ジョーカーのレビュー・感想・評価
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感想と考察
アーサーの病気(後に虐待による後遺症と判明)である発作的な笑いは、人々との断絶を生んだ。彼が唯一目の前で発作を起こす描写のなかった彼の母親こそ彼の居場所であるように思われるが、実は彼女こそが彼を本当の意味で孤独にさせていた張本人である。彼女はアーサーをハッピーと呼び、「あなたの幸せな笑顔が人々を楽しませる」と言うが、彼の人生に幸せだったことなどなく、彼の笑いは周囲を気味悪がせているだけだった。彼女の望んだ「ハッピー」を演じ続けるためには、彼は蓄積された苦しみと怒りを7種類もの精神薬を使って抑圧し続けなければいけなかった。母親が愛していたのは、アーサーではなく「ハッピー」であった。つまり彼は本当のところ、家の外にも内にも、カウンセラーも含めて理解者などおらず、誰も彼をありのままに受け入れてくれるどころか、認識してくれる人すらいなかった。だから彼は、「僕は人生で自分がずっと存在しているのかわかっていない。」と言ったのだ。そのような現実に耐えられなくなった彼は、同じ階に住むエレベーターで相乗りしたシングルマザー(ソフィー)を、自分を愛して受け入れてくれる幻覚として見るようになる。
仲間の策略も加わり、派遣先で銃を落として職場をクビになった彼は、電車で絡まれた3人のエリートサラリーマンを撃ち殺してしまう。今までであれば子供から痣だらけになるまで蹴られても反撃しなかった彼が、銃を撃ったのはなぜだろうか。
その少し前に彼は劇場でコメディアンになるための勉強をしている。周囲と笑いのタイミングがズレていることに気づき、笑うタイミングを修正するシーンがあった。家に帰りメモのまとめやネタの創作をしながら、「精神病を患うことで最悪なのは、普通であるように振る舞うことを周囲が期待していることだ。」と書いている。自分の笑いの発作を理由に3人から暴行を受けたのは、その現実が改めて突きつけらた形だ。
加えて、自宅で誤って(?)銃を撃ったことでその威力を目の当たりにしたこと、幻覚を必要とするまでに精神に限界がきていたこと、母親に「お金のことは心配ない」と言った直後に、最悪の就職難の状況で職場をクビになったこと。そして3人が自分とは対局の立場にいるエリートサラリーマンであることも要因だっただろうか。
殺害後に駅から逃走し、彼は駆け込んだトイレで即座に落ち着きを取り戻し、舞を踊る。抑圧された怒りと苦しみを、初めて他者に暴力として開放したことで、湧き出る感情を抑えきれずに芸術として表現したのだった。
自分を抑圧する原因となった母親に吹き込まれた虚構の崩壊と悲しい真実、そして息子の代わりに愛されることまで夢見ていた、目標であり敬愛するマーレからの否定、幻覚の発覚。さらに警察の捜査も迫り、これまでの自己を破壊するような出来事の連続に対応するように、いわば生まれ変わった自分を認め、助けてくれる、街中で増加するピエロのマスク。ジョーカーを生み出すには十分な環境が揃っていた。
殺人者からヒーローへ、抑圧から開放へ、排除から受容へ、悲劇から喜劇へ、この映画は様々な価値が一人の人間の体験によってリアルに転換されていく。
この映画が人々の心を打つのは、私達が社会から受容される為に一定の人格を期待され、感情を押し殺し、自分を理解されず、自分であることを許されない、ということを二極化した経済格差の中で日々否応なく体験しているからではないだろうか。そしてその抑圧された苦しみと怒りの開放が、燃え盛るゴッサムの中、悪のかたちで肯定されるのだ。過度な残酷さや性表現もないのに、年齢制限がつけられる理由である。
