキンが演じるジョーカーは今まで他の役者が演じていたジョーカーと違い、悪のカリスマ性は無い。偶然と環境によって、アーサーの意思とは関係無くジョーカーという存在が、中身の無い偶像として貧困の人々から崇拝される。
アーサーは誰かに自分の存在を認めてもらいたい願っているのに、それとは裏腹に次第に孤独になっていき、最後には混沌の権化であるジョーカーとなってもアーサー自身は誰からも見てもらえない。まさにアーサーは道化そのものであり、アーサーが辿った人生は喜劇であると言える。
これ程難しい役を見事演じきったホアキンは最高の役者と思う。
ジョーカーの仮面を被った現代社会の絵画的メタファー
サスペンスのように明確な客観的筋書きがあるのではなく妄想と現実の境界線が曖昧な主観的世界を観る。プロット自体は予想外の展開はなく、ある程度予測がつくもので社会的弱者が世の中の不条理に絶望し、復讐を図るという筋書きがありきたりに見えた人が多いのも頷ける。これを小説にしたところでよほどレトリックに腕のある作家でなければひどく退屈なものになるだろう。
だが、演技や音楽そして映像による味付けはこの主観を増幅させ、ありきたりな筋書きにずっしりと重みを加えてくる。観客の中には二回目は御免だと感じた人も多くいたと思う。特に主人公と境遇の近い人にはなかなか堪えたのではないだろうか。
さて、ここでのジョーカーはダークナイトでの彼とは別人である。バットマンビギンズを観ていれば明らかに繋がらないことがわかる。だがバットマンビギンズとこの映画には共通するシーンがある。それはバットマンことブルースウェインの両親がなもなきチンピラに撃ち殺されるシーンである。ビギンズを観た方はジョーカーでの同じ場面を観て如何感じただろうか?私は180度違う印象を受けた。ビギンズ鑑賞当時中学生だった私は不条理さ、やるせなさを覚えたが、今回はあろうことか「ざまあみろ」と感じたのだ。弱者が強者を叩く爽快感は、現実の社会でも多くを虜にしている。日本においても「上級国民」という言葉が蔓延り、法的手続きを蔑ろにして私刑を実行しようという者が現れる始末である(某○塚幸三事件など)。ピエロの仮面を被った集団は正にインターネット上のあなたでありうる。
因みに、ジョーカーのオリジンは原作でも複数ある。アメリカンコミックでは著作権は出版社に帰属することが殆どなので、各作者が自分なりにジョーカーのオリジンを描くことができる。だから、映画の場合も複数の監督がそれぞれジョーカーオリジンを描いてみるというのもありだと思う。マーベルはMCUで広がりを持たせ、成功させたが、DCも上手くやってほしい。ジョーカーもバットマンも好きなので。
反面教師になった映画
精神疾患があって社会に適応できなくて、理不尽な目にあって、社会や世間を憎んでても、ああはなりたくないと思いました。
コメディアンなんて才能と運が必要な職を目指してるのに、努力が全然足りてないし、自分の個性が周りに受け入れられないことなんて、当たり前じゃないかと思って、全然同情できなかったです。
証券マン殺してピエロを英雄視していた貧困層も、デモを起こしたり、街を暴れて破壊している暇があったら、貧困から抜け出して、上手く立ち回れるには、どうすればいいのかよく考えればいいのに、と思ってしまいました。
