ジョーカーのレビュー・感想・評価
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キング・オブ・ナッシング
恐ろしい映画だった。
現実的で乾いた暴力描写が恐ろしい。
主人公アーサーの狂気じみた所作が恐ろしい。
だが何よりも、アーサーの抱える
憎悪とそこから生じた暴力を、
『理不尽だ、身勝手だ、間違っている』と
否定することができないという点が最も恐ろしい。
僕はやわな人間で、憎悪から来る暴力など何の解決
にもならないと否定したい。もっと優しい道がある
はずだと信じていたい。だけど――
...
こんなにも悲しく切実な憎悪を
一体どうやって否定しろというのか。
周囲から物笑いの種にされ、
鬱憤晴らしのために殴られ、
誰も本当に庇ってはくれず、
隣で笑ってくれる人も無く、
生みの親からは棄てられ、
拾った親からは虐げられ、
誰にも求められず、誰からも愛されず、
この世に確かに生を受けたはずなのに、
誰からもその存在を認められなかった男。
笑うことで、笑い続けることで、
その地獄にずっと耐え続けてきた男。
アーサーの考えたジョークは自分の悲惨さや
鬱屈した気持ちを必死で笑い飛ばそうとする
ような重苦しいジョークばかりだった。
彼がコメディアンになりたかったのは、
自分や自分が(かつて)愛した母親と同じように、
笑うことで少しでも救われる人がいるはずだから、
それができれば自分にも存在する理由があるはず
だからと信じたかったからなのだろうか。
痩せ骨ばった肉体を捻じ曲げて舞踏する姿。
必死に自分の肉体が、この世界に
存在することを主張するかのように。
...
ずっとずっとずっと受けてきた酷い仕打ちを
安物の拳銃で遂に爆発させた彼は、そこから
いよいよタガが外れていく。
悲惨な境遇の彼が必死にすがってきた夢を、
憧れた男は茶の間のジョークとして愚弄した。
自分を“ハッピー”と呼び愛してくれていると
思っていた母は、自分の“ハッピー”にしか
興味の無かった赤の他人だった。
世界でただひとり、自分の隣で笑ってくれた
女性は、あまりに孤独な心が生んだ幻だった。
衝動的に起こした富裕層殺しが、同じ怒りを抱えた
多くの人々を焚き付けたことを知り、彼はやっと自分
が世界に存在することを是認されたと感じたんだろう。
テレビカメラの前で遂に彼は自分の笑いを見出だす。
己を物笑いの種にし続けた者達を貶め、傷付け、笑う。
それこそが、彼の見出だした至高のジョーク。
日々の貧しさ、富裕層の侮蔑、
親の暴力と無関心、世間からの疎外。
ありとあらゆる世の不公平を一身に受けた男は、
何も持たず誰もその存在すら認めなかった男は、
空っぽに真っ白な顔を道化の形に塗りたくり、
同じように世界から存在を無視し続けられた者達
にとってのイコンとなり、最後に彼らの王となった。
...
名優ホアキン・フェニックスの凄まじい演技が圧巻。
痩せさらばえた山羊のような肉体はアーサーの
境遇と存在に問答無用の説得力を与えているし、
泣き顔を無理やり笑顔に引き伸ばす冒頭や、
冷えきった目のまま放つ機械のような笑い、
引きつった苦しげな笑みが少しずつ
自然な笑みに変わっていく様が怖い。
一方で、恋人や子ども達などに時折見せる
本当に優しそうな微笑があまりにも悲しい。
彼にはもっと優しく生きる素質もあった筈なのに。
...
あらゆる不公平を暴力で笑い蹴散らす
“ジョーカー”は恐るべき怪物だが、彼は
何もない所から自然発生した怪物などでは無い。
彼を生んだのは拡がり続ける貧富の差や
社会的弱者への侮蔑と無関心に他ならない。
この映画がスクリーンに焼き付けているのは、
形有る暴力、そして形無き暴力の生む憎悪が
更に激しく渦巻く暴力の炎へと発展する様だ。
その火種を消す為に我々には何ができるのか?
“ジョーカー”のような悲しい怪物を生まない為に
我々自身にできることがもっとあるのではないか?
“良薬は口に苦し”という諺を信じるならば、
『JOKER』は脳天が吹ッ飛ぶほどに苦い劇薬だ。
<2019.10.04鑑賞>
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余談1:
レビュータイトルはメタリカの曲から
ではなく、本作が影響を受けたと監督が
語っていた『キング・オブ・コメディ』から。
デ・ニーロ主演だったりそっくりなシーンも
あったりと共通項も多い傑作なのでご鑑賞あれ。
余談2:
『バットマン』のイメージは捨てて観るべきか
と考えていたので、意外や『バットマン』との
絡みの多い展開にも驚いた。劇場裏での悲劇を
そう繋ぐとは。
けどトーマス・ウェインが侮蔑的な富裕層の
代表みたいに描かれている点は、原作ファン
からは複雑な気持ちで取られてるかもね……。
どいつもこいつも…!!
バットマンの悪役であるジョーカーが誕生するに至った物語で原作にはないオリジナルの話。
コメディアンになりたいメンヘラなパーティークラウン=派遣ピエロのアーサーが、ゴッサムシティの不条理に押しつぶされていくストーリー。
バットマンが登場する十数年前の話だし、ここから狂気に満ち残忍になっていくのかも知れないけれど、言動の訳がわかってしまったし、頭のキレや賢さみたいなものは感じられず。
家庭や友人に恵まれない上に不器用で精神的に病んでいる哀しい男が、荒んだ社会の中で歯車が上手く噛み合わず堕ちてしまった悲運な話としては非常に面白かったけど…確かにジョーカーなんだけど、これジョーカーですか?という感じがあった。
社会が生み出したダークヒーロー
率直な感想としてめちゃくちゃ面白かった。ランキングをつけるわけではないが、近年で観た作品の中でもトップクラスに面白かった。
なぜそこまで面白かったのか、やはり人間誰しも弱さや不安を抱えているのであろう。決してジョーカーの行いは賛同できるものではない。だけど共感してしまうところがあり、いやその共感こそも本来良くないのかもしれないそうやって自分と葛藤して観ることができた。
なぜ葛藤するのかそれはアーサーも語ってたが自分の中の正義や悪は果たして大衆も同じな物差しなのか分からないからであろう。
だから今ある正義が明日には悪にはなり、悪が正義にもなりうる。今ある喜劇が数秒後には悲劇となり、悲劇が喜劇にもなるのだろう。
まさしくアーサーだって同じだ。環境が違えば大衆に支持されるコメディアンになっていたのかもしれない。かれをダークヒーローに導いたのは家庭環境だったり、まさしく社会である。社会が裕福な者だけに幸せを求め過ぎた。求め過ぎたからこそ喜劇からの悲劇の転落であろう。
真反対のことがちょっとしたきっかけで起きてしまう。そのエネルギーは誰しも持っている。そんな事をハラハラしながら観ることができた。
ただこの作品はジョーカーの事だけに共感するわけではない。やはり彼の行いは結果としては悪である。
その暴走する悪に、将来制裁してくれるブルースの存在が分かっているからこそ楽しく観れるのであろう。
最後にホアキンのジョーカーも非常によかった。独特のサイコ感がたまらない。天国のヒースレジャー、ジャックニコルソンもさぞ喜んで観賞しているのではないか。
約2時間の前振り+ラスト2分のオチ
これは一本取られた!笑
まさか映画全体が一つのジョークという構造になっていたとは。。。
ジョーカーの有名なセリフで、ダークナイトでもカバーアートに使われた「Why so serious?(何故そんなに真面目なんだ?)」というセリフがあるんですが、ジョーカーというのはジョークを言う人を指しているんですね。
人生なんて喜劇で、世の中全てジョークだろ?