今回の感想では、あえてラストシーンの考察は含めなかった。それが正しければ映画を丸ごと動かす大きな装置であるが、そうであるが故に、物語の重要性を低下させてしまうように思えたからだ。
自分勝手な共産主義者のお話
本当になんで評価されてるのかわからない。
妄想障害の自分勝手な共産主義者の男の話でしかない。
なんの努力もしてないで、努力した人々を殺して評価されるだけなのがものすごく腹立たしい。
ベインのほうがジョーカーよりよっぽど筋が通ってる。
こんな映画が評価されるなんて資本主義ももう終わるのかと思ってしまう。
脳及び神経の損傷で突然笑い出します
映画「ジョーカー」(トッド・フィリップス監督)から。
周りから差別され、孤立して、虐められて・・心が壊れていく、
そんな様子が手にとるように伝わり、切なくなってしまった。
彼の心の叫びは、胸が締め付けられる台詞もあった。
「心の病を持つ者にとって、最悪なのは、世間の目だ。
こう訴えてくる、心の病などない。普通の人のようにしてろと」。
表向きでは、差別はいけない・・と言いながらも、
実は、障害者は弱者と決めつけた態度を目にし、台詞を耳にする。
この「バットマン」の悪役「ジョーカー」は、私たちが作り上げ、
成長させてしまったのかもしれないな、と感じてしまった。
さて、気になったのは「バスの中で見せたカード」。
バスの中、突然大声で笑い出し、乗客の誰もが不愉快さを見せた時、
彼がそっと出したメッセージカードにはこう記されていた。
「笑うのは許して。病気です。脳及び神経の損傷で突然笑い出します。
ありがとう。返却して」
笑いだすことを、私たちがしっかり「病気」と理解できるかどうか。
奇怪な声を張り上げる人や、1人で大きな声でブツブツ言う人と
すれ違う時、病気と理解できるけれど・・。
テレビ出演した彼は、こんな台詞を視聴者に向けて発した。
「喜劇なんて主観さ、そうだろ?
みんなだって、この社会だってそうだ。善悪を主観で決めてる。
同じさ、自分で決めればいい。笑えるか、笑えないか」
う~ん、重たい言葉だなぁ。
演技は素晴らしかったけど…
昨日、DVDで観ました。
正直言って、精神疾患者の逆恨みとしか思えませんでした。
日本なら無罪になるのか?と思ったら腹立たちさも感じました。
バットマン知らない人が観たら、夢オチって取る人もいそうな演出ですし、バットマン知ってる人には、ジョーカーの出来上がり方って分かってるから、そりゃそうなるんでしょうねって感じで、感情移入が難しい映画でした。
ジョーク
バットマンの宿敵、ジョーカーが生まれるまでを描いた本作。
コメディアンを目指す主人公アーサー・フレック。
派遣のピエロで日銭を稼ぐ日々。
悲しくても笑うことしか出来ない障害によって社会生活も困難になっていく…
同僚にもらった銃を使ってしまったり、
自分の生い立ちを知ることで少しずつ狂気に満ちていく。
といった内容。
期待した以上に衝撃的な作品だった。
苦しそうに笑うのが見ていて辛い。
幸福に感じるシーンは全て妄想。
タイムカード。
笑顔を忘れるな⇒「笑うな」
階段を上る時はアーサー、下る時はジョーカー。
ジョーカーになってからは凄くイキイキしている。
群衆に称えられるシーンは幻想的。
今のはどういう事だ?と考えたり、
いろんな描写で印象的なシーンがたくさんあった。
で、結局オチは?最後のシーンの意味は?
というと
自分の答えとしては『全てが妄想』かなと思った。
この一言だけだとつまらなく感じるけど理由としては…
・アーサーの髪の毛が黒に戻っている
・時代が80年代設定
・ブルースと年離れすぎ
・何故かブルースの両親が殺害されたシーンを回想している
・「ジョークを思い付いた」「理解出来ないさ」
など。
そもそもアーサーのいる世界にバットマンがいないのでは?
我々が知っているジョーカーではないのでは?