(学校は嫌い。僕はコメディアンになる)ってのは、いいけど努力が全く足りていないので、とても反面教師になる映画でした。
救われない街の救われない男の物語
ダークナイトが現れる前のゴッサムシティ。社会の底辺にいるアーサーには何の希望も無い。
そもそも精神的な病で社会から阻害され、
信じていた母親にも裏切られ、
ウェインにも邪険にされ、
シングルマザーとの恋愛など妄想に過ぎず、
あこがれていた有名コメディアンにも利用される。
そんな絶望的な日々をホアキン・フェニックスがガリガリな体で演じていく。
いつも日本のドラマで感じていた美男美女による難病もの、障がい者ものにありがちな違和感を感じさせない何かが彼のなかから静かに溢れている。
ジョーカーは、ジョークを言う人
同僚が低身長の人をおちょくる発言をした時の
アーサーの笑い(その後の真顔)、
スタンダップコメディを一人で聞きに行って
大衆とズレたところで笑う。
普通の人に混ざろうとする姿に胸が痛む。
母親と踊る時の表情、
バスで子供を笑わせようとする姿、
小児病棟での明るく優しいピエロ姿、
恋人を見つめる表情、
デニーロの番組を見る時の輝いた目。
笑わせて人を幸せにしたい、
そこから自分の存在価値を見つけたいという人間の姿があった気がする。
笑いのセンスはあまりなかったけども。
「本当に楽しいから笑うんじゃなくて、笑ってると楽しい(かもと錯覚できる)」と日頃から思っている私も、アーサーと仲間かもしれない。
低身長の人を殺さず逃がした時の強く優しい顔。
電車で殺した後のトイレでの恍惚な表情。
ジョーカーになって階段を踊りながら堕ちていく姿。
暴動の中のパトカーの所での最大の自己表現ができた姿。
ヒースのジョーカーとホアキンのジョーカーは人物像が違うので、ホアキンの覚醒したジョーカーの姿を、まだ若いサイコパスのヒースレジャーのジョーカーが暴動のどこかで見ていてダークナイトに繋がったのかなと思ったり。
ジョーカーの一連の出来事全部が、
最後の病院でアーサーが本当に笑いながら言ってた、思いついたおもしろいこと(妄想)だったのかなと思ったり。
ジョーカーはジョークを言う人、という意味なのでこの映画全てがジョークなのかもしれない。
アメリカンジョークが私には全然面白くないと思うことが多いように、アーサーのジョークは腹を抱えて笑う類のジョークではないけどアーサーにとっては面白いこと。
ハングオーバーで私はこの監督に笑わせてもらった。ハングオーバーを撮って、ジョーカーも撮る監督なんて、ジョークが過ぎる。やはり、笑いを作れる人は他の才能に長けているという私の仮説は正しいと思った(逆はスベる事が多い)。
ホアキン・フェニックス、凄すぎた。
最初のアーサーと、ジョーカーと別人のような演じ分け。
この映画、色々言いたくなり過ぎて長文になるけど
もう一つ付け加えると、ホアキンの顔があの眉毛の存在感のせいで私は苦手だったけど、ピエロメイクでそれが薄れ、自信に満ち溢れると、途端に好きなタイプの顔になることを知った。
モヤモヤが残る
多くの方と同様に、私もダークナイトが好きで、そのジョーカーの誕生ストーリーを期待して観に行ってしまい。
途中で違和感。あれ、ジョーカーってこんなんだったっけ?