映像・音楽、全て強烈な印象を残す映画だった。
ホアキン・フェニックスは色々と奇行が目立つ俳優だったが、彼が演じるジョーカーの説得力はハンパなかった。
そしてロバート・デニーロの配役は明らかにマーティン・スコセッシ監督の「キング・オブ・コメディ」を意識しており、基本的なストーリーの構成はこの映画を下敷きしていると言っても良いだろう。
「キング・オブ・コメディ」の主人公ルパートはラストで自分の身に起こった悲劇を喜劇として笑いに変える。
本作「ジョーカー」のラストでは主人公アーサーは、悲劇を喜劇に変える為、自らの血で笑いの仮面を被るのだ。
映画のストーリーをどこからが妄想でどこまでが真実なのか?と追っていくが、(演出的にはちょうどアーサーの薬が切れ始めたころから妄想が始まるが。)、ラストで全てがひっくり返る。
これは一本取られた!とベネチア国際映画祭の審査員達は思ったのだろうか笑
最高に危険で最高に楽しめる劇薬映画だった。
かつて悪が立ち上がる瞬間でこれほど感動することはあっただろうか。
「立て、立つんだ!ジョー!カー!」
ぬるい設定ながら熱演に称賛
素晴らしいと感じたのは、ホアキン・フェニックスの演技や存在感は言わずもがな。画の取り方、魅せ方が素晴らしい。
多少目に余る設定のぬるさを感じたもののそれをカバーするに足る、総じて良い印象だった。
・いちいち画になる
階段をダイナミックに踊りながら降りていくジョーカー、
マレーの番組出演直前にたばこをふかしつつ闊歩するジョーカー、
大衆の歓声を受けながら血で裂けた口を描くジョーカー、
廊下窓から後光を受けながら踊るラストシーンのジョーカー、
いちいち絵になるし構図がかっこいい。そこにBGMなんて流されたら映画ってやはりいいなあと思わずにはいられない。
・ヒース・レジャーとはまた違った趣
ホアキン・フェニックス本人が真にジョーカーのような生い立ちを背負ってきたのではないかと錯覚させられそうになる程に彼の演技は突き抜けており、演技力だけでなく表情や顔の作りまで説得力のある存在感を放っていた。特に冒頭のシーンとラストシーンで笑い狂う、彼の深い彫の奥に青白く光る瞳に映える一縷のハイライト、観ているこちらまで吸い込まれてしまいそうな、闇に引きずられてしまいそうな恐ろしさを醸し出している。そんな力をもった役者にはなかなかお目にかかれないだろう。
・「笑う」斬新な設定
楽しい嬉しい幸せの表現である筈の「笑う」という行為に対してこんなにも特殊なイメージを持ってしまうことがあっただろうか。もちろんホラー映画で怪物に笑われたら恐ろしいが「恐怖」だけではない。彼の笑いには悲しみ、怒り、やるせなさとった様々な感情が入り交じる。「笑いたくない場面で笑ってしまう」「病気で笑ってしまう」という設定はなかなか斬新だと感じたし今回のジョーカー像にもハマっていてうまいなと思った。
・ぬるい設定2選
1:地下鉄の殺人をきっかけに若者や貧困層の熱気に火がついた、という設定にやや無理を感じる。いくら富裕層を粛清したとはいえ、只の殺人である。それを上回る共感を得られたというのがちょっとよくわからない。
2:マレーの番組で起きた事件を通じてジョーカーが英雄になった流れになっているがあの番組での言動や行動も只の自意識過剰な異常者にしか映らない。デモを起こしている大衆はどこにシンパシーを感じたのであろう?更に言い合いでは堂々たる姿勢で正論を述べるマレーにやや分があるような状況となり、ムキになって喚き散らして挙げ句にカッとなって引き金を引いてしまった(ような)アーサーには共感し難い気持ちになる。
もうちょい我々鑑賞者を巻き込んで同情や憐れみややるせなさを誘うような、そんな現状を浮き彫りにしてしまうような話があのシーンで出ていれば、ジョーカーにもより説得力が増すんじゃないだろうか?
要するに大衆がジョーカーに突き動かされる流れがかなりいい加減な印象だった。
・ジョーカーの信念は感じない
地下鉄にしても番組にしてもアーサーの信念の発露というよりは、彼の内なる葛藤やトラウマ(このトラウマもインパクトちょっと弱いしもっと驚愕の内容にしても良かった)によって(半場)衝動的に起こされたものであり、ダークナイトのジョーカーのような、大衆を陽動するような、何か革命を起こしてやろうとでも言うような、外に向けてのエネルギーの発露みたいなものをほとんど感じない。ジョーカー誕生の物語であるからそこまで描けないであろうことはわかるが、だからこそ大衆を引き入れてカリスマへと押し上がったという流れに無理矢理感を感じた。
まとめるとストーリー単体でみるとややパンチが弱く、強引である。とはいえ、それがあまり気にならなくなる程にホアキン・フェニックスの演技は奇々怪々であり、圧倒的だった。
誰の心にも彼がいる
ジョーカー・シリーズ第1作。
第79回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作。
IMAXで鑑賞(字幕)。
原作コミックは未読。
とてつもない痛み。迫り来る狂騒。…
「人生は喜劇だ!」とうそぶき、笑いの仮面を被った平凡な男は、狂気に満ちた悪のカリスマへと変貌を遂げていく。
ひとりの男が悪に堕ちる様をリアリティーたっぷりに描き、アメコミ映画の枠に留まらない圧巻の人間ドラマであった。
喉元にナイフを突きつけるかのように、現代社会の病巣を鋭く抉っている。今の時代は何かと窮屈で生き辛い。社会不安はそのまま人々の不安となって世情が乱れていく。
アーサー・フレックが直面する出来事は誰にでも降り掛かって来る可能性のあるものばかりではないかなと思った。
社会の暗黒面がこれでもかとアーサーを追い詰める。拠り所だった母親にも裏切られ、絶望した心に醸成される狂気。
やがて、常に口許に笑みを湛えた悪のピエロが誕生することに。階段を踊りながら降りるシーンがとても神々しかった。
彼を狂わせた不条理な社会は現実とも陸続きで、だからこそ身に摘まされたり、心を痛めたりすることが出来る。
ふとした瞬間、彼の痛みに共感してしまう。つまり私の中にもジョーカーの因子が潜んでいるのだとハッとさせられた。
ホアキン・フェニックスの渾身の演技に魅せられた。とにかく役づくりの徹底がすごい。あの痩せ具合と言ったらない。
絶望と狂気の淵に立ち、悪へ変貌していく男を文字通り鬼気迫る熱演で表現していて、終始鳥肌が立ちっぱなしだった。
ピエロのメイクに隠された闇は底無しで、彼をつくり上げた事柄の罪のなんと重いことか。それがひしひしと伝わる名演である。血を塗り広げて笑みをつくる場面がヤバい。
観る者に全てを委ね、「おいおい、マジか、まさかの…?」などんでん返しを彷彿とさせるラストシーンも秀逸だった。夢であれ現であれ、彼の狂気の舞踏は果てしなく続く。
[追記(2020/02/10)]
アカデミー賞主演男優賞受賞。おめでとうございます。
この受賞は言わずもがな。彼以外に誰が獲る!?(笑)。
※修正(2024/10/19)
狂気に満ちたゴッサムという街。その犠牲となった道化の物語。
『バットマン』シリーズ最大のヴィラン、犯罪界の道化王子こと「ジョーカー」の誕生譚。
財政難に喘ぐゴッサム・シティで、大道芸人として生活するアーサーが、日々の苦しみと絶望から次第に狂気を帯び始め、後に「ジョーカー」と呼ばれる怪物へと変貌していく様を描いたクライム・サスペンス。
監督は『ハングオーバー』シリーズや『デューデート』のトッド・フィリップス。
主人公アーサーを演じるのは『グラディエーター』『her』のホアキン・フェニックス。本作にてオスカーを獲得。
アーサーが憧れる大物コメディアン、マレー役には『世界にひとつのプレイブック』『マイ・インターン』の生けるレジェンド、ロバート・デ・ニーロがキャスティングされている。
製作には『ハングオーバー』シリーズでフィリップス監督と共に仕事をしている、ハリウッドスターのブラッドリー・クーパーが参加している。
👑受賞歴👑
第92回アカデミー賞…作曲賞・主演男優賞(フェニックス)の二冠を達成。
第77回ゴールデングローブ賞…主演男優賞(ドラマ部門:フェニックス)・作曲賞の二冠を達成。
第76回ヴェネツィア国際映画祭…最高賞である金獅子賞を受賞。
第43回日本アカデミー賞…最優秀外国作品賞を受賞。
公開前から楽しみにしていた『ジョーカー』。初日から鑑賞しました!
平日昼間というのにお客さんはやはり多め。期待値の高さが伺えます。
ちょっと前置き。
色々なレビュアーさんのレビューを読んでいて、この映画を勘違いされている方が多いことに驚きました。
これ、『ダークナイト』とはなんの関係もないから!!