と考えた。
監督はインタビューで
「今までのDCシリーズとは全く関係無い単独作にしたかった」
「最後のアーサーの理解出来ないさと言った後に笑うシーンは唯一本当に笑っている」
といったことを知った結果、
『全てが妄想』であり
『全てがアーサーのジョーク』なのかなと思った。
ジョーカーの誕生を描いた、ということ事態がジョークみたいな。
公開後に監督は
「監督としてのオチは決まっている。今はみんなにいろんな答えを考えてもらい楽しんでもらう時間」
と言っており、いつか答えを提示するらしいのでその日を楽しみに待つことにする。
あとは予備知識として
マーティン・スコセッシ監督の
「キングオブコメディ」を見ると、
ジョーカーのいろんなシーンでオマージュされてるので、
ジョーカーをより楽しめるかも。
そしてジョーカーを演じたホアキン・フェニックス。
アカデミー賞主演男優賞受賞おめでとうございます!
時を忘れた
徐々にジョーカーになっていく過程の演技力の凄まじさに息を飲んでいたら、一気にラストまで来ていた…。
誰もがジョーカーになり得るなぁと思っていたらハードな過去が出て来て、そうか…そうかぁと…もっと早く心を救ってもらえる行政のしくみや人との出会いがあれば良かったね、辛かったねと…。(見た直後すぎて呆然中。言葉出てこない笑)
あとは、曲がとてもオシャレで素敵だったなぁ。
圧倒される映画でした。
確かに分かれる作品
全編通して救いようがない話だからねぇ。
ただここからあのジョーカーになる想像ができないって人はちょっと想像力が足りないかな…とも思う。
ジョーカーって悪のヒーローではなくて悪のカリスマなので…。
なーーんもなくなって、空っぽになって壊れていった人が時代に求められてカリスマになる。十二分にあり得ると思いました。
ヒーローじゃなくてカリスマ、コレこそジョーカーって思いました。
後半の階段を降りてくシーン…
大事ですね。
善と悪、真実と嘘。その曖昧なものの上で成り立つヒーロー論
この映画は彼が様々な境遇の中で「悪」に染まったという話を描くものではなく、「正義」とは何かを描いた話。倫理的に「善」とされている行為だけが正義ではなく、例えば人々を喜ばせることが正義であれば、彼はその役目を全うし、この世に存在している意味を成したことになる。「正義」なんてものは、所詮は利己的な思考性に基づくものであり、その証拠に視点を変えるだけで、「善悪」なんて概念は簡単に入れ替わる。
そして現実世界では「真実」と「嘘」も同様。所詮は人それぞれの視点で、都合よく捻じ曲げることだってできる。何が真実で何が嘘なのか、そんなことを当事者はおろか、視聴者の我々に判断できるわけもない。それくらい曖昧なもので一限的に「正義」を語るんじゃない。。。という近年のアメコミヒーローブームへの風刺メッセージにも思えた。
彼自身の正義(=彼が成し得たいこと)は、映画の序盤と終盤で変わったのだろうか?実は何も変わっていない。自分の社会的立ち位置をまざまざと認識し、物事の捉え方がほんの少し変わった、そして目的に向かうための行動を変えた。
ジョーカーがスクリーン越しに問いかけているようだ。
敵を倒して、人々を喜ばせる。『これの何が悪い?バットマンだって同じだろ?』と。
そして、後のバットマンとジョーカーの因縁を匂わせる描写。
「正義」だなんて言ってるけど、『結局、みんなキッカケは個人的な動機なんだろ。俺と同じだろ』と。
『なぜバットマンは「ヒーロー」と呼ばれ、俺は「ヴィラン」と呼ばれるんだ?』と。
バットマンに救われる人間もいれば、ジョーカーに救われる人間もいる。バットマンを生んだのはジョーカーであり、ジョーカーを生んだのはバットマンということを改めて理解するとともに、世の中でよく使われる「必要悪」という言葉も改めて考えさせられる。
