ジョーカーのレビュー・感想・評価
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漂う憂鬱感
この作品をダークナイトの追体験を求める場合、肩透かしをくう羽目にはなると思います。
派手さはないですが、全体に漂う憂鬱感や、ダークな空気感は、そこに浸る気持ち良さを感じさせてくれました。
前に観たアドアストラがブラピを観る映画で、本作は、やはりホアキンフェニックスの為の作品でした。
彼をただただ観る。彼にのみ、感情移入する。そういう作品です。
きっとこの作品の監督は、この作品を通して、誰にだって、ジョーカーになる可能性がある、ということを伝えたかったのではなかろうか、と私観ながらずーっと感じてました。だって、ゴッサムの世界、あの息苦しさ、なんか似てません? いつの時代だってそうなのかしら? 今の日本に似ている気がするんですよねー。
その監督の意思を(勝手に私がおもいこんでいる)感じただけでも、とても良い時間が過ごせました。
憂鬱になるくらい長い階段、その先の曇り空、どこまでも続く下り坂、ゴミの山の向こうのドーナツ屋、だれも掃除しない廊下、落書きだらけのエレベーター。
どこまで続くのだろう、この憂鬱な映像。
どっぷりと浸かりました。どっぷりと疲れました。
“White Room” by Cream
正にラストでの女性との会話が行なわれている場所が“白い部屋”ということで繋がっているのかと思いきや、実際使われているシーンは“町の暴動をパトカー越しに眺める”ところだったのだが(笑
今作品のテーマ性を回想するに、表面上での経済格差、それに伴う弱者の蜂起等が掲げられているだろうが、それより特異なのは、ストーリーの建付けとして、今作品の何処までが主人公アーサーの“妄想”で、どこまでが現実設定なのか非常に曖昧となっている作りなのではないだろうか。1回しか鑑賞していない、しかもパンフレットや原作も未読なので、初見のみで判断が前提だが、前述の通り、あの白い部屋は多分精神疾患病棟内の、しかも厳重な警備での面会室であろうことを思わせる。そして、手錠を掛けられている主人公の嘯く「ジョークを思いついた」「理解出来ないさ」。手錠装着は気になるが、あのシーン迄の延々と続いたアーサーの辛く厳しく、そして“悲劇”が“喜劇”に堕天した一連の叙述詩さえも、実はあの一瞬の思いつきである“ジョーク”そのものではないのだろうかと勘ぐってしまう印象なのである。いると思っていた彼女は実は妄想であったり、所々“信用ならざる語り部”的なフォーマットが差し込まれる件は、これら全てがまるでジョーカーの頭の中で描かれた虚画を見せられた、そんな解釈を抱いてしまう。もし、自分の見立てが間違っているのならば、どなたかご指摘頂ければ大変有難い。
幾度もひっくり返るアーサーの出生事実、そして幼少期の母親からの虐待は、背中に刻まれたケロイド状の痣の痛々しさや、トゥレット障害をより一層際立たせる“伏線”であり“回収”だ。周りに幾度となく心を抉られ、社会からの保護も失われ、底まで堕ちた男の生まれ変わりは、決して大袈裟ではない演出と、地に足の付いた演技としての俳優“ホワキン・フェニックス”の力量で、それがドキュメンタリーとしての要素も帯びた重厚な内容である。分かり易いBGMの効果音や、ニューヨークを感じさせるスタンダードジャズ、そしてあのクリームの有名曲を絶妙に配置することで、否が応でも主人公アーサーへの感情移入が逃れられない。正論を吐くTVショー司会者役の“ロバート・デ・ニーロ”の表現は正に現実社会の代表的意見に他ならない。弱者への労りを無くした社会はこうして“化物”を産み出す胎盤と化すであろう・・・と、ジョーカーっぽくはないが、これもジョークなのだろうか(苦笑
アメリカンジョークが今イチ飲み込みづらい自分としては、スタンドアップコメディの面白さが今作品の鍵であると感じたので、そこがぼやけてしまう事に、自分の理解不足を恥じる部分もあるが、それ以上に“ヒトをクった”作りそのものがジョーカーらしい興味深い作品である。「この人生以上に硬貨な死を」、尤も胸に刺さる言葉である。
ああ…畜生、格好良い
開始15分、縦長に構成された背景であぁ、此処はゴッサム・シティだとわかる
これまでジョーカーはジャックニコルソン版もヒースレジャー版も完成されたヴィランだった徹頭徹”支配する側”の輝きで私たちを魅了してきた
今作はそれはもうたっぷりとアーサーが踏みつけられ、笑いものにされ、殴り倒されるシーンが描写される、観客も道連れに
だからこそジョーカーとして覚醒した彼が暴動のただ中に躍り出るのが最高に気持ちいい
アーサーがストレスを受けた時の制御できない発作笑いが泣いているようにしか見えない痛々しい笑いだからこそジョーカーのメイクの下の片頬上げるニヤリ、や燃えるゴッサムを見つめる子供のような無邪気な笑顔がゾッとするほど魅力的なんだと思う
映画の中でなら何にでもなれる
スーパーヒーローが世界を救うなら逆だって有りだろう
ジョーカーと一緒にゴッサムを燃やし尽くそう
負の感情が辿り着く先。
私は本作の「狂気」という宣伝文句に少し安心しながら見始めていた。「狂気」の表現は大概、自分自身とは無縁といっていい表現であるし、物語を通して「狂気」にふれるとき、一種の怖いもの見たさのような、安全な場所から危険な様子を見て好奇心をくすぐられるような感情を楽しんでいた節がある。
ただ、実際のところ本作は「狂気」の物語ではなかった。むしろ日常にある負の感情や自身の中だけで凝り固まっていく感情が少しずつ膨張していって、「社会の中の自分」という外郭を破って出てきた自己主義的な主観風景が前に出てきてしまった、というように感じた。そうなってしまうキッカケは誰にでもあって、主人公・アーサーは運悪くそのキッカケに出会いすぎてしまった、というような感覚を抱いた。上映が始まる前の安心感みたいなものは、すぐに無くなってしまった。
この感覚を抱いてしまったのはきっと、アーサーの日常風景がすごくありきたりなものに見えたからだと思う。母と噛み合っているのかいないのかわからないような会話をしたり、テレビの向こう側の華やかな世界を見て自分もその中で選ばれた人間になれたらと妄想したり、良いことがなくて背中を丸めながら階段を登ったり…どれもアーサーの生活の一部であり、そして誰にでもあるすごくありきたりな風景だ。しかしそれは誰にも見られたくない負の感情を抱えていて、その負の感情をあそこまで生活臭のする空気感で描かれると、ジョーカーが突き進む先は私の世界と無縁の「狂気」だ、と言えなくなる。
この作品で見せつけられた結末は「狂気」という非日常の異常性ではなく、日常の中で積もっていく負の感情が辿り着いた先なのだ。そのリアリティが「狂気」とは違うゾッとするような恐怖を生み出し、本作の魅力になっているのだと思う。
ゴッサム・シティのカリスマが、もともと笑ってしまう病気を抱えていた...