ジョーカー=ヒース・レジャーという方が多いでしょう。確かに『ダークナイト』は名作でした。
しかし、映画でジョーカーを演じた俳優はヒース・レジャーだけではありません。
『バットマン』のジャック・ニコルソン。
『スーサイド・スクワッド』のジャレッド・レト。
そして本作のホアキン・フェニックスです。
(余談ですが、マーク・ハミルがゲームやアニメでは声優を務めていたりします。)
演じた役者全員がオスカー俳優という、凄いキャラクターなんですよ、ジョーカーは。
この4人のジョーカーはそれぞれ設定バラバラだから!見た目も全然違うし、生い立ちも全然違うから!性格も違うから!
だから、「こんなのダークナイトのジョーカーじゃない!」って言う意見は問題外です。
そもそも、本作のジョーカーはかなり『キリングジョーク』という原作に近いです。
真面目なコメディアンが、ある悲劇により闇落ちしてしまうというのは原作から持ってきたモチーフな訳です。
だから、「ジョーカーの過去とか蛇足!」という意見も論外なわけです。だって原作にあるんだもん。
むしろ『ダークナイト』のジョーカーが異質であると思ったほうが良いです。めちゃくちゃかっこいいけど。
(まぁ、その後のコミックではヒースの見た目や性格に寄せたジョーカーが登場してますけど。『ジョーカー』とか『バットマン:ノエル』といったコミックはほぼノーラン版のバットマンの世界観だったりします。)
ジョーカー愛から長々と前置きしてしまいました💦
以下本文です…
この映画で最も評価すべきは、ホアキン・フェニックスの悪魔的な演技でしょう!とにかく凄かった!
表情の演技が最高。「HAHAHA」という笑い声もジョーカーのイメージにぴったり。
この映画のために20kg以上の減量を行なったということですが、骨と皮だけと言っていいほど絞り上げられた身体はまさに狂気的。裸姿の背中のカットだけで、アーサーという男がただならぬ何かを秘めているということが伝わってきます。
そもそもホアキン・フェニックスはメイクしていないスッピンの状態でも、すでにコミックのジョーカーぽい顔立ちをしています。
彼以上にこの役をうまく演じられる役者は現時点ではいないでしょう。
映画の内容は暗く陰鬱。
ストレスを感じると声を上げて笑ってしまうという障害を持っているアーサー。そのせいで周りからは不気味がられる。
道化として働いているが、才能はなく、仕事ではヘマをしてばかり。
そんな彼に対して、ゴッサムという街は優しくはない。
精神的にも肉体的にもボコボコにされていくアーサー。
唯一の安らぎは、愛する母との交流である。
とにかく映画の全半はひたすら虐げられるアーサーを見なくてはならず、精神的にかなり辛い…。
悪いのは自分か?それともこの社会なのかと自問自答をしながらも、コメディアンになるという夢は忘れず日々を直向きに過ごすが、ある出来事が彼の運命を変えてしまう。
この出来事を契機に、彼に少しずつ変化が訪れるわけですが、この心理的な変化をホアキン・フェニックスという役者は完璧に演じ切ります。
アーサーの良心の崩壊と、彼の内に秘められた凶暴な暴力性が滲み出る様が痛烈に伝わります。
徐々に闇に身を落としていくアーサーですが、それとは対照的に彼自身はどんどん開放的になっていきます。
そして、社会の爪弾き者だった彼が、あの犯罪道化へと完全に変貌を遂げた瞬間のカタルシスたるや!
カルチャー史にその名を残す最凶の悪魔がここで誕生するわけですが、我々観客はこれまでのアーサーの鬱屈を知っているので、つい彼に感情移入してしまいます。
完全にしがらみから解放された彼を見た瞬間に心の中でガッツポーズをしてしまいました。
これまでゴッサムという街は、どこか寒々しく、空も鬱々とした天気がずっと続いていたのですが、ジョーカーの誕生からは空は晴れわたり、街もどこか輝きを放っているように見えます。
まるでゴッサムが怪物の誕生を祝福しているかのように…。
アーサーが憂鬱そうに登っていた階段を、ジョーカーは軽やかに踊りながら降りていきます。
ここで流れるゲイリー・グリッターの「ロックンロール・パート2」という楽曲がとんでもなくかっこいい!
この楽曲とジョーカーのダンスのコンビネーションを見るだけでもこの映画の価値はあります。
いやー、完全にジョーカーとしてのメイクと衣装を施したホアキン・フェニックスのかっこよさといったら。神々しい…。
クライマックスのジョーカーとデニーロとのやりとりは心に響きます。悪のはずのジョーカーの言い分の方に分があると思ってしまう。
悪と善とは主観に過ぎないというジョーカーの言葉の通りです。
ゴッサムで起こる暴動は、まさに現在進行形で世界中で起こっているデモと同じです。
香港のデモのニュースは、日本でも連日報道されており、この映画の内容はフィクションとは思えない生々しさを放っています。
最凶の悪を生み出すのは社会であり、民衆もどこかでそれを望んでいるのでは?と思ってしまった自分もこの映画に毒されているのでしょう。
観る人間の心を確実に蝕んでいくこの映画。
鑑賞には覚悟が必要です。
Isn't it beautiful? ホアキン・フェニックスの大勝利
で、結局どっち!?あのエンドは何処からが妄想で何処までが現実だったの?もし最初からだったらある意味夢オチか!?と観た後にとても混乱に陥ります。ある意味記憶に刻まれる衝撃的な作品です。
ホアキン・フェニックスってちょっと変わった役者さんなイメージです。まぁ、人気上がってた時にいきなり「ラッパーになります」。で、暫くして「実はラッパーになるのはジョークでしたー!」なんてやる程なので筋金入りなのでしょう、きっと。
でも、今回のジョーカーはホアキン以外に考えられないですね。本当に素晴らしかったと思います。二時間ほぼほぼホアキン・フェニックス!極端な話デ・ニーロですらモブ扱い。それでもホアキンの演技に魅せられます。だいたいあの体つきどうなってんの?ガリガリになってるのもスゴいけど、微妙に骨格おかしくないですか?後、変に手足が長く感じたのですが、カメラの撮り方なんですかね?特に腕が妙に長い!
アーサーは貧困で病気持ちなのですが、やっぱりちょっと変なんですよね。あのコントの授業なのか皆で机に座ってコントを見ているシーンで、周りの人と笑いのツボが違うのに何とも言えない不気味さを感じました。何もない所で笑ってるのってハタからみたらちょっと怖いわ。
ホアキンさん、今回のアーサーというキャラクターを体現するために激ヤセしたみたいなのですが、見事にキャラクターになりきっています。ホントにあんな人なんじゃないかと思えるぐらいに。あの苦しそうに笑う姿といい、覚醒した後のキレッキレじゃないダンスといい、もう本作はホアキン・フェニックスの大勝利です。いやー、引き込まれますわ。
個人的にアメコミ好きでもマーベル派なのでDCのジョーカー関連だと「キリング・ジョーク」と「アーカム・アサイラム」しか読んだ事がないのですが、「バットマン」という作品は1939年に始まってから2019年で80年、「ジョーカー」の初登場も1940年なのでキャラクターとして、とんでもなく長い歴史があるわけなんですよ。「ジョーカー」の単独作品もいっぱいありますし。となれば色んな設定のジョーカーがいて当然で、逆にいうと色んな側面を持つ奥の深さがアメコミの魅力とも言えます。そして本作もまた1つの「ジョーカー」の姿なんです。
長い「ジョーカー」の歴史に新たに素晴らしい1ページが加わった事を心より祝福したいと思います。
ジョーカーから見た世界
見終わった直後と時間が経過した後で印象が変わる不思議な映画だった。
初見、「いやいや、ウェイン家金持ちやん!」という壮大なツッコミ映画だと思った。
ブルース含めウェイン家が行う正義は社会の底辺及びはみ出してしまった人には届かない。彼らから見たウェイン家の正義は偽善、ナルシズム、自己利益の追求に映る。
バットマンという存在の欺瞞を暴く作品というのが本作初見の印象。
それと併せて、
・暗がりの地下鉄車両内で引き笑いを浮かべながら銃を撃つ男
・自分の家の居間にぼうっと居る隣人
・自分が実の息子だと言い寄ってくる男
等、その場面だけ切り取れば確実にヤバい奴なのだが、その前後に理由があるとヤバさが薄らぐ。
つまりどんなにヤバい奴でも主観にすれば感情移入出来るでしょ、という凶悪犯罪者ジョーカーへ感情移入してしまう危険な映画だと思った。
その後、多くのこの映画の評論を聞いた。最も興味深かったのはライムスター 宇多丸さんの批評だった。彼の批評を聞いてこの物語そのものが信用できない語り手、ジョーカーの視点から語られているということに気づいた。
つまりこの作品、どこからが真実でどこからが嘘・妄想なのか分からないということだ。
確かに序盤、中盤、ラスト、3回カウンセリングの場面が出てくる。この時、3回とも同じカウンセラーのように見える。おかしい。
序盤と中盤は保健所のような行政機関の無料カウンセリングでの問診、ラストは精神病院の問診だ。全て同じカウンセラーな訳が無い。
そもそもこの映画のラスト、カウンセラーにジョーカーが語っているということは客観では無くジョーカーの回想、ジョーカー視点の物語だということだ。
そしてジョーカー視点の物語の中でなぜジョーカーが立ち会っていないブルースウェインの両親が殺される場面が入るのか?ジョーカーが夢想したものか。
また、ジョーカーがシングルマザーとの間に見ていた淡い恋。これが妄想だと分かる。
そう、ジョーカーは妄想癖のある奴でその妄想が現実と区別が付かなくなる病を抱えている。
恐らく幼児期の虐待による脳障害からそうなってしまった。
この作品の中でジョーカーにとって都合の良い事象は恐らく妄想だろう。
自分の考えでは、
・母の入院記録を奪い、出生を知る場面
・コメディショーに呼ばれる場面
・市民の希望となるジョーカー
この辺は妄想色が強い。
ダークナイトでジョーカーが口が裂けた理由を色んな人に話すが、話すたびに理由が違う。一体、何が本当で何が嘘なのか分からない。もしかしたら全部嘘なのかもしれない。
それって最もジョーカーを表していないだろうか?