ただ、この映画を見てジョーカーという「存在」をわかった気になるのは少し違う気もする。多分彼の言う通り、本当の意味では「理解できないさ」ということなのかもしれない。
映画として素晴らしい
映画として、演出、脚本、演技、ストーリー全てが素晴らしい出来でした。
個人的には賛否両論というより、映画としてのクオリティが高いから多くの人に見られていると思っています。
今回の場合、なんでもありのスーパーマンが世界を救う、現実では経験しづらい遠い夢物語よりも、ふとした瞬間に障害で「笑ってしまう」主人公が、なんとかできることをやってみたのに、全然うまく行かない。誰も救えないし、誰も嘲笑わせることもできない。そうしたストーリー設定がガッツリ、多くの人にぶっ刺さったのではないかと思います。もちろん、脚本、映画撮影手法、演技力もそれまでの王道映画よりもクオリティが高かったのは言うまでもありません。
普通になりたい、普通に生きていたい
そうした葛藤が描かれているところは共感を呼んだ部分でもあったのではないでしょうか。
彼が唯一殺さなかった「君だけが僕に優しかった」といっていた友人のように、多くの多様性に寛容であればジョーカーにならなかった「ストーリー」も存在したのかなど想像が膨らむ魅力的なシーンが沢山散りばめられていたように思います。
一方で、観覧者に危険な行動を扇動するようにも捉えられなくはない部分も存在するとは思います。しかし、よく考察を重ねると、全てがエンターテイメントとして出来が良いことにも気づくのではないでしょうか。
どちらかというと全国公開より一部のシアター向けのような印象もあり、そうした会場で見ていればさらに何か本当に味わうべきものがあったようにも感じました。
同情からのあっという間の狂気
バットマンの最強の悪役ジョーカーの誕生経緯を描く映画ということで、どんな恐ろしい過去があるのかと思いながら、前情報をあんまり入れずに鑑賞してきました。
3歳の息子とは見れないので、結婚記念日に奥さんと二人で鑑賞。
ジョーカーはクレバーなイメージだったので、過去のジョーカー・アーサーにはその雰囲気は見られない。
ただ、ゴッサムシティの不条理やつらい過去による精神障害、差別的な周囲の目…そういった周辺環境の中で、精神崩壊→殺人という犯罪に手を染めてしまうアーサーに同情と狂気を感じた。もう少し周りにまともな人がいれば…と思わず感情移入してしまう。
後半の壊れた後のアーサーには最早狂気しかなく、あっという間にジョーカーに。ここから何度も犯罪を重ねることで、個人的にイメージしていたクレバーなジョーカーになったのかだろうと想像してしまう。
後のバットマン・ブルースとの因縁もこの作品で、対照的に描かれている。全て持ち合わせた裕福なブルースと何も持たない不幸なアーサー…。
この作品をきっかけにバットマンを見返そうと思いました。
世界は危うくて悲しくて、でも強くて美しい。
まずは、ホアキンフェニックスがかっこいい。ミーハーです。
暗くて汚い場所ばかりですが、役者さんたちのオーラがすごくて、美しくかっこよく見えちゃうので、ホラー嫌いな私でも最後まで見られました。衣装もみんな素敵。
何が善で、何が悪か。悲劇か喜劇か。結局全ては主観なんだなーとジョーカーの言った通り納得してしまいました。
時代の設定が数十年前なので、病院やテレビ局のセキュリティの薄さには目をつぶるとします。
ちっともファンタジーとは思えず、同じような世界は日本にもあると思います。
弱者は気付かれることも手を差し伸べられることもないのか。