ゴッサム・シティのカリスマが、もともと笑ってしまう病気を抱えていたという世界。
他のバットマン作品のジョーカーと同一人物かどうかは気にしなくて良い。嘘つきジョーカーに整合性を求めるなんてナンセンス。
報われない悲しい主人公。他のジョーカーを見てきた中で1番感情移入しやすかった。カリスマになった経緯も理解出来た。
バットマンの親を殺害したのがアーサーじゃないというエピソードが気になる。親を殺した犯人が後にジョーカーになる人なのかもしれない、などとロマンを感じてしまうエピソード。
BGMも構図も芸術的でとても良かった。
カメラの性能が良いだけでなく、監督の腕が抜群に良いのだろう。
敗者のカリスマ
バッドマンシリーズのジョーカーは、どこか人間離れした超人的なキャラクターでしたが、今作のアーサーは誰よりも感受性が強くて感性の塊みたいな人間だったので、意外と言えば意外でした。ただ、良く考えるとコメディアンという職業は、人よりも感受性が強くないとできないし、ジョーカーも感受性が強くないとあんな人間の闇を突く様な事を思いつくわけがないですよね。
アーサーが何故ジョーカーになったのかは、作品を鑑賞していれば自ずと理解ができると思います。アーサーは実際に殺されてはいませんが、実質は社会に殺されているのと同じです。
今年の夏に京都で無差別殺人がありましたが、日本に限らず世界中でも無差別殺人が沢山起こっています。アーサーも彼らもギリギリのところで自分を保っていたものが、何かのきっかけで爆発してしまった。それは、貧しさからの差別だったり、解雇されたり、馬鹿にされたり、そんな他人からしたら些細な事の積み重ねなのかもしれません。アーサーは特別に凶暴な人間ではなく、どこにでもいる資本主義に飲み込まれた敗者です。
資本主義のお祭騒ぎが終わり、気がつくと世の中はゴッサムシティじゃないか。私には、何の後ろ盾もないし、誰も助けてくれない。災害や不況で私達は簡単に貧困になる。人々は助け合うのではなく、自分より弱き人を押し除ける。アーサーは、ディストピア化した未来の私です。
興味深かったのが、アーサー自ら洗練されたジョーカーに変化していったのではなさそうだということです。周囲が、ジョーカーを奉りカリスマに作り上げていったのです。だって、自分達の代表が情けなくてダサい奴だと、自分も情けなくてダサい奴って事じゃないですか。
仮に観たものの全てがジョーカーのネタだったとしても、私達はこんなにアーサーに熱狂しています。アーサーに共鳴しています。私達は冷酷な強者を求めているのか?敗者のカリスマを求めているのか?
ジョーカーから離れられなくなる作品です。
凄まじい傑作
本作は予告編を見て、これは凄そうだと思っていたのですが、ここまで凄いとは・・・。
ホワキン・フェニックスの演技は凄い以外の言葉が出て来ない。それ以上に演出が素晴らしく、ワンカットワンカットを実に丁寧に作っているのには驚ろかされた。
監督はハングオーバー!シリーズを手掛けたトッド・フィリップス。あんな作品の監督にここまでの才能があったのかと、驚嘆してしまった。脚本と製作まで兼ねているのだから、本作は彼の世界観その物なのだろう。
映画の狂気さは「タクシー・ドライバー」なのだが、ロバート・デニーロが出演していることで、リスペクトしていることが良く分る。舞台が70年代というのも良く似た雰囲気を引き継いでいる。
それにしてもハリウッド映画が凄いと思わせるのはその時代考証だ。走っている車や建物など、70年代の物を全て用意していて、その舞台セットは驚異的だ。これだけでも本作は相当コストの掛かった作品であることが良く分る。
物語は善良な人間だった主人公が極悪なジョーカーになっていく姿を描いているが、その過程は、今の一般的な人なら誰でもジョーカーになり得る可能性を示唆し、現在社会への警鐘を鳴らしているような気がする。
余りにも所得格差が広がり過ぎた現在、映画を観終わって外へ出ると、心優しかったアーサーがジョーカーへ変貌した現実その物になっている。消費税が増税され、平民は益々貧しくなるのに対し、特権階級が数億の賄賂を手にしても権力を手放さない姿を見ていると、まさにジョーカーが生まれ育つ土壌が出来ているような気がする。
本作を見てから、バットマンシリーズを観ると、まるで見方が変わってしまう。バッドマンは親から巨万の富を引き継いで、潤沢な費用で最新機器や最新兵器を使って、悪を退治しようとする。対するジョーカーは自分の身一つだけでバットマンと闘っているのだ。
それを考えると富の象徴であるバットマンと、貧民の象徴であるジョーカー、どちらに感情移入出来るだろうか。その対比は今のアメリカとイスラム過激派の関係のようにさえ思える。
本作は演技、演出、脚本等、映画の完成度の高さは勿論、そのテーマの深さにおいてもぜひ一見する価値のある作品であると思う。
果たしてこれは事実なのかジョーカーの妄想なのか
アーサーがコメディショーで観客席から舞台にあげられるシーンで、唐突にアーサーの妄想が始まったところは見た人なら誰でも気づくだろう。
問題は映画の中のどこからどこまでが彼の妄想なのか、ということ。
思い当たる矛盾点と言えば、証券マン地下鉄殺人事件でアーサーが撃っている弾数が、リボルバーの装填数より多いのではないか?