自分が感じたのはジョーカーは恐らく瞬間、瞬間に浮かぶ妄想を現実として話しているのでは無いかと思う。
今日のジョーカーはこういう妄想だけど明日は違うかもしれない。
そして自分がこの映画が凄いな、と感じたのはそういう妄想症の人間が感じる主観を観客が追体験出来る様に作られている。
監督のトッドフィリップスはハングオーバーで有名だが、あの作品も失われた真実を主人公達が探っていく話だった。本作は観客自身が一体何が真実なのか探る、考える話なのだと思う。
そして自分は全てが嘘だと思う。
決して天の邪鬼ではありませんが……
ホアキン・フェニックスのいびつに痩せた体形と直接心臓に響いてくるような音楽、その二点がおぞましさを増幅させてはいるが、あの〝ジョーカー〟誕生秘話としてはなんだか厚みがないように感じた。
〝小さな人〟に見せた優しさ、ヒーローとして祭り上げられて踊っている様は、どうみても〝普通〟の人間性の発露であり、〝絶対的な悪〟としては弱々しい。
『ダークナイト』で感じた、人間の弱点を容赦なく一片の隙もなく突いてくる凶々しさにどうしても繋がらない。
ジョーカー、或いはジョーカー的な邪悪(人間の弱さを集めて社会を恐怖と不安で覆うようなこと)と闘うためにダークナイト・バットマンが存在するように勘違いしていたが、ジョーカーは始めからジョーカーだったのではなく、バットマン的な正義の必要性を悟らせるために『ダークナイト』に登場するような本当の〝ジョーカー〟として造形された。
そういうことかもしれない。
クリストファー・ノーランの『バットマン ビギンズ』『ダークナイト』、その二作品の前日譚として、ゴッサムシティーが何故そうなったのかを理解するための作品のようにも思えたが、ノーラン監督の凄さを再認識させられる人が多いと思う。
「上下逆転」を意識しながら観ると分かる
★はじめに
・どこにも「ダークナイトの前日譚だ」という記載がないにも関わらず、『ダークナイト』によって形成された「わたしのジョーカー像」と比較して低評価する人がいる
・自分の「ジョーカー」像は、どんな映画・ドラマ・コミック等メディアから形成されたのかを思い返すほうが良い(自分の思い込みを疑うこと)
・過去に色々なジョーカーは存在したが「この映画は」ジョーカーをどのように描こうとしているか、単体で見ることは出来るか。(前提知識や事前情報を無視して評価するとどうなるか?)
・勿論、DCコミックの「ジョーカー」を謳っている以上、過去のジョーカーとの比較は避けられない。
・「過去のジョーカーとの比較」と「この映画におけるジョーカーを単独で見る」をバランス良く行うことが、この映画に対する正当な評価ではないか
・では、過去のジョーカーとどこが違っていて、何を共有しているか?
→自分のレビューでは後者について述べます。「『あべこべ』こそがジョーカーの本質だと製作者は考え、映画の語り口全体を『あべこべ』(上下逆転)で表現しようとした」のだろうと考えました。
米コミックでは、同じキャラクターでも、作者によって、異なるデザインで、異なるストーリーで描く。作者ごとに異なった「ジョーカー」と「ジョーカーの物語」がある。だからといって、好き勝手にジョーカーを描いていいわけでもない。ではジョーカーの本質とは何か?見た目は勿論、どんな発言、振る舞い、犯罪スタイル、過去を以て「ジョーカー」は定義されるのか?その境界線を手探りする作業が、漫画家や映画製作者には求められる。
日本の漫画読者は、「この作者が描いたものが正しい」という考え方をする。米コミックは、同じキャラクターを色々な作者が、自分のデザインと自分のストーリーで描いてもいい。一方日本の漫画では、原作者によるデザインと、原作者によるストーリーが「正しい」とされる傾向にある。
「キャラクターが、原作者の手からどれくらい離れているか」は、米コミックと日本の漫画では異なる、という点を意識すると、『ジョーカー』に対する評価の視点も変わるかも知れない。
★★この映画を観る時は「上下逆転」を意識する
・社会の底辺はのし上がりたい
・ジョーカーは転落するほどヒーローになる
・転落するほど「本当の自分」を解放できる
・悪役をヒーローに(バットマンを悪役に)
・階段を降りている時、実は昇っている!
★★★ -(マイナス)を+(プラス)に変える
→なんでも逆(あべこべ)にしてしまう、道化師の本質
「上下逆転」を意識すると分かる映画
以下本題。
・・・
トリックアートの代名詞、マウリッツ・エッシャーの作品に『相対性』というものがある。階段を昇り降りする人物群を描いた絵画だが、1人の人物が降っているのと全く同じ階段を、全く同じ向きに、別の人物が「昇っている」。
もしこの作品を知らない人は、「エッシャー 相対性」でググってみてほしい。
このトリックアートと同じような効果を、映画『ジョーカー』は利用して、下降と上昇を全く同一のこととして提示してみせた。
劇中、主人公アーサーは何度か階段を昇り降りする。特に降りる場合に注目すると、彼が階段を降りるたびに、カメラはまるで彼が階段を「昇っている」かのような角度から急勾配で写し出す。昇っているときは降りているかのように。降りているときは昇っているかのように。落ち込む背中が階段を昇るときは下に落ちていくようだし、階段を下る背中はむしろ上昇するかのようにウキウキしている。(ジョーカーというのはあべこべな存在である。悲劇は喜劇。喜劇は悲劇。表は裏で、裏は表。)
その意図は?