そして、見るギアをジョーカーという名前の全く別の男のストーリーにチェンジして見続けました。
ホアキンの演技はすごくて、あの泣き笑いみたいな笑い方や、ガリガリの身体や、ダンスや、狂気に変わる瞬間など、片時も目が離せせなく。
現実と妄想の演出も街の狂気も、恐ろしさを感じるに充分でした。
でも、足りない。
ある男が、自分を取り巻く環境や病気から、狂気の殺人者となり、社会が彼を祀りあげる。
でも、話はそこで終わってしまった。
ダークナイトにつづく、なら無理矢理納得もしますが、このジョーカーはあのジョーカーではないんですよね。。
うーん。なんか、モヤモヤ。。
ダークナイトのジョーカーとは別物
ダークナイトのジョーカーの前日譚ではなく全く別のモノとして観ないと面白くない。ヒースレジャーのジョーカーは知的レベルの高い陽気な基地外テロリスト。何かと悩みがちな暗い正義のゴッサムシティ守護者バットマンとの対比が非常に面白かった訳です。が、ホアキンジョーカーは、ただただ不幸、暗い。こんなんでバットマンの敵になれるのかな?という感じです。(ただ、トイレや階段でジョーカーになってくシーンは素晴らしすぎてホアキン最高。美しい、キモい!怖い、美しい!この映画の価値は八割ホアキン)
バットマンとの年の差とキャラの違いに納得いかなかったのですがホアキンJKのビジュアルやキャラにインスパイアされてヒースJK誕生説が自分は腑に落ちました。
2つの視点
『悪のカリスマ誕生』を描いた映画だと言われると、それはちょっと違う気がする。
やはりヒース・レジャーのジョーカーと比べてしまう。ダークナイトもジョーカーが主役の映画と言っても過言ではなかっただろう。あちらのジョーカーは『悪のカリスマ』という言葉がよく似合う。
結論から言うとこの映画は良くも悪くも『期待を裏切られる映画』だと思う。ずる賢くてカリスマ性を持ったジョーカー像とはかけ離れている。逃げてばっかりで全然強くない。
しかし、『映画を見る人の視点』では今回のジョーカーはひとりの弱い人間でしかないが、『映画の中で描かれている群衆からの視点』で見ると、今回のジョーカーも紛れもなく『悪のカリスマ』だったのだと思える。
ーー以下、ネタバレを含む・・・ーー
治安が悪く『持てる者』と『持たざる者』の格差が広がる社会に暮らすアーサー。優しい性格の彼だが、ある出来事から生業としていたピエロの仕事をクビになってしまう。失意の中ピエロの衣装のままで地下鉄に乗っていたところ、暴漢に絡まれて持っていたピストルで3人を殺してしまう。何てことはない。よくある物語のプロットだ。
しかし、『映画の中の群衆』という視点で見ると、この瞬間だけがジョーカーとの接点になる。実は殺された暴漢はウェイン産業(バットマンの父親の会社)の社員だった。つまり『持てる者』側の人間だった。
ウェイン産業の社長であるトーマス・ウェインはニュース番組で「この凶行を許さない」と発言するが、この出来事は『持てる者』への不満が溜まっていた『持たざる者』の視点で見ると、ジョーカーは突如として現れた『社会の闇の代弁者』なのである。
ここから紆余曲折あるのだが、信じていたものをすべて失ったアーサーは結果的にテレビ局で電波ジャックを行うことになる。有名テレビ番組で自分がピエロ姿の殺人犯だと暴露し、『持たざる者』の不満をぶちまけ著名な番組司会者を殺してしまう。行き場のない個人的な恨みをぶつけることでアーサーは自分の物語を終わらせようとしていた。
アーサーはあっさり逮捕されてしまう。そりゃそうだ。もう何もする気はないのだから。何かをやり遂げた清々しいような顔で護送されるアーサーだったが、テレビを見て暴徒化した群衆によって救出されてしまう。
ーー『社会の闇の代弁者』は大胆にもテレビ局をジャックし、あっさりと逮捕されたかと思ったら群衆を味方につけて警察を翻弄するーー
地下鉄での殺人とテレビ局ジャックしか接点のない群衆から見れば『ずる賢くカリスマ性のある、いつものジョーカー』が社会の闇に舞い降りたということになる。
群衆に救出されたことで終わるはずだった物語は続き、ジョーカーという役割を背負わされたアーサー。沸き立つ群衆の中、虚無感と高揚感が入り混じる目と『笑顔の仮面』でお道化たダンスを披露する。まさに笑えない喜劇がスタートした瞬間だった。
このジョーカーがどのように成長していくのかは分からないが、『ジョーカービギンズ』として見るならとても面白い映画だった。「思っていたジョーカー像と違う」という批判もあるようだが、今まで我々のジョーカーとの接点はこの映画に登場する群衆と同じだったのだと思う。誕生のバックグラウンドを知らずに、今回起こした凶行だけ見れば『悪のカリスマ』という印象を抱くはずだ。
個人にフォーカスした人間としてのアーサーと、社会にフォーカスした今まで同様の悪のカリスマとしてのジョーカー。その2つの視点で見ても面白い映画なのではないかなぁと思います。
そんな感じで
ひょっとして
公開初日に観て、最後の数分の言葉が気になってずーと
考えていたが、やっぱり今回の映画は、
最後の精神病院の数分以外はジョーカーの考えた妄想ストーリーって事なのかな。
面白い話を思いついた。と言ってたからなぁ。
冒頭からいるカウンセラーの方が最後に出てきてた?