でも結局人を救うのは人であるとも感じます。
小さな道化師仲間を殺さずにいてくれたことにアーサーが人間であるという証を感じました。衝動だけで動いているのではないんです。
でも実のお母さんを手にかける彼の気持ちは理解が難しかったです。
あんなに優しい彼が。心が壊れてしまったのでしょうか。
とにかく観客の私は悲しかったです。
アーサーは被害者でしかない。
優しい人は最後は報われて幸せに、なんて世界はないんですよね…。
どこからどこまで。。。
アーサーのジョークと現実が絶妙に交差しててどこからが現実でどこまでが妄想なのか分からなかった。それとも全てが思いついたというジョークなのか。。
私はバットマンがすきじゃない。あの混沌としたゴッサムシティもジョーカーもバットマンもなんだか気味悪くてなんでか好きになれない。
でも、このジョーカーは予告を見たときから絶対観たいと思ってた。実際、ちょっと思ってたのと違ったけど上手くは言えないけど色々芸が細かいなぁと思った。
いちばん気になったのは、冒頭でアーサーは何を憂いて涙を流したんだろうってシーン。
何回か観ないと分からないかもなぁ。。
混濁した記憶や幻想が美しく描かれている
現実か、幻想か?希望か、混濁か?美しい描写で引き込まれる物語。バットマンの世界を知らずとも楽しめ、そして悲しく虚しい。最近見た4作中、最も良かった。見る価値、大いにあります。
これはフィクションではない。
この映画を観終わった時、タイトルの通りの感想を抱きました。
まず他の方のような正統派な映画レビューではない事を先にお伝えしておきます。
大なり小なり、誰もが不幸や辛いことが立て続けに起こり『もう生きるのが嫌だ』と考えた事があると思います。
街を幸せそうに歩く見ず知らずの人間に、理由もなく憤りを感じてしまい、そんな醜悪な感情を抱く自分に涙が出てきてしまう程、辛い時が僕にはありました。
そんな時期に、とあるニュースを見て同情にも近い感情を抱いた事を思い出しました。
2018年6月に起きた、東海道新幹線内殺傷事件です。
このレビューを見ている方の中にも記憶されてる方がいらっしゃると思いますが、加害者の境遇がワイドショーで取り沙汰されている中に、
事件を起こした加害者家族のテレビ取材の受け方、話し方(加害者の祖母は居間に寝転がりながら記者へ対応していました)が、まるで他人事のような態度だった事を僕は痛烈に覚えています。
ニュースで知ることが出来た情報を聞く限り、
加害者には学校や職場、家庭に至るまで、一切の居場所がなく、どこに行っても拒絶され、
誰にも必要とされる事がなかったような人生を歩んで来たようです。
僕は家族の支えもあり、立ち直ることが出来ましたが、もしその支えが無かったら、この加害者のような人間になってしまったんじゃないかと、怖くなった事をよく覚えています。
人生とは、人と人との繋がりの集合体であると思います。
誰との繋がりも無くなり、失える物をとことん失えば、誰でも劇中のようなジョーカーになり得るのだと思います。
音楽や演技の素晴らしさを称賛するだけでなく、悲劇をスクリーンの外に生み出さない為に何が自分に出来るのか、考えてみるきっかけを作ることがこの映画の本当に伝えたい事だと勝手に思ってます。
ただ…ブルースとトーマスとの絡み要るか?と思ったので星4.5です笑
時計の時刻はレトリックなのか?
これは監督が描きたかったもう一人のジョーカーである。
そして、誰にでも潜む心の闇を昇華させたとき。小躍りし悲劇から喜劇を愉しむ瞬間を表現した秀作。
世界中の貧困層が観たら非常事態宣言にもなりかねないメッセージ性がある。