ストーカーをされた同じアパートの黒人女性が逆にアーサーに好意を寄せるというご都合展開。
これらは考察サイトなどを参考にされたし。
どちらにしても、演出、演技、シナリオにおいても高レベルにまとまっている。
ジョーカーに覚醒していくシーンはそれが妄想だとしても、鬼気迫るものがあって面白い。
そのまま見ればアーサー可哀想、ジョーカーになるのも共感してしまう。
しかしバットマンシリーズ共通で虚言癖が激しいジョーカーのことだ、疑問が疑問が呼ぶ。
まさに怪作と言えよう。
圧巻の演技力
予告編に良い意味で裏切られた。
「純粋で心優しい男が世の中の不条理に
触れて悪となる」
このキャッチフレーズこそがジョーク。
ラスト近くの白い壁の部屋でのカウンセ
リングのシーンだけが現実で、それ以外は
全て妄想であり、アーサーの人生こそ
最大のジョーク
そんな風に解釈しました。
ホアキン フェニックスの演技は見事です
もう一度観に行きます
掌の上で踊らされる道化
なんて可哀想なアーサー、なんて不憫なアーサー、やっちまえアーサー!
では終わらせないジョーカーの嗜み。
ダークな興奮を愉しみつつ常に感じていた違和感を回収し虚無の中へ突き落としてくれる、ジョーカーの戯れ。
生きづらい世の中をギュッと凝縮させたような、そんな街における受難と引き金の物語としてちゃんと面白かった。
何度も息が苦しくなり、彼の不遇をとても近くに感じる。
アーサーが笑うたびに背筋に何か冷たいモノが走る。
突然笑ってしまう、笑いたくない時に笑ってしまう、という病気の設定が面白く、興味深かった。
渡すカードのヨレ具合から、何度も何度も同じことをしてきたんだなとわかる。
彼の笑いは非常に薄気味悪く不自然で不愉快的。
泣いているようにも苦しんでいるようにも見えて本当に痛々しい。
キツい不条理の数々。
だんだん人の道を外れていくアーサーに恐怖を感じつつ、ワクワクしていた。
地下鉄の銃殺も、"こうなった原因"とも言える母親殺しも、ランダル惨殺も、彼がそうするたびに生き生きとしていくようで、どんどんテンションが上がってくる。
極め付け、カメラの前でのマレー・フランクリン銃殺。
正直もう嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
絶望的な世界の中で、ただ一つだけ持っていた憧れや縋りの先、大好きな人をこの上ない状況とこの上ないタイミングで殺せた幸福。
話したり動いたり何かをしている最中に、死の予感も何も無いまま突然銃弾が頭を突き抜ける恐怖というものに最近ハマっているので、ちょっとしたホラー的な快感もあった。
アーサーを引き金に市民の怒りが大暴走した街中、神々しいほどのポージング、雄叫びと広がる炎にため息。
ブルース・ウェインとのすれ違い方も良い。
しかし、どうしても感じてしまう違和感。
アーサーが何か犯すには必ず納得のいくような理由がある。わざとらしく共感を呼び飲み込もうとしてくる姿勢には常に疑問を抱いていた。
ジョーカーが自分の怒りや苦しみのために残酷になるような人だとはどうしても思えなくて。
人間の持つ悪意や負の力を信じて賭けてくれていたジョーカーが、原点とはいえこんなわかりやすい理由を持って行動するだろうかと。
バットマンシリーズは未鑑賞、「ダークナイト」のみ本作鑑賞の前日にやっと観たくらいのベリベリ初心者が偉そうなこと言ってんじゃねえ!と思われるかもしれないけれど。
それでも劇中から感じた興奮は本物。
そして、その全てを嘲笑ってくるようなラストには少なからずショックを受けた。
私こそまんまと掌の上で踊らされる道化だった。
正直、怒りすら感じるほどの虚無感。
鑑賞後、ジワジワと実感が湧いてくると共にこの映画にひれ伏したくなる。
これこそジョーカーの目的だったのかも。
虚構の物語に嵌まり一々アーサーに共感し寄り添ってみせた我々を見下し利用してみせる彼。なんて腹立たしい。
人間の善意や良識、仲間意識というものをいとも簡単に踏み潰してくれる人。
思い返せば、アーサーがジョーカーに変わるきっかけ、そのタイミングはいくつもあった。
不穏な表情に不穏な音楽、「あ、ここでジョーカーに切り替わるのかな」と思ったらそうでもない、の繰り返し。
最後に自らの血液で笑う唇を描いた時にやっとジョーカー覚醒かと実感してみたものの、そもそもあの物語の中のアーサーはジョーカーじゃなかったのか。なんて虚しい。
と、私は思っている。
けれど、あのアーサーの物語に実体はちゃんとあり、最後の白い部屋は彼の逮捕後、だとも考えられる。
時系列的にこの映画の前に置いても後に置いても辻褄が合うよね、たぶん。
何が真実かはわからない。
傷の話もコロコロ変えて話すような人。
初心者の私ですら、ジョーカーがやっぱり理解不能でいてくれて良かったなんて思ってしまうくらいの。
シリーズやキャラクターのファンはこの映画をどう感じるのか気になる。
庶民の生活の厳しさが常に叫ばれ、少なめの手取り額がSNSのトレンドに上がりあーだこーだと論争を繰り広げる今この日本。
ここはゴッサム・シティではない、ゴッサム・シティにはならない、なんて言えるだろうか。
どこまでも不公平な社会に対する不満も怒りもあるけれど、まあ楽しく生きてるしな〜くらいのスタンスは変えなくて良いや。
最後に一つ、彼がスクリーンに映るたびに何度も何度も何度も何度も思ったことをここに記しておきたい。
ホアキン、脚なっっっげ!!!!!!!!