最初の精神病院を退院した経緯が不明、退院するにしてもあまり動けない母親が身請け人になれる筈がないと思う。
幼少の記憶がなぜ無い?脳の障害だから?
まず、バットマン登場前にジョーカーの名前が知れ渡っている状況は、過去の作品に無かったような。
私の無知かもしれない。
最後のシーンでカウンセラーがジョーカーがに笑った時に普通に質問している。笑う障害もジョークなのかな?
全部ジョークなら凄いね!
殆どの人を騙しているからジョーカーの手中範囲と思うとジョーカーらしいね。
主演と監督は素晴らしい作品を作ったと思う。
盗人にも三分の理
家族に高笑いをしたり叫んだりする障害者がいる。
虐待でそうなったわけではないのはこの映画とは違うが。
血を分けた家族といえどもその異常性に嫌悪感を覚えないわけではない。いくら病気のせいだとわかっていても。増してそのような近親者がいない人々に「やさしくして」と言っても期待はできないだろう。
主人公が憤りを膨らませる描写は特筆すべきところである。だが、そこから殺人に罪悪ではなく高揚を感じたというのは短絡的すぎる。やはりアーレントが述べたように「根源的な悪」とは存在しないのだろうか。とくにフィクションでもあるし。好まれない性質を生まれ持った者が笑いとともに押しつぶしている涙がどんなものか、それを知るには家族といるほうがいいようだ。
悪くもないが、オスカー云々と騒ぐほどアカデミックなできとは思えない。
サジー・ビーツが彼を慰めなかったのがよくわからなかったが、恋人になったのは妄想の中だったとパンフレットをみて知った。なるほど、うまくいきすぎだし。そのあとどうしたか、おそらく殺したシーンがあったんだろうけどカットされたか。
最後に閉鎖病棟で面接していたが、結局今までのは全部妄想だったか。まあ、どっちでも構わない内容だけれど。
格差問題だったり、あと、銃規制などの社会問題を盛り込みたかったのか、たまたまなのか。ハリウッドのお説教くさい政治メッセージは遠慮したい。オスカー狙いならなおさら。
虐げられ続けた人間の末路
誰でもシリアルキラーになり得るか?
映画で直接視覚的に描かれた不幸それ自体は、狂気の原因になるほどなのかわからない。しかし幼少期の虐待による脳の損傷がほのめかされている。機能不全家族の元で育った子供の人格形成への影響や、脳の損傷が反社会的人格障害の原因になり得ることは研究で明らかになっている。彼は生まれつきのサイコパスではないということだ。
ホアキンの演技はどの一瞬を切り取っても素晴らしいの一言だ。特に、罪を犯した後のアーサーの美しい狂気のダンスは見事だった。彼は自分に自信がなく暴力に無抵抗で、不安になると他の人を真似るが、殺人を犯すときは自信に溢れ明るい気持ちになり他の人を模倣したりしない。オリジナリティ溢れるカリスマになってしまう。
殺人が彼にとっての癒しであり自己実現であり、孤独を忘れさせてくれる向精神薬でもあるのだ。殺人が彼を肯定してしまった。
市の福祉支援がまだ続いていたら精神薬は切れなかった。権力者や資金を持っている層以外を切り捨てていくエゴの産物。
彼は理不尽に対して暴力でしか抵抗できない。後ろ立てもなく才能もない彼が身を守るため他にどんな術があるというのか。
殺される側の痛みもしっかりと描かれている。単純なカタルシスではなく嫌悪感と同情を同時に刺激される。
殺人への嫌悪感の中でも、群衆の歓声が少しでもジョーカーのあまりに傷ついた心の慰めになってほしいと願う自分がいる。
ジョーカーを讃える群衆の倫理観は狂っているが、ジョーカーファンの我々も同じことなのかもしれない。
被虐待者の(最悪の形での)解放に焦点を当てた傑作ゆえに、報じられる通り抑圧された者が後に続きかねない危険な作品でもあるのがつらいところ。
面白いけど、大絶賛…はできません
ジョーカーをあわれむ感想が多いけど果たしてどうなのかな。
現実の世界で起きる事件では、犯人と同じよう境遇の人がしばしば白い目で見られる事があります(オタクやゲーマー)が、アーサーには我々観客は同情の声を上げるものがいる。現実の事じゃ無いってわかっているから同情できるんだろうな。これが現実だったら…犯人に同情する人ってどれくらいいるのでしょうか?