アメリカでは暴動に発展してしまいかねないから警官もでてきて上映禁止地域もある。中国全域で上映禁止なのも想像を超えた現象を危惧しているからだ。
レトリックで気になった点は、やはりラストシーンで全てが妄想オチとなっているのか?どうなのか監督のコメントをぜひ聞きたい。
序盤の11時11分が2回、クビになったときのタイムレコーダーで3回目。
しかし、マレーの番組出演のときは時計は確か。10時40分位を指していたのた。しっかり写していたから意図があるとしか思えない。
ご存知の方、ご教示願います。
悲しい定めの現実的社会映画
物凄く共感する映画。格差社会の中で貧困と差別にもがき苦しむアーサー。普通を装って生きなければ、社会から外れる…。満足な職にもつけない世の中は荒んでいて、人権の尊重もない。政治家や富裕層は口だけで世論を味方につけようとしたり正論のような言葉でねじ伏せたりするけど、庶民の気持ちなんて本当は何も理解してない。それがメディアに晒されたジョーカーを通して庶民をバカにしてると核心に触れ苛立ちに火をつけ世の中のピエロたちが街に溢れかえり暴動となる。日本にも当てはまる事多数…。心無い人の言葉や態度がアーサーの精神を追い込んでいく様がリアルに描かれていたと思う。我慢しても笑いが止まらなくなる病気になってしまったこと。病気は先天的なものじゃなく実は自分は養子で幼い頃母親がネグレクトをしていたことを知ったアーサーが、落胆しつつもどこか自分を責め続けていた心が解放されたように思えた場面があった。他に信じられるものや無くすものがなく、唯一肉親だと信じてきた母親が幼い頃に自分をここま追い込んだ原因でありながら知らずに介護してきた現実にタカが外れ憎悪するかもしれない。人の自制心には限界があると思う。アーサーにも当初は自制心があったはずだけど、人からバカにされ冷たくされ貶められていくうち、その自制心が底をついて人格が壊れていく葛藤…。子供の頃から人を笑顔でハッピーにしたい…そう思って生きてきた純粋な心は、人から愛されず罵られ、存在すらも認められず生きてきた事で、何度ももがき苦しみいつしか病んでいき、やりどころのない痛みが決壊したように溢れ壊れていく。アーサーは世の中の代表のような存在で、誰にでも起こり得ることだと思う。危機感はあったのに援助も受けられなくなりどうしようもなくなった。もう自ら止められない。したことは非道でもそれはもはや心の損傷。ピエロは同じ境遇の庶民の心の叫びに共鳴した。アーサーの我慢しても出てしまう笑いは脳が損傷する程我慢し病んだ行き場のない悲しい心の叫びと悲鳴。かすかに残る心の葛藤がピエロで作り込んだ深い悲しみの笑顔と重なるところが見事な見所だった。
自分の身近な人にも病んでしまった人はいるし現実にギリギリで精神を保ってる人や予備軍、罹患者はたくさんいると思う。余裕のない世の中は荒んでいくだろうし、それがラストの富裕層殺害に繋がった負の連鎖だと思う。
ジョーカーの最後のセリフ「ちょっとねジョークを思いついて。君には理解できないさ」の言葉の意味は様々取れるが、心はあくまで純粋に、まともに生きてきた人間には分からない自分に起こった悲劇を喜劇と表現し、自分はコメディアンでいたいんだという葛藤の中の精神を最後まで崩さなかった唯一の証だとも思え、バカバカしい世の中を揶揄した発言とも取れる。
笑いにはいつも涙が滲み、アーサーの心からの笑顔はこの現実には無く、いつも妄想の中だけにあった。
現実ももっと人を尊重する世の中になって欲しいと思う。でなければ現実にジョーカーは生まれては繰り返し、いつか自分に返ってくる負の連鎖になる事をもっと人は自覚すべきだと思う。悪はどこから生まれたのか…ジョーカー誕生に重ねた社会派映画だった。
ジョーカー?