期待していただけに
一言でいうと、合わなかった。
途中で、眠たくなってきたし、ジョーカーのやっているとこと、妄想の区別が分かりにくい。そう作ってるんでしょうけど、、、。
マレーの番組には、出て、マレーを殺したんですよね?
あれも、妄想かなとか思っていて、ジョーカーの変化。妄想から現実への転換もいまいちでした。
さらに、民衆が支持した理由もよくわかりませんでした。
電車で殺した嫌な社員もウェイン産業と関連させる必要もないかなとか。少し落ち着いて、年齢考え考えたら、子供違うとわかるやんとか、完全に病んでるだけと感じました。
今後、バットマンと戦う相手として、楽しみに思えなかったのも、残念でした。
俳優さんの演技は素晴らしいけど、脚本は好きになれなかった。そういう映画なんですね。
これは
バットマンのジョーカーでなくて、違う映画で良かったんじゃないでしょうか?
バットマンはお金持ちだけど、ジョーカーが受けた金持ちからの仕打ちをバッドマンに返すのはなんか違うようなー。
むしろ違う映画の方が、アーサーの刹那さ、怒りが伝わったような。いい人は一人も殺してない、いい人だし…シリアスすぎて、バットマンが悪者になってしまったら本末転倒。もう少し、コミカルに描くか、完全に恐怖ホラー映画にするか、違う映画にして欲しかったです。
窮鼠
えらい力のいれようだ。
これほどまでに妥協を許さない作品を観た事がない。ホアキンしかり、音楽しかり、編集、アングル…これほどまでにストイックに作品と向き合えるものなのだろうか?
一切の無駄を感じない。
どんな大作であろうと、作品のどこかに監督や俳優のエゴやマスターベーションを嗅ぎ取ったりするわけなのだが、本作にはそれがない。少なくとも俺は感じなかった。
このスタッフとキャストは、一体何と戦ってきたのだろうか?
まるで、真剣の切っ先を喉元に突きつけられていて、その切っ先から目が離せないような…強制的に視線と集中力をもってかれる。
物語はジョーカーの成り立ちなわけなのだが、そこに至るまでのなんと分厚い設定なのか。
たかだかアメコミのキャラにここまでの背景が必要なのかと首を傾げる。
もう挙げるのも面倒なくらい大量のメッセージが投入されてて、それらが見事なまでに流れて繋がっていく。
この脚本家はホントに天才だと思う。
突如笑い出す病気って何?
アレは原作の設定?それとも本作のオリジナル?その病気がもたらす弊害と疎外感。
その特異な病は虐待されていた子供時代に受けた後遺症なのだとか。
その虐待の元凶となる母親の妄想癖。その妄想癖に毒されている自分。精神の破綻を告げる現実逃避の第一歩。
手に入れた愛情が、全て自分の妄想だと分かった時の表情…アレは人のものなのか?ミイラでももっと生気を感じるぞ?
貧しさと孤独と絶望と、それらの描写が漫画っていうカテゴリーから逸脱しまくってる!
超社会派な仕上がりなのだ。
それでいて、しっかりバットマンの枠組みに帰結させる展開などは鳥肌ものなのである。
ウェイン家がジョーカーを生み出し、そのジョーカーがバットマンを生み出す。
そんな複雑な因縁、漫画にいるか!?
拍手喝采、全身の毛が総毛立つわ!
アメリカで問題になるのは銃のくだりなのではないだろうか?
社会的弱者が、それでも正しく生きようと努力していた人間が、指先一本で狂気に染まる。
生放送の番組で、街角の街頭インタビューで、ジョーカーを模倣するものが現れる。
その引鉄が「銃」なのだ。
だが、そんな事を危惧せねばならない程に現代社会は病んでいるという事の裏返しではないのだろうか?