見せ方も現実と虚構が交わていくのだけど新鮮味に欠ける…最近も観たな…あ、バードマンか…
虚構がバレバレで…どうせなら全てが虚構だったくらいでもよかった。
面白い、けど絶賛するほどでは無い。ただ人生の成功者から観ると…同情して大絶賛することになるのかな
きつい冗談
障害を持つ人が観たら主人公の気持ちに強い共感を抱くと思います。
周りからの反応など他者には分かり得ない苦しみがあり、その障害を持っているのも含めて自分なのに理解されず否定の気持ちで押し潰される。
そのような事を物語全体を通して描写されるので非常に痛々しく、重く、観るのが堪える映画でした。
主人公のアーサーを凄く丁寧な心理描写でこれでもかと言うほど掘り下げ、ホアキン・フェニックスの演技もあってか、かなり同情のできる人物に仕上がっていて一つの伝記映画を観てるようでした。
後半、常に無力感を味わっていたアーサーが全てのものから解放されて自己を超越し一つのシンボルであるジョーカーになった後の高揚感は共感の極致とでも言うのか、不謹慎ですが人が殺されていても感動さえしてしまいました。
街の闇の被害者であり、最終的に闇を体現した人物になった一人の男は現実でもいそうな事が恐ろしいです。
そういえば、これはどこまで現実なのだろうか
(・・;)
圧倒的名作
人生はクソだと、我々も薄々は気付いていますね。
成功した皆さんはそんなことないのかな。
私はその事実から目を逸らして何とか生きている勢なので、
こういう映画はもう、感情の置き所がありません。
もう笑うしかないよね。それが人生だ!
絶賛できる前日譚、でも賛美してはいけないJoker像
公開日、朝一で鑑賞しました。
読後感が半端なく充実した映画でした。
最初からネタバレしてる前日譚。
ラストには悪が開放されるのは、周知の事実。
にも関わらず、どこかで観たことあるという既視感は微塵もなく、Joaquin Phoenix演じるArthurの苦悩を、追体験するような映画でした。
個人的なピークは、やはり母の素性が明らかになってからの展開でした。
自分の笑顔を肯定してくれ、守るべき存在であった母が、脳に障害が残るほどの虐待を傍観していたとは。
実の父の判明に抱いた僅かばかりの希望も、実際には母の妄想。
最近できたはずだった恋人との交流も、母から受け継いだ妄想の賜物。
加えて、かつて自分を褒めてくれた大物司会者にも、失敗したライブを小馬鹿にされる。
いや、そもそも大物司会者との交流の記憶そのものが、妄想なのかも。
全ての拠り所を失ったArthurは自分に嘘を付くのを止める。
遂には、衆人環視の場で、怒りや衝動を剥き出しにして殺人。
この辺の感情の流れに無理がなく、"Dark Knight"の狂気に繋がる前日譚として完璧でした。
ただ、ただ、間違えてはいけないのは、だからと言って彼の後半の振る舞いに肯定できる部分はないということ。
本当に母を殺す必要があったか?