下降すれば下降するほど、彼は上昇する。それはバネのようなもので、押さえつければ押さえつけるほどよく伸びる。助走の距離をたくさん取れば取るほど遠くに飛ぶ。
ジョーカーが転落すればするほど、タガが外れた彼の爽快感は大きい。人殺しというまさに最底辺の行いこそ、彼に最も爽快感を与える。それも彼が社会の最下層へと押さえつけられたゆえだ。彼は勝手に下降したのではない。抑圧され、下に押しつぶされたのだ。上がりたくても上がれないのだ。
転落しきったジョーカー=アーサーだが、一旦暴動が発生すると救世主がごとく祭り上げられる。その様はまさにヒーローだ。ジョーカーと言えば「バットマン」シリーズ最凶の悪だ。だがこの映画では、貧困層の立場からすれば彼は善なのだ。(いわば今作は『ジョーカー・ライジング』。バットマンがパトカーの上に立つ姿が、『ダークナイト』あるいは『ダークナイト・ライジング』のポスターアートとして存在したと思う。今回はジョーカーがパトカーの上にRISEする。これははっきりバットマンに対抗している。バットマンが民衆の上に立ち上がるなら、俺も民衆の上に立つ、と。)
悪は善に、そして善は悪に。ジョーカーが善ならば、バットマンは悪。バットマン=ブルース・ウェインは、資産家ウェイン家の一員として、上級民と底辺層への分裂構造を生み出した、悪者の側に位置づけられる。
よく考えてみればこれはすでに『バットマン・ビギンズ』や『ダークナイト・ライジング』でも描かれていたことだ。両親の死に憤り、犯罪者への罰を望むも、司法は腐敗して機能しない理不尽な世の中に直面するブルースに向かって、幼なじみレイチェルは「貧困が犯罪を生む」という現実をつきつける。ブルースは自分の潤沢な資産を使って貧困を改善するのではなく、武装(おもちゃ)し、私怨から犯罪者を叩きのめす。これでは問題の原因解決になっていない。バットマンの行動は、純粋な善ではないし、合理的な解決策でもない。ただ自分の憤りをぶつけたい。発散したいのだ。結局バットマンは、金持ちであるという立場を利用して夜遊びをしているのに過ぎない。(理不尽に直面し「自分で行動しなければならない」となった点で、今作のアーサーに似ている)
そんな彼を罰するように『ダークナイト・ライジング』でブルースは屋敷も地位も執事アルフレッドも失って、裸一貫での再出発(とはいえやはりスーツも武器も持ったままなのだが)を促される。そしていつのまにか、本当は金持ちの側として叩かれる側なのに、民衆の側に立ってベインを叩く。(民衆の側にあったはずのベインがいつのまにか民衆の敵になっている。このような転移を許容せしめるものは何だろうか?)(それもこれも、バットマンがシンボルだから出来たことだ。金持ちだとかの背景が、仮面の裏に隠されているから出来ることだ。だからバットマンはズルい。姑息だ。そこが彼の特徴でもある。ダークナイトだから。)
(補足)バットマン=ブルース・ウェインは両親殺害当時幼く、金や権力を利用して何か悪事を行ったわけではない。しかしその父親は、ウェイン社のトップであり、政治家でもあった。具体的にどんな罪を犯したかは知らないが、アーサーを始めとする底辺層からすれば父親が報いを受けるのは「当然のこと」であり、ブルースも「父親と同じ」側なのだ。だからブルースが犯罪者を憎むのは逆恨みであり、本当は自分の身を振り返るはずなのに、していない。『ダークナイト』三部作ではトーマスは医師であり、ウェイン社の経営は譲渡し、市民のために安価な鉄道を敷設するなど貧困をなくすためになにかをしようとしていたから、今作のように「バットマンこそ自分の身を振り返ってみろ」と言う描かれ方がより強いかたちで成されるのは初めてのことだ。(むしろノーランが、バットマンが責任追及されるのを避けるようなかたちで、トーマスを貧困の原因から外したのかもしれない)
以上のような『ダークナイト』三部作における「犯罪の原因=貧困」論を踏まえ、『ジョーカー』は、バットマンという上級層からの視点ではなく、底辺層の立場からを描く。
バットマンが上級層の善ならば、この映画におけるジョーカーは底辺層の善=ヒーローである。善を悪に、悪を善に。暴力行為がヒーローとなるのもまた、主人公アーサーが抑圧されにされた結果である。降下すればするほど上昇している。
『ダークナイト』では、ジョーカーの鮮やかな犯罪手腕に爽快感を覚えた人もいるかも知れない。そのような、悪事がもたらす爽快感こそ今回の「下を上に」ということだ。(文明社会において禁止・抑圧されている数々の行為、おこないにこそ、人間の本性とでも言うべき、爽快感が眠っている。)
……というのもまた、ジョークだったというオチ。
涙は笑いに、笑いは涙に。全てをあべこべにする道化師。この映画全体を彼の妄想として見せられたとき、観客は「何が真実で何が嘘か」の拠り所を失って不安になる。それは劇中でアーサーが感じていたのと同じ狂気だ。
人は嘘でも笑わなければいけない。理不尽さを味わされているにも関わらず、相手の機嫌を取って、耐え忍ばなければいけない。それが正気だとされる。そして「本当の自分」を出す人間ほど「頭がおかしい」と避けられる。正気こそが仮面で、狂気こそが真実だ。そのような逆転、あべこべ現象は既に、この世の中に現前している。(本当の自分=内面が抑圧されればされるほど社会的には上昇する。本当の自分を解放するほど、社会的には転落する)
「この映画はあくまでジョークですよ」というのは、「この映画は決して革命を促しているわけではありません」という最後の予防線なのかもしれない。とはいえ、この映画が今現在燻る民衆の不満を汲んでいるというのも事実だ。下を上にしたい、という。
追記①「何も本当のことを言えず、お道化しかしない」という点で、事前に『人間失格』(太宰治)を想定して鑑賞した。不満があっても強い者が勝つ、物事を良くしたくても既得権益がそれを阻む、という諦観や失望においては今作と共通するのかも知れない。葉ちゃんの「お道化」はいわば仮面であるが、世渡りをすることは仮面を被ることだという点ではある意味で真理を体現している。道化師は嘘を装って真実を語るのだ。(『バットマン・ビギンズ』でも、ブルースに向かってレイチェルは言っている。「この仮面が、あなたの本当の姿なのだ」と。嘘がまことなのだ。)
また黒澤明監督作品『乱』には、狂阿弥という道化師(演・ピーター)が登場する。このような殿様控えの道化師は、場を盛り上げる役割を持ち、多少の無礼は許されたという。いわば「イジり」が許された。イジりは、個人の外見や言動、性格を取り上げて馬鹿にすることだ。しかし目上の者が目下の者に行えばパワハラ事案だし、目下の者が目上の者に行えば不興を買ってこれまたパワハラに繋がりかねない。特に後者の場合のようなイジり(目下→目上)を行うことが許される場が「無礼講」である。道化とはいわば、この無礼講を常時行う特権を有した職業であった。「冗談」を装って真理をつくのである。権力を使ってナワバリを守る人間の権威を崩す、それがコメディアンだとか風刺の1つの役割なのかも知れない。
追記②
バットマン不在の今作は、単独でも成立するが、バットマンと似ながらにして対極にある両者の相補的な関係をよく認識させてくれるように思った。共に仮面で装った存在であり、『ダークナイト』三部作と『ジョーカー』においては貧困問題という同一の事案から、バタフライエフェクト的に誕生する。今作は特にジョーカーを、いわゆる犯罪者側のヒーローとして描いた。(革命が成功したあとの世界では、バットマンは悪の側の好敵手として記録されるだろう)
そしてもしかしたら、2人とも同じ人間を父親に持つのかも知れない。(ただし『バットマン・ビギンズ』と『ジョーカー』ではトーマス・ウェインの描き方が全く異なり、別人物とも言えるから、必ずしも本作は『ダークナイト』の前日譚としては捉えられない)
両者は同じものから生まれたにもかかわらず、対立する関係を持つ。今作は特に貧富格差という構造内部に両者を配置することによってさらに、対立関係を克明にした。
これからの正義の話をしよう(喜劇と悲劇は抱き合わせ)
最初にネタバレしておく。
だから、まだ未視聴の人は、この先を読むのは鑑賞後にして欲しい。
最大のネタバレは、おそらく「この作品はDCバットマンのジョーカーとは関係がない」
という事だ。(監督自身が仄めかしているから本当だろう)
もちろん、そういう作品には見えないように作ってある。
いかにも「バットマンの名ヴィランであるジョーカーが、いかにして生まれたのか?その誕生秘話である」と「見せかける」ように構成されている。
だからすっかりそうだと信じて、そのまま鑑賞を終える人も多いのではなかろうか?