ジョーカー自体は扇動者ではない。
この社会に虐げられている者の1人だ。
自らを卑下して生きている人間の1人だ。
先導もしなければ提唱もしない。
担ぎ上げられた偶像なのである。
社会が生み出した狂気という立ち位置に、十分すぎる説得力があった。
今までのジョーカーは狂気の側面だけがピックアップされてたが、その本質に目を向けると、結局は自分の中にもある狂気に目を向ける事にもなる。道徳心や法という枷があるから実行はしないものの、一度スイッチが切り替わればやってしまうんじゃないだろうかと思う。
そんなあり得ないリアリティをこの作品は感じさせる。偏にホアキンの役作りの賜物であり、一切の無駄を感じない。
何一つ澱む事がない。
奇妙な走り方も作り上げ、ストイックに突き詰めたのでなかろうか?適当に踊っているようなダンスにも、何故か必然を感じる。
それはアングルにも思う事で、まるで映画の神様が撮らせてくれたのかと思うようなカットの目白押しなのである。
印象派の画家がカメラを回したのかと思う程、その切り取られた絵は絵画的であり、崇高で神聖なもののようにも見える。
アレを一発で据えたとしたなら、あのカメラマンは神か悪魔のどっちかだ。天才って言葉すら陳腐に感じる。
大作と言われる映画を数々観てはきたが、それらが遠い過去のようにも思う。
流れるDNAが違うというか…抜本的なものから変革された一編のように感じる。
アメコミのキャラなのだけど…彼を通して雄弁に語られるメッセージは辛辣であった。
これは人がもつ闇の話ではない。
むしろ、人は本質的に闇をかかえており、安易に産み出される感情の一例に過ぎないのだ。
環境や境遇、立場が変われば、その瞬間からカウントダウンされる時限爆弾のようなものだ。
それにつけても、本作のジョーカーは見事だった…大輪の華のようでもあるし、それが開花した時の儚さというか危うさというか…主演ホアキン・フェニックスはとてつもない偉業を成し遂げたと思える。
クランクアップした瞬間、彼は憑物が落ちたかのように放心したのではなかろうか?
幾日も幾晩もジョーカーの重圧に悩まされてたのではなかろうか?
解放されて、生きた心地を取り戻したのではなかろうか?
そんな妄想を抱く程、彼の演技は神懸かっていた。
映画の原点であり、現段階の最高到達点のようでもある作品だった。
すげえモノを観た。
誰の中にも「ジョーカー」はいるのかも知れない
悪のカリスマは、どのように生まれたのか。
バットマンシリーズの人気ヴィラン、ジョーカーにスポットを当て、
彼が「ジョーカー」そのものになるまでを描いた作品。
近年の映画では珍しく、吹替版の公開が無い。
その理由としては、やはり本作の印象を決定付ける「ジョーカーの笑い声」の為だろう。
吹替にした時のズレは、きっと作品そのもののズレに繋がる恐れがある。
それ程に、主演のホアキンの演技は凄まじい。配給側の英断とも言えるだろう。拍手。
本作の大きなテーマの一つとして、
純粋な悪意は、本人にとっての真実。と言ったメッセージがあるように思う。
主人公のアーサーは、一つずつ、自身の手にしているものを奪われていく。
タイトルロゴの出方、オープニングシーンは、正に「奪われるもの」を象徴するカット。
あまりにも格好良いロゴの出し方だ。
生活の中で、自身の「突発的に笑ってしまう」障害と闘い過ごしながらも蔑まれ、
信じていたものや、信じたいと思ったものが崩れていき、
彼自身のみが残った時、心のままに生きた時、どのような思考になるのか。
どのような行動を取るのだろうか。
最初から壊れていたのか。
それとも、奪われて、失った事で、己のみの正しい姿を見つけたのか。
人は、もしかしたら最初から壊れていて、
それでも社会や周りとの繋がりによって、
世界の価値観による「正しさ」の上を歩こうとしているのかも知れない。
彼自身が元々障害を抱えている為、真実と虚構が混じる為、
本当に奪われているのかも分からない。
しかし彼は奪われる。全てを失う。最後には自ら手放して、そして「笑う」。
その繋がりを失った時、本当の人間と言えるものが現れるのだとしたら。
そんな事を考えさせられる作品でした。
何より、ラストシーンの暴動のカットは、
アーサーの主観を通してみた世界では、
あんなにも暗く汚いゴッサムとは比べ物にならないくらい美しい。
その感情の動きが純粋と呼ばれるのなら、
きっと誰の中にも、やはり「ジョーカー」は存在するのかも知れない。
余談だが、
本作を観るに辺り、やはりダークナイトは避けて通れない。
明らかにダークナイトのヒース版ジョーカーへのリスペクトを感じるシーンがあり、
ジョーカーと言う「悪意」への制作側の熱を感じる。
何よりも、バットマンシリーズを触り程度でも知っているだけで、本作の世界観にかなりの奥行が生まれる。
逆を言えば、界隈の常識を使ったネタが多い為、バットマンをまるで知らない人は、若干なりとも世界感の観点で飲み込みが遅れてしまう。
ただ、ダークナイトは面白いが……ビギンズがツマラナイから……。
ラスト前で、バットマンでフィギュア化もされている某有名シーンもきっちり入れるあたりも、ファンサービス色が強い。
本当の意味で楽しむために、最低でもビギンズ・ダークナイトの5時間視聴をお勧めする(内2時間半は苦行だろうが……)
狂気がはじまる!
ホアンキンは、24kg減量した。
ガリガリだ!
指をピストルみたいにコメカミに当てて
ピシューってする女性。
僕は、トラビスをなぜか思い出した。
そしてラストは、デニーロの頭を打ち抜く!
そしてブルースは、孤独になった。
狂気がはじまる!