※まだこの映画を観てない人は読まないで下さい。
アメコミ特有の、作者によって設定が変わるってのを理解した上でも残念でした。
ショッカーの戦闘員の1人の誕生秘話
でもいい。
それくらい、どの悪役の過去の話って事にしても良いと思う。
ただ、ジョーカーでは無い。
掴み所の無い部分を病気という設定で逃げているように思えるし、優しい青年がジョーカーにというのを期待させといて、元々普通では無い。いわゆる悪行が、病気じゃなかったらよかったの?と思わせる始末。
そして最終的にジョーカーにならない。
最後にいるのは馬鹿な市民に担がれた、
ただのピエロマン。
踊らされるピエロ。
ジョーカーは自ら踊り、踊らせる。
しかしながら映像の美しさ、街並み、何より演者さんの力は物凄く、オシャレ感覚で観るには良い映画なのかもしれません。
個人的にはウェイン一家の事件の時に一瞬でもコウモリを絡ませていればこの作品の評価は変わったかも。
あれじゃバットマンは産まれない。
今作の後には、悪のピエロ軍団と、それに挑む1人の正義のピエロマンがいる世界が待っています。
ただの正直者の物語
見終わった直後に書いてます。
めちゃくちゃ面白くて、めちゃくちゃしんどい映画でした。
吐き気を催して立っていられなくなり、街のベンチに座りながら書いてます。
アーサーは何をすれば幸せになれたのかが全く分かりません。
今の自分は収入が少なく、会社の存続も危うい状態で街を歩くきらびやかな装飾を持つ人達に嫉妬や一方的な憎悪を持つことがあります。
そういった人間ですので映画に描かれるアーサーと自分がダブってしまい、あまりの救いのなさに「自分もそうなってしまうのではないか」と考えてしまい、吐き気を催して、立っていられなくなっています。
アーサーは一体どのポイントで何を選択すれば幸せになれたのか全く分かりません。
看板を奪われた少年達を追いかけなければ。
同僚から銃を貰うことを拒否すれば。
地下鉄で怒りに任せて銃を撃たなければ。
母親の手紙を見なければ。
自分の父に会いに行くためにオペラ会場に乗り込まなければ。
色々な選択肢があったはずで、そこで別の行動を取れたかもしれないけれどアーサーは必ず社会に溶け込めず、夢も叶えれなくなった予感がします。
結局、アーサーは自分の人生や現状、全てに対して絶望の中で狂いジョーカーとして生まれ変わります。
他の人はそんな事は思わないでしょうが、無職になり、恋も幻想で、母を失い、友人も殺し、全てを失って赤いタキシードを来てピエロのメイクを施してテレビ局に向かう姿は「幸せ」そのものに見えました。
この世界の中で自分を受け入れてくれる場所はなく、真っ当な努力をして、夢を叶えることもできず「普通」になれないアーサーがイカれるのは至極当然のことで、全てを諦めることを受け入れた瞬間のジョーカーはとても幸せそうでした。
この物語は悲劇でもありますし喜劇でもあります。
僕らが生きているこの世界も真面目な人間ほど「狂う」ようになってます。
日本は日に日に生きにくくなっていき、仕事も収入も減るが税金だけが上がっていき、普通に生きることが出来なくなっています。
人生は学生生活からの椅子取りゲームで、その椅子取りゲームに早々に座れなくなった人間はどんなに努力しても夢を叶えることが出来ず、細々と不安の中暮らしています。
引きこもりやニートだけではなく、社会人の中にも普通になれず苦しんでいる人間がいます。
映画の中ではアーサーが特別に狂ったかと思う人もいるでしょうが、彼は誰よりも真面目で自分の夢に向かって生きようとした「普通の人間」です。
あなたの周りにも必ずジョーカーが居て、これから世界中でジョーカーが生まれてきてしまう。
皆イカれて笑い出すのではないか。
そんな予感がして吐き気が止まらなくなる最高の映画でした。
鬼気迫るジョーカーに圧倒される
バッドマンの登場キャラクターと知らず、単独の作品として鑑賞しました。いまいち画面が信用ならない(妄想要素が入ると信じられなくなる)ため混乱していますが、合わせて観ると解釈が変わるのかもしれませんね。
元からどこか危うそうなアーサーに、次から次に災難が降りかかり、ついには全てどうでもよくなって狂人ジョーカーになるまでの過程が非常にリアルでした。
中盤よりアーサーの生い立ちが徐々に明らかになります。彼の世界が崩壊するにつれ、観ているこちら側も画面が信じられなくなっていきます。どこからが妄想なのだろうか??
結局彼は最初から病院にいて、カウンセラーの目の前で妄想しているのか?そして血の足跡…(カウンセラーは無事なのでしょうか)。
ジョーカーの狂気に大衆が扇動されて暴動化するシーンも非常にリアルで考えさせられました。あのような行動は結局イライラをぶつけたいだけで状況の解決に繋がっているのか?甚だ疑問に思いました…文明が衰退した世界はああなのだろうか…
広げすぎました。とにかく完成度の高い秀逸な作品だと思いました(偉そうな言い方^^;ご容赦ください)
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