「woke」或いは「stay woke」と言えば「社会的に重要な事実や問題(とりわけ人種間の差別や平等に関するもの)を意識していたり、積極的に気にかけたりしている状態」を指す。
それは非常に価値ある事だと思うし、私自身そうありたいと思う。
しかし「woke culture」などの表現で使われる場合には少々ニュアンスが異ってくる。「本質を逸脱した過剰な正義感」として揶揄する意味合いが強まると感じる。
過剰過ぎる「言葉狩り」や古い時代の名作に対して「差別に抵触する不適切な描写」を理由に改変したり絶版としたりする事もその一つだし、昨今の「コロナ自粛警察」も「過剰な正義感」の悪しき発露だろう。
行き過ぎた正義は「人間誰しもが持つ弱さや愚かさ」への寛容さを奪ってしまう。「意見や見解の多様性」も失われ、実現不可能な理想的正義に縛られて、結局は他者を傷つける。
本作は「喜劇」という文化を抑圧&衰退させかねない「過剰な正義感」に対するフィリップス監督のアンチテーゼだ。
「コメディ映画を作り、それをひっくり返す」
「世界が正義と妄信するものをひっくり返す」
「喜劇に見えるものの視点をひっくり返す手法で悲劇を創作する」
この重要な任務を完遂してくれそうなキャラクターとして、ジョーカーに白羽の矢を立てたってわけだ。
「もしもDCのバットマンとジョーカーが実在すると仮定し、彼らのユニバースを「現実のノンフィクション」だ」とするならば、本作は「ジョーカーの事実に着想を得た、事実ベースのフィクション作品」だと捉えるのがわかりやすい。(少しもわかりやすくないか?(苦笑))
だから、オープニングにDCのロゴはない。エンドロールの全クレジットが終わってようやく申し訳程度に出るだけだ。
キャラクターは借りたが、本作のベースになっているのはアメコミではない。
ヴィクトル・ユーゴー原作の1928年サイレント映画「笑ふ男」が参照作品だ。
また「フレンチ・コネクション(71年)」「狼よさらば(74年)」「タクシードライバー(76年)」「キング・オブ・コメディ(82年)」のエッセンスを盛り込んでいる事は監督が明言している。
アーサーは言う。
「自分の人生は悲劇だと思っていた。 でも、今わかった。喜劇だってね」
これはチャップリンの言葉を踏まえてだろう。
劇中で流れる「モダンタイムス」は、マジョリティが正常でマイノリティが異常だとする価値観をひっくり返す。
「ジョーカー」も「正義と悪」「正常と異常」の価値観をひっくり返す事に、監督の情熱は傾注されているように思われる。
困ったのは、作品の一体どこからどこまでが「妄想」であるのか、監督が種明かししてくれない事だ。
50%という事はない。60%?80%?90%?
いや、もしかしたら99%すら「妄想」なのかもしれないのだ!
監督は「最後にアーカム州立病院の部屋で見せる、あのシーンだけが、彼が純粋に笑っている唯一の場面」だと述べている。
また、ロバート・デニーロ演じるマレーはアーサーに「オチはなんだ?」と何度も詰め寄る。つまり喜劇として作られているはずの「ジョーカー」という本作も「オチ」があるのだ、と仄めかしていると推測出来る。
この映画には「妄想シーン」である事を示唆する仕掛けが散りばめられている。
例えば
「作中の時計は常に11:11だ」
「利き手が変わる」
「機関が変わっても担当カウンセラーが同じ」
「地下鉄での発砲可能数が多すぎる」
などは明らかにハッキリとおかしい。
また、非常に気にかかるのが
「作中『アーサー』から『ジョーカー』に移る時、髪が『黒』から『緑』になるが、ラストシーンの人物は『髪は黒。凶行はジョーカー的』という矛盾を孕む点だ。
監督の言う通り「ラストシーンだけが本当の笑い」だというのならば、私達観客が「アーサーの現実」だと信じ込まされていたすべてのシーンすら「本当の主人公の妄想」という見方も可能なのだ!
(「アーサーの妄想オチ」とはまったく意味合いが違う!この映画の非常に秀逸な点の1つだろう)
しかも「ジョーカーとなったあとのアーサーである」と仮定可能な余地まで残されている・・・。まったくもう!
観客に「この映画はバットマンのヴィラン、ジョーカーの誕生秘話ですよ〜」と心の底から信じ込ませ、それが限りなく「真実」であるかのように演出しながら、実は「すべて虚構」であるという演出も随所に散りばめている。
喜劇をひっくり返し、悲劇をひっくり返し、真実と虚構、現実と妄想をひっくり返す。
なるほど、喜劇役者は「騙されている観客」の方であり、笑っているのはアーサーでもジョーカーでも無い「真の主人公」だという事か。
「コメディ作って文句言われるなら、コメディひっくり返して悲劇にすれば問題ないんだろう?(気付かれないようにそれもひっくり返して喜劇に仕上げてやるけどね)」って辺りが本音かな?
フィリップス監督、良かったね。随分と
「釣れた」ね?
世界中から発信されるレビューを読んで、監督はどんな笑いを浮かべているのだろう?
「正義への妄信」「真実だと思うものへの妄信」を問題提起する代わりに、随分と手の込んだブラックコメディに仕立てたものじゃないか。
嫌いではないが、私達は更に建設的に「これからの正義の話」でもしてみようではないか。
『ジョーカー』が描く社会の闇と人間の苦悩
トッド・フィリップス監督の『ジョーカー』は、単なるコミックヒーロー映画の枠を超えた、社会批評と人間性の探求を提示する作品だ。DCコミックスの悪役として知られるジョーカーの誕生秘話を描きながら、現代社会の闇と個人の苦悩を鮮烈に映し出している。社会への不満、普通ではない自分をどう受け入れるか。
●圧倒的な没入感と演技力
本作の最大の魅力は、主演ホアキン・フェニックスの圧倒的な演技力にある。彼が演じるアーサー・フレックは、コメディアンを夢見る心優しい男だが、社会から冷遇され、次第に精神を病んでいく。フェニックスは、アーサーの苦悩と変貌を、身振りや表情、そして独特の笑い方を通じて見事に表現している。特に、病的なヒョロヒョロとした体型から、ラストシーンで赤いスーツを纏った時の威圧的な存在感への変化は圧巻だ。
フェニックスの演技は、アカデミー賞主演男優賞を受賞するなど、高い評価を受けた。彼の演技なしには、この作品は成立し得なかったと言っても過言ではない。
●社会批評と問題提起
『ジョーカー』は、単なる娯楽作品ではなく、現代社会の問題を鋭く指摘する問題提起作でもある。貧困、精神疾患、社会の無関心など、様々な社会問題が描かれている。
アーサーの苦悩は、「普通」ではない自分をどう受け入れるかという普遍的なテーマを提示している。同時に、社会の底辺に追いやられた人々の怒りと絶望を象徴している。映画は、理不尽な世の中や、正論だけでは通用しない現実を浮き彫りにし、観客に深い考察を促す。
●真実の多面性
本作は「真実とは何か」という哲学的な問いも投げかける。特に、アーサーが母親を殺害するシーンは、真実の多面性を示唆している。ここで明らかになるのは、個人にとっての真実が、必ずしも客観的な事実と一致しないということだ。人は往々にして、自分が信じたいことを真実として受け入れる傾向がある。
この視点は、現代社会におけるフェイクニュースや情報操作の問題とも通じるものがあり、観客に真実の本質について考えさせる。
●音楽と視覚効果
ヒドゥル・グドナドッティルが手掛けた音楽も、作品の雰囲気を形成する重要な要素だ。セリフのないシーンでも、不気味で印象的な音楽が観客を引き込み、アーサーの内面を表現している。この音楽も、アカデミー賞作曲賞を受賞するなど、高い評価を得ている。
視覚的にも、1980年代のゴッサムシティの暗く荒廃した街並みが、アーサーの内面世界を反映するかのように描かれている。カメラワークや照明も、主人公の精神状態の変化を巧みに表現している。
●社会階級と正義の相対性
『ジョーカー』は、社会階級による視点の違いも鋭く描いている。富裕層と貧困層の対比を通じて、同じ社会でも階級によって見える景色が全く異なることを示唆している。
特に注目すべきは、「金持ちが人格者とは限らない」というメッセージだ。トーマス・ウェインのような上流階級の人物も、結局は自分の正義を押し付けているに過ぎない。これは、正義の相対性を示すと同時に、社会の分断を浮き彫りにしている。
●暴力の美化
一方で、この視点は暴力の美化という問題にもつながっている。アーサーの暴力行為が、社会に対する正当な反抗として描かれる場面があるからである。特に、地下鉄での殺人事件後、アーサーの行動が一部の市民から支持される展開は、暴力を肯定的に捉えかねない危険性をはらんでいる。
この点は批判的に見る必要がある。暴力を通じて自己実現を果たすというストーリーラインが、現実社会に悪影響を及ぼす可能性を指摘しているのである。映画は確かに、社会の不公平さを鋭く描き出しているが、それに対する解決策として暴力を提示しているようにも見える。
このような暴力の美化は、それを肯定する側と否定する側によって、社会の分断をさらに深める可能性がある。映画は観客に、暴力の是非について深く考えさせる機会を提供しているが、同時に暴力を正当化する危険性も孕んでいるのである。
●狂気と社会の関係性
本作の中心テーマの一つは、個人の狂気と社会の関係性だ。アーサーの精神疾患は個人的な問題のように見えるが、実際には社会の無関心や冷酷さが彼を追い詰めている。彼の変貌は、社会の歪みが生み出した必然的な結果とも解釈できる。
この視点は、現代社会における精神疾患や犯罪の問題に新たな光を当てている。個人の責任を問うだけでなく、社会全体の在り方を問い直す必要性を示唆しているのだ。
●結論:芸術作品としての『ジョーカー』
『ジョーカー』は、エンターテインメントとしての側面を持ちながら、深い社会批評と人間性の探求を行う芸術作品だ。観客を圧倒的な没入感で引き込みつつ、現代社会の問題を鋭く指摘し、人間の本質について考えさせる。
フェニックスの卓越した演技、印象的な音楽、緻密な視覚表現が相まって、観る者の心に深く刻まれる作品となっている。それは単なる娯楽を超え、社会と個人の関係性、正義と狂気の境界、真実の多面性など、普遍的なテーマを探求する哲学的な旅でもある。
『ジョーカー』は、映画という媒体の可能性を最大限に引き出し、観客に深い思索と感動をもたらす。それはまさに、現代社会を映し出す鏡であり、私たちに自己と社会を見つめ直す機会を与えてくれるのだ。
哀笑のピエロによる戦慄と混沌のショーの始まり
11年前、『ダークナイト』でヒース・レジャー最期の名演で魅せたジョーカー像はとてつもなく強烈で衝撃で、今後あれを超えるジョーカーは絶対に現れないと思っていた。
が、まさか、“ヒース・ジョーカー”に匹敵もしくは凌駕するほどの新たなジョーカーが現れようとは…!