ダークサイドへと落ちる
ダークナイトでヒースレジャーが演じるジョーカーにとても衝撃を受けたので。
とても観るのが楽しみでした。
ホアキンフェニックス演じるジョーカーは
ヒースレジャーとはまた違った良さがありましたね
ヒースレジャーのジョーカーはもう、完全に狂いきった後のジョーカー。
だから主役のバットマンすら霞むほどの黒い光をはなってたんだけども。
ホアキンフェニックスは、儚げで、おれそうで、
重く、暗く、不安定。
子どもの頃、母親の彼氏にひどい虐待を受け
母親は助けてくれず、その母親も精神的に狂い
鬱々した人生をずっーと送っていたアーサー。
幸せだったことなんて一度もなかった。
ってアーサーは言っていたけど。
冒頭で、アーサーが化粧台の前で
とてつもない悲しみを抱えながら、それでも
なんとか笑おうとしている姿は
本当に切なくなりました。
人生の中で、とても辛くて、悲しくて、
このまま一生笑える日が来ないのではと
思うことってあると思うし、実際わたしにも
経験はあるのです。
だから、このアーサーの悲しみって
なんか、共感できてしまう。
彼はずーっと、薄れることのない
悲しみと、絶望感の中にいて。
そのダークサイドを見つめすぎて、ついにその中の住人になってしまったんですね。
本当は別の道もあったはず。
彼が幻を見ていた、同じ階の女性との恋。
心の底では、幻を見るほどにそういう幸せを望んで
いたのでしょう。
でも、その幸せなほうを彼は選ばなかった。
ジョーカーが、持っていた感情って誰しもが持っている物のような気がします。
それが、周りの環境や、出来事によって
ダークサイドへの入り口まで簡単に引っ張られてしまう。
でも、そこでその扉を開くか開かないかはやっぱり
その人次第なんですね。
前半の弱々しいさから、一転して後半の
飄々として、狂気にみちたジョーカーへの
変わり具合は、さすがホアキンフェニックスだな
と、思いました。
すごい俳優さんって喋らなくても、感情が滲み出てるけど、今作のホアキンフェニックスはもうやばいレベル。
滲み出すぎて、本当怖いくらい。
あの、笑い声。
観終わったあとでも耳に残ります。
WHITE ROOM
で、毎度毎度痺れる。。
もうすぐ公開される"ジョーカー2"に合わせて、現在リバイバル上映されている本作を鑑賞してきました。
このレベルの作品になると、こちらには初見の方はいないだろうから、あらすじ云々は省略で。。
私は、様々な媒体で3、4回位観ているのだが、解説とか見ていないので、
初見の先入観が拭いきれず"決めつけ"ている部分もあるかもしれませんが。。
しかし
観るたびに実はほとんどがアーサーの妄想に思えてきて立ち止まってしまう。
(DCやアメコミは詳しく知りません)
この信頼できない語り部がみせる現実と妄想にいつも溺れてしまう。
差別・貧困・病気、社会的弱者という背景。
自分ではどうしようもない怒り。
彼に同情しても良いのか?
心優しかったアーサーは、理不尽だらけの世の中の犠牲者なのか?
民衆に祭り上げられた哀しいピエロは、我々の代弁者なのか?
本当に"弱い者"なのか?
現実逃避の先に希望を見たのか。
その希望は願望から作られた都合の良い妄想なのか。
辛い現実から逃れるための手段として彼の中で美化された妄想に、鑑賞者も混乱させられ、徐々にアーサーと同化していく恐ろしさ。
彼に付き合わされてしまうのだ。
私が、あなたが、
アーサーに共感(共鳴)して
"しまった"所が、もしかしたら彼の妄想
(嘘)だとしたら。。と、考えると、
又また恐ろしい。。と、思うのです。
言わずもがな、ホアキン・フェニックスの魂の芝居に圧倒される。
これが見たくて、あまり観たくないのに観てしまう。
痩せこけた身体にアンバランスなピエロのメイク。
不気味で異様なのに、美しいとさえ思ってしまう。
初見から何年も経っているのに、こんな風に思い続けているという事は、
まだ、取り込まれたままなのか。。
だって、勿論続編も観るし今から楽しみだ。
5つの謎を検証
※ネタバレを含みます。
※ストーリー解釈がメインなので、
映画を見てから読んでください。
とにかくホアキン・フェニックスの
演技が素晴らしい作品だったと思います。
後世に残る名作だと思います。
最後に大きなオチがあるので、
まず主人公アーサーの物語をおさらいします。
【ネタバレを含むあらすじ】
弱者に不寛容な生きづらい社会。
脳の一部を損傷し笑いが止まらなくなる
病気を抱えた主人公は
人々に馬鹿にさられながらも
「狂っているのは自分ではなく世間の方だ」
と信じて、病弱な母親を介護しつつ
貧しく苦しい生活を健気に生きる。
夢は人を笑わせる
スタンドアップコメディアンだが、
毒舌や皮肉の才能はなく
人から笑われるピエロの仕事をしている。
ある日、電車内でエリート会社員3人に
ピエロ姿を馬鹿にされた上で暴行され、
持っていた銃で3人を射殺してしまう。
罪悪感があるものの、
なぜか気分が晴れやかになる。
貧富の格差が広がる中、
ピエロ姿の犯人は英雄視されるようになる。
主人公は定期的にソーシャルワーカーに会い
精神薬を服用していたが、
社会福祉縮小のためサービスが打ち切られ、
薬を貰えなくなり、妄想を見るようになる。
そんな折、母親の手紙を読んで
街の有力者トーマス・ウェインが
実の父親であると知り、
異母弟であるブルースに会い
ウェインに確認しに行くが、相手にされない。
自分の出生について知るため
母親の過去を調べようと、犯罪者を収容する
アーカム精神病院でカルテを奪う。
すると自分は養子で、幼少時に
母親とその恋人から虐待を受けており
自分を苦しめてきた脳の障害は
その後遺症だと知る。
狂っていたのは世間ではなく自分だった。
人生を破滅させた母親を優しく世話してきた
自分の人生は喜劇である。
主人公は母親を殺し、
ジョーカーとして生まれ変わる。
自分を陥れた同僚を殺し、
テレビのトーク番組に出演し
会社員殺害を告白。
殺害理由は音痴だったから。
(ジョークのつもり)
そして昔から父のように憧れ
尊敬していたトーク番組司会者を
生放送中に射殺する。
(最高のジョークのつもり)
(※killing jokeと呼ばれています)
街は貧困に喘ぐ暴徒で溢れており、
ジョーカーは彼らのシンボルとして
崇められる存在となる。
そして母親と同様、
アーカム精神病院に収容され
日々妄想を見て過ごすことになる。
これがのちにバットマンの最強の宿敵となる
ジョーカーの誕生秘話である。
【5つの謎を検証】
①どこまでが妄想でどこからが現実か?