虐待の末、子供に突発的に笑ってしまう脳障害を追わせた罪は重い。
老いた母の介護の負担も大きかったろう。
でも、母の罪を知って絶望したのなら、病院に置き去りにして去ってしまえばいい。
ここまで特別な事情がなくとも、子供は親から巣立つもの。
親殺しという決着はやはり理解できない。
また、Randallへの復讐にも正当性はない。
たしかに銃を押し付けてきて、仕事を失うキッカケや、"Wall Street Three"を殺すキッカケにもなった。
後で、自身に責任が及ばないように、上司に虚偽の報告もしたのもRandall。
母の死を悼みに来たと思いきや、銃の件の口止めしようとしたのも、いけすかない。
それでも、銃を小児科まで持ち込んだのも、踊っていて落としたのも、Arthur自身のミス。
地下鉄での惨劇も、威嚇射撃程度に収めるか、最初の一撃が人に当たるのを避けられなかったとしても、もみ合ってたせいと主張できたし、正当防衛の主張も十分可能なケース。
後の2人を射殺したのは、明らかにArthurの意思。
Randallを好きにならなくてもいいけど、殺すまで恨まなくても。
もちろんJokerは、そもそも純然たる悪役であり、理由なく惨殺するキャラであり、正当性があるはずもない。
ただ、本作は没入感が素晴らしく、Jokerにアンチヒーローとして肩入れしたくなる気分も湧くので、映画って怖いなとも思いました。
本末転倒かもしれないけど、Joaquin Phoenix版のダークナイトも観てみたいです。
そして彼は脚光を浴びた。
燃え盛る炎と車のライトで彼を照らし
ピエロの面を被った暴徒達を観客として虜にした。
彼を「かっこいい」と思ったらいけないと思っていても、
その魅力は人間の本質に触れているからこそ
彼の人気は衰えることは無いんだと感じる。
すごかった
見終えてから1週間たつのだけど、心にべっとり貼り付いてはがれない。ムキムキでもなんでもなくても立派な悪者になれる。もう一回見に行かないとまずい。
地下鉄で殺人を犯すアーサーが、人を殺めた事に対して後悔や良心の呵責が一切なく、単にすっきりしていたことに驚いた。
爆笑問題の太田光さんが以前から、表現で殺人を行う人を「底が浅い」「誰でも思いつく」「センスがない」と批判していたのが思い出される。アーサーは最終的にテレビで司会者を殺すという表現を選択する。リハーサルでは自殺だった。まさしく、太田さんが批判していた行為なのだが、この映画はそういったセンスのない浅い考えに深く寄り添う。逆に言えば浅くてセンスがない人は、世間をびっくりさせるために他にどんな表現をしたらいいのだ?と思わせられる。
(追記)
初日に見て以来、毎日今もこの映画について考えているのでもう一回見て来た。
アーサーはコメディアンをいい年こいたおじさんが、青年のように目指している。舞台に立ったことは一度もなかったし、ネタも全然面白くない上に、いじられ耐性がゼロ。芸人に向いているかないかで言えば、全然向いてない。風貌も不気味で怖い。主人公だから好意的に見ていたのだけど、2回目は努めて冷静に見てみたらそうだった。殺人に全く後悔がなく、危険人物だ。
シングルマザーのヒロインとの関係が妄想だったと聞いて、気を付けて見たらネタバラシの表現が非常にさりげなくて、注意してなかったら2回目でも気づかなかったかもしれない。最初に一緒にエレベーターに乗った場面、部屋のドアのところでストーキングをしたのか聞かれた場面、彼女の部屋に侵入して出て行くように言われた場面だけが現実ではないだろうか。
地下鉄で3人を射殺する時に弾が多いなと思っていたのだけど、数えたら8発だった。
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