ヴェネチア映画祭まさかの金獅子賞、あちこちで囁かれているアカデミー賞期待の声は元より、年間MY BEST入りは間違いナシ! 思わぬ傑作を鑑賞出来たこの喜び!
…しかし、作品は喜び/幸せ/楽しさ/面白さを感じられる代物ではなかった。
胸が詰まるほどの辛さ、苦しさ、哀しみが…。
バットマンの宿敵、ジョーカー。
その誕生秘話。
コミックで描かれた事あるかもしれないし、バートン版バットマンでも簡単に描かれていた。
しかし本作は、それらとは全く違う完全オリジナル。
アーサー・フレック。
突然笑い出すという奇病を持ち、時々精神不安定な病的な面も。
が、実際は内向的で心根優しい青年。
職業は、ピエロ。宣伝や呼び込みなどで街頭に立っている。
稼ぎも生活も貧しく、古アパートで病弱の母の面倒を見ながらの二人暮らし。
そんなアーサーの夢は、コメディアン。TVの大物コメディアン、マーレイに憧れている。
母からも言われている。あなたの笑顔が周囲を幸せにする、と。
だから、さあ、皆、笑って幸せになって。
…が、実際の世の中は笑えない事ばかり。
開幕早々、クソガキどもに看板を盗まれ、追い掛けるも、殴る蹴るの返り討ち。
ある日地下鉄に乗った時も、エリート風の3人の男に絡まれ、また殴る蹴る…。
どうして、こんな目に…?
僕が何をした…?
ただ、笑って欲しいだけなのに…。ただ、ハッピーになって欲しいだけなのに…。
混沌としたこの世の中で、笑う事は罪なのか…?
後のあのヴィランの面影はまるで無い。でも、どこか滲ませる。
孤独、悲哀、狂気…。
神がかり的と評された期待通りの…いや、以上!
圧倒されるほどのホアキン・フェニックスの入魂の熱演。
痩せこけた身体や風貌がまた社会の底辺で生きる男の姿に生々しいリアリティーをもたらしている。
複雑な内面や見た目も含め、ホアキンの一挙一動から一瞬たりとも目が離せない。釘付け!
以前から何処か危なっかし気のある曲者なホアキンだったが、それが今回のジョーカー像にピタリとハマった。
アカデミー会員の偏見が無い限り、まずオスカーノミネートは間違いないだろう。なるか、ヒース・レジャーに続きジョーカー役で2人目のオスカーの快挙…!?
作風やホアキンの演技に、『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』の影響色濃く。『タクシードライバー』を彷彿させるようなシーンも。
その両作に主演したロバート・デ・ニーロが、アーサーが憧れる大物コメディアン役でオマージュ的出演。
出番はそんなに多くないが、クライマックスのアーサーとの緊迫したやり取りなど、スパイス的に締めてくれる。
本当にアーサーを襲う悲劇や不運は見てて辛くなる。
仕事はクビに。
カウンセラーが市の予算削減で閉鎖。
地下鉄での3人の男とのトラブルが、最悪な事件に…。
アーサー自身にも過失はある。
でも、彼をそこまで追い込んだのは…。
絶望、ドン底、弱者への社会の仕打ち…。
そんなアーサーにも唯一の心の拠り所はある。
同じアパートに住むシングルマザーと、母。
シングルマザーと惹かれ合う。…ところが、まさかの…。
どんな時でも母は自分を見守り、自分も母を愛していた。
ある時知ってしまった、出生の秘密。
それは、2重で驚愕と衝撃だった。
愛は偽りだった。
そして、思わぬ人物との関係。ほんの少しでも温もりが欲しかっただけなのに、傲慢と冷酷な仕打ち…。
これが、アーサーの現実。
この厳しい現実は、何処までとことん彼を虐げれば気が済むのか…?
だって、アーサーの心はもはや折れる寸前…。
辛い時こそ、苦しい時こそ、哀しい時こそ、笑えという。
確かに笑えば気が晴れる。
でも、それにも限度がある。
とことん辛い時は苦しんだっていい。
とことん苦しい時は哀しんだっていい。
とことん哀しい時は大声を上げて泣いたっていい。
寧ろそうした方がスッキリし、負の感情を切り捨てられ、気持ちを切り換えられるきっかけになれる。
無理して笑うよりかは。
だがアーサーは、笑った。無理して。自分を偽って。
そしてアーサーの心は、折れた。…いや、心が壊れた。
哀しみと怒りをピエロの笑いのメイクに塗って。
主人公こそアメコミのキャラクターだが、一切SF色のアメコミ要素はナシ。
ヒーローvsヴィランのバトルは無論、派手なシーンもアクションもCGも。
重く暗く、一見地味な作風だが、終始緊迫感は途切れない。
第一級のクライム・スリラー!
アメコミのキャラをモチーフに、ここまで出来るものなのか…!
MCUでさえ本作にはKOされるだろう。
全くアメコミと切り離されているという訳ではない。
後に対する事になる“闇の騎士”にも触れられ、彼の父親である市の実力者やあの精神病院など、分かる人には分かるリンクネタが堪らん…。
アーサーが遂に、あのメイクをし、派手な衣装で現れた時には、ゾクゾクと興奮!
と同時に、ゴッサムが犯罪大都市になったまでも描かれる。
クライマックスの狂気の暴動はスリリングなカタルシスさえ感じた。
もう本当に、お見事!
当初不安視されていたあの『ハングオーバー!』のコメディ監督、トッド・フィリップスの手腕は、それこそ『ダークナイト』のクリストファー・ノーラン級!
今後監督には、コメディだけではなくシリアス作品のオファーが殺到するだろう。
本作を見ていたら、一つのキャラクターと一本の作品が頭に浮かんだ。
まず、ダース・ベイダー。
ベイダーもかつては純真な子供であったが、数々の運命や悲劇が彼を悪の化身にした。何処か誕生の経緯が似通っている映画史上屈指の悪のカリスマ。
そして、『帰ってきたウルトラマン』。同作の根底に、社会の不条理が怪獣を生む…という裏テーマがある。
悪を生み出したのは…?