いわゆる「信用できない語り手」という手法。
主人公の妄想と現実が入り混じって
境界がよく分からない作りです。
一部トークショーの観客席にいる所と
ソフィとの関係は妄想ですが、
ここでは、冒頭からすべて現実で
「最後に精神病院で思いついた何か」は
妄想である、という路線で進めます。
その「何か」については⑤で取り上げます。
②ジョーカーはあのジョーカーなのか?
主人公はバットマンの最強の宿敵である
狂人ジョーカー自身なのか、
それとも主人公に影響を受けた
暴徒の一人がジョーカーになるのか。
最後に主人公を車から引きずり出して
祭り上げた仮面の若い男や
ブルース・ウェイン(のちのバットマン)の
両親を殺した仮面の若い男が
あのジョーカーになるのだろうか
と一瞬思いました。
主人公に影響を受けた
暴徒の一人があのジョーカーになり
第二第三のジョーカーが生まれていく
という面白い発想かと思いましたが、
やっぱり主人公が
あのジョーカーという気がします。
その理由は③で説明します。
③なぜ主人公はジョーカーになったのか?
この作品を見た人の多くは
誰でもジョーカーになり得る、
弱者に不寛容な社会こそが
ジョーカーを生み出したのだ、
という論調だと思うのですが
冷静に考えるとそうじゃない。
ジョーカーを生み出した原因は
紛れもなく脳の一部の損傷で、
そして福祉サービスの打ち切りにより
精神薬を飲めなくなったこと。
なぜ脳を損傷したかというと、
ほかでもない今まで尽くしてきた母親と
その過去の恋人から虐待されていたからです。
弱者に冷たい社会が悪い、
自分と母親は健気に生きる
清く正しい貧困層だ、と信じてきたのに
実際は妄想症のある毒親とその子供だった。
それを知って、客観的に見て
自分の人生は喜劇である
と主人公は感じました。
そこからはほとんどあのジョーカーです。
一番輝かしい舞台はトークショー出演です。
ピエロのメイクをして
エレベーターに乗るシーン、
階段を踊りながら降りるシーン、
トークショーで紹介されて出て来るシーン、
めちゃくちゃかっこよかったですね。
この時、主人公は自殺するつもりだったので
最後の晴れ舞台への緊張感からか
ジョーカーとしての自信からか
別人のようでした。
そしてここまで容赦なく
「ジョークとして」人を殺すのは
主人公があのジョーカーである
根拠となると思います。
社会に対しての怒りなど、
簡単に説明のつくありきたりの理由では
あのジョーカーにはなりません。
という訳で、
社会に不満を抱いている自分も
もしかしてジョーカーになり得るかも、
と恐怖を感じている方、大丈夫。
そんなことではジョーカーにはなりません。
④ブルースとは異母兄弟なのか?
主人公の母親は30年前に
ウェイン家で働いており若く美しく
ウェインからラブレターをもらっている。
(当時の母親の写真の裏に
「君の笑顔を愛す。TW」と書かれている)
母親が主人公と養子縁組をしたのは
ウェイン家で働いている時だった。
精神疾患のある独身女性が
養子縁組できるわけもないので、
この時は精神疾患(妄想症)がなかった
と思われます。
その後、ウェイン家を追放されている。
母親は妄想症になり、
恋人の男性に暴行を受けながら育児放棄、
息子は恋人に虐待を受け脳の一部を損傷する。
そしてアーカム精神病院に入院する。
この事実から考えて、
主人公はトーマス・ウェインの息子(落胤)で
ブルースとは異母兄弟である
という可能性は残されていると思います。
ウェイン家は養子縁組という形式を取って
息子を母親に引き取ってもらった。
ちゃんと子育てをするようなら
資金援助をしようと思っていたけれど
母親が暴力男と一緒になり
息子を虐待したので関係を断ち切った、
ということだったかもしれません。
母親の精神病院のカルテをじっくり検証したい
と感じました。
⑤最後のシーンはどういう意味か?
この作品はバットマンを知らなくても
楽しめるようになっているのですが、
それだと可哀想な犯罪者の物語で終わります。
もちろんそれだけでも相当クオリティが高く
映画館で見る価値がありますが、
バットマンとジョーカーの
設定を知っている人は
最後のシーンでもっと楽しめます。
主人公は精神科医と話しているうちに、
路地裏で両親を殺された
ブルース・ウェイン少年が
将来バットマンになって悪と闘う
というジョークを思いつきます。
また、ジョーカーの設定として
ハーレイクインという元精神科医の
恋人がいるのですが、
それは精神病院での面談によって
思いついたものと読めます。
つまり
バットマンシリーズの物語の
生みの親はジョーカーである、
というお洒落なオチなのです。
そう言われてみれば、
エリート会社員の殺害はどことなく
バットマンを彷彿とさせます。
勧善懲悪の自警団で悪を滅ぼす。
もともとバットマンシリーズでは
バットマンが正義の味方になったり
復讐の鬼になって悪に染まったり、と
単純な二元論では終わらず
バットマンとジョーカーは正反対に見えて
狂気を軸に同じようなことをする二人
として描かれています。
それもそのはず。
主人公アーサーは自分の経験を元に
自分の表裏一体の化身として
バットマンを誕生させたのです。
凄いオチです。
これだけ陰鬱な内容なのに
粋なコメディ作品のように見せるのは
「笑いとは何か」をずっと考えてきた
コメディ映画の監督だからこそ
撮れた気がします。
【ジョーカーについて】
ストーリー解釈は以上ですが、
やっぱりホアキン・フェニックスの
演技がとんでもなく素晴らしい。
ジョーカーは色んな俳優が演じていて
「バットマン」のジャック・ニコルソン、
「ダークナイト」のヒース・レジャー、
「スーサイド・スクワット」の
ジャレッド・レト、
全て素晴らしいと思います。
ヒース・レジャーが
撮影後に亡くなったこともあり、
ジョーカー役を演じるのは
悪魔に魂を売るような行為とも
言われています。
ホアキン・フェニックスの
鬼気迫る迫真の演技。
ジョーカーを演じることへのハードルを
また一段上げました。
この演技を見るだけでも、
十分劇場に足を運ぶ価値があると思います。
これはジョーカーの映画なのか?
すべてを改めて反芻すればするほど、この映画はすべてが妄想で、ラストのホワイトルームのみが現実なのだと解釈する。そう考えると、この映画はジョーカーの映画ではないとも言える。これはアーサーという妄想癖のある精神異常者の話でしかないという、おそろしい結末なのではないか。
アーサーという、映画、アメコミ、お笑いが好きなサブカル精神異常者が、自分がジョーカーになりきって悪のヒーローとして生まれ変わることを妄想しているという、ただそれだけの話なのではないか。
そして、「良いジョークを思いついた」という台詞は、トッド・フィリップス自身の言葉をも代弁しているのではないかと。つまり、「良いジョーク」=「いまやドル箱となったアメコミ映画の顔した、ただの異常者の話を映画化すること」なのではないか。
この映画が製作され、アメコミ映画としてヒットしていることも含め、壮大なジョークとしての作品なのではと考える。アートシーンでいうバンクシーのようなトリッキーなプロジェクトであり、このことは『容疑者、ホアキン・フェニックス』にも通じる。
頭のいかれた妄想癖のアーサーは、トッド・フィリップ自身でもあり、とんでもないジョークをやってのけたのではないか。
混沌の本質を知っているか?
社会は多数派の主観によって善悪が決まる。
富裕層にとっての「普通」
中間層にとっての「普通」
貧困層にとっての「普通」
これらは別世界だ。
つまり、どの層に何人の人がいるかによって社会の秩序が決められていく。
自分が殺されたくなければ、人殺しを悪とする隣人とルールを守って生きる他ない。
現代では多数の人が不満や不安を抱えて生きている。
作中のゴッサムシティは他人事ではなく、富める者は弱者から永遠に奪い続ける社会だ。弱い者は死ぬまで働き、何も報われずに死んでいく。
そう言った社会の中で生み出されたのが今作のジョーカーだった。
私の中でジョーカーはジャックニコルソン版とヒースレジャー版に落ち着くのだが、ホアキンフェニックス版も良かった。
ニコルソン版でのジョーカーは本名はジャック。バッドマンの両親を殺したチンピラで、後にバッドマンとの戦いで酸の海に落ちたことで顔を整形する。整形の過程で顔面が引きつり、笑顔のまま表情が固定される。時々、舌舐めずりするのは口が完全に閉まらず、口が乾くからだと思う。作中で幾度となく笑うが、表情の下では泣いていると語っている。
ヒースレジャー版でのジョーカーは本名不明。口が裂けているのは父親にナイフで裂かれたからと説明しているが、サイコパス は息を吐くように嘘をつくので真偽の程は定かではない。人の心の奥底には妬み辛み憎悪や嫌悪、恐怖があり、どんなに潔癖な人間でも皮膚の下は残酷な本性があることを望んでいる。人に「笑え」と言う割に自分はあまり笑わない。ニヤリとしたから睨みあげる笑顔を見ただけでジョーカーの狂気に震えが走る。
ホアキン版ではおそらくヒース版のジョーカーになっていくのかな?と言った印象。精神的に少しずつ人間の倫理や理性が壊れていく演技は素晴らしかった。
ゴッサムシティの悪を死刑して回るバッドマン。
ゴッサムシティの善を死刑して回るジョーカー。
両者の違いはどの層を敵と見なしているかの違いに過ぎないのではないか?見方が変われば、善悪の立場は逆転してしまうのではないか?と言う不安を煽られる。
若い世代がこの映画を観たら、確実に思いのままに生きるジョーカーの思考に感化されると思う。
30代の自分でさえ、自己中心的に生きるジョーカーの傍若無人な姿に魅力を感じずにはいられない。いられないが、こんな生き方をしたら群の中で生きていけないことは明らかなので、良い子は絶対に真似をしてはいけない。そのためのR指定作品だと思う。お子様には思想的影響が多大にあると思う。
大人とはなんだろうね。人と生きることができるようになったら、社会の一員として生きていけるのかも知れない。ただ、自分がどの社会で生きたいのかはきちんと考えなければいけない。
私の生きる社会も、ゴッサムシティの隣にあることを忘れてはいけない。
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