堕ちた自分の弱さもあるが、しかし…。
後にこの最凶悪に翻弄され、嘲笑われるのは、彼にそうしてきた社会や我々への強烈なしっぺ返しに他ならない。
周りや人々を幸せに笑わそうとした。
逆に冷たく嘲笑われた。
哀笑のピエロによる戦慄のショーの幕が、上がった…。
観る前に気づけよ、俺!
前情報なしで見るのも大概にせーよ、俺。と軽く自分を呪いつつ。映画が始まってから気づいた。遅いってw
Gotham City と聞けば分かるやん。ダメだダメだ、偏見持って見ちゃダメ。先入観は捨てて、この物語に没頭しなきゃ。と気持ちを切り替えはしたけれど。結論、どえらく回りくどい前説だった。悪く無かったけど「狂気」と「残虐性」をドライブさせるのが、結局は妄想性の反社会精神だってのが…「存在証明」を求めていた件から、足元が「狂気」に向かって崩落して行く様に、物足りなさを感じました、アレでも。いや、だってjokerの残虐性ってハンパ無いから。
薄暗いソイに取り残されたブルース・ウェインのその後も作る?
骨張ったホアキン・フェニックスの背中に役者魂を見た気分。ビューティフル・デイでは、お腹ダブダブでしたのに!
コレがオスカー候補?ホアキン・フェニックスの主演男優賞なら納得します。何か無茶苦茶良かった。映画を救ってたと思いました。
自分の中にもあるかもしれない狂気
ジョーカーが如何にしてできたか。という観点よりも時代背景は違いますが現代社会の抱える負の部分、人間の持つ闇の部分等々、非常に考えさせられる映画でした。許されることではないはずなのに、何故か彼に共感してしまっている自分自身に恐ろしさを感じます。多くの人が同じような感想を抱いているのではないでしょうか。アメリカではこの映画が社会に与える影響を強く懸念して色々な報道がされていると聞きます。観方は人それぞれでしょうが確かにこの映画を観た多くの人々の胸に残る(刺さる?)ナイフのような、鈍器のような印象は最近の映画では感じなかったものではないかと。DCファンの期待するジョーカーではないのかもしれませんが誰もが持っている(かもしれない)漆黒の感情を見事に表現した作品だと思います。それにしてもホアキン・フェニックスの大笑いしながらも哀しみに満ち満ちた表情、役作りとはいえげっそりとした体型、どれをとっても秀逸でした。後味はよくありませんが色々な年代、立場の方々に観てここにレビューしてほしい映画です。
※誰かも書かれていましたがこのジョーカーがバットマンと相対するには年齢的にギャップがありすぎかも?ジョーカー続編で本当のジョーカーにどのようにして引き継がれるかがあるかもしれないと感じてしまいました。
絶対的な狂喜への変貌を悲しくも魅せる人間ドラマです。
今年の秋の大本命でアカデミー賞確実と言われる作品ですが、DCコミックス系の作品は肩すかしされた事も多く、個人的にも合わないなぁと思える事も多いので腰が重かったのですが、先日リニューアルオープンしました丸の内ピカデリーのドルビーシネマのオープニング作品とあって、丸の内ピカデリーで観賞しました。
で、感想はと言うと、いや~凄い!凄いわw
ジョーカーとしての誕生を描いていますが、ブレる事なく、2時間と言う時間に圧倒的な熱量と有無を言わさぬ情念を重く静かに観る側に叩き込んできます。
稀代の悪役キャラでバットマン最大のライバル。
本来ならバットマンのスピンオフに位置するのですが、この作品はスピンオフが完全に独立と言うか本家を食ってます。
なので、バットマンのスピンオフと言うよりもバットマンがジョーカーのスピンオフの様な変な逆転現象を感じます。
ストーリーは完全オリジナルで今までのジョーカーになる過程とは別物なので、以前のイメージに引っ張られると違和感を覚えるかなと思いましたが、違和感を覚える隙間を与えないぐらいにこれでもかと叩き込んでくる。
それも迫力や力技と言うのではなく、じわりじわりと狂気に導き、ジョーカーとしてなる辺りから狂喜に変わるのが圧巻的。
アーサー・フレックは病気を抱え、コメディアンとして大成する事を夢見る母親思いの心優しき青年。
仕事先の解雇をきっかけに様々な苦難がアーサーの行く先々にのし掛かる。
それは思いがけない物ばかりでいろんな物が信じられなくなり、いろんな物に裏切られ、次第にジョーカーとして変貌していくのが上手い。
本筋がブレる事もなく、ジョーカーへの変貌を描きつつも、小さな起伏と言うか、取っ掛かりとなる傷的なのが至るところに散りばめられていて、それが上手く昇華していく。
なので、ジョーカーとしての変貌していく事に待望感を寄せつつも、混沌の中のカリスマの誕生に喜んでしまう。
完全にゴッサムシティの住人の気持ちが分かりますw
観ていて、何処までが現実で何処までが空想かが分かり難いかったりしますが仮に現実であったとしても空想であったとしても、その過程を経た結末は悲しい。アーサーの思いや切なさ、悲しみは観る側にキリキリとナイフを突き立ててきます。
ジョーカーと言うと、ジャック・ニコルソンのイメージが個人的に大きいですが、観賞後はジョーカー = ホアキン・フェニックスのイメージに塗り替えられました。
とにかくホアキン・フェニックスが凄い。
今までジョーカーのイメージとはかなり違い、ジャック・ニコルソンやジャレッド・レトとは程遠く、どちらかと言うとヒース・レジャーのジョーカーに近いですが、完全に新しい解釈でのジョーカーを作り上げました。
役への作り込みも鬼気迫るものがあります。
ジャック・ニコルソンのジョーカーとは別物のアプローチではありますが、ジャック・ニコルソンが主演の「シャイニング」のジャック・トランスに通じる狂気を感じる。全身でアーサーの悲哀を演じてます。
アーサーが憧れるマレー・フランクリン役のロバート・デ・ニーロも当たり前ですが流石に良いです。
良い感じでアーサーの変貌を手助けしてますw
また、明暗の色彩も見事で、いろんな感情を表現しています。
DCコミックス系の作品はマーベル作品に比べると明暗の暗の部分が多すぎて、必要以上に暗さを描き過ぎで見辛い感じがしましたが、今作のジョーカーではバッチリハマってます♪
その辺りを凄く感じたのはドルビーシネマで観賞した事も多分にあると思います。
ドルビーシネマの圧倒的な映像表現は凄かったです。上映前のデモ映像で本当に黒色を見せられた時にはビックリしました。
なので、ドルビーシネマで観た事で少なくともプラス0.5点は付いてますw
IMAXで初めて観賞した時も凄いと感じましたが、今回のドルビーシネマはそれ以上。場内は黒を基調としていて、色彩がより鮮明。勿論音も良い。
映画を観ると言うよりもアトラクションの様に映画を体感すると言った感じでプラス600円が全然高くないです。
3D作品には殆ど魅力を感じませんが(映画を観る際はメガネを掛けるので、メガネ オン メガネになるからw)、IMAXも今回のドルビーシネマも作品によるかも知れませんが、映像表現に力を入れた大作には絶対良いです。
作品に難点を言うとすれば…少しアカデミー賞とか賞狙いの所が見え隠れして、賞取り作品として意識し過ぎてるかな?と思えなくはないかなと。
世界が狂気を受け入れる体制がある事自体、それはコメディであり、コメディなら民衆を笑わせ導かせるコメディアンとしてアーサーがジョーカーになったのは必然。
でもその必然は悲哀であり悲劇であるけど、圧倒的な悲劇の悪のカリスマに魅了されます。
触れ込みに「絶対に観ないといけない作品」とありますが、絶対に観ないといけないは言い過ぎでも観る価値は絶対にあります。
その際はドルビーシネマかIMAXで観賞を強くお薦めします!
スラム街のヒーロー
バットマンの宿敵・ジョーカー誕生までの哀愁漂うストーリー。これまでのアメコミ映画とは一線を画し、スラム街の暗い現実に視点を当てた、ヒューマンタッチの社会派ドラマに仕上げています。
ベネチア金獅子賞もうなずけるし、ジョーカー役のホアキン・フェニックスの不合理な社会への怒りと憎悪に満ちた演技は、鬼気迫るものがあり、早くもオスカー候補の大本命とか…。
ジョーカーはキャラクター的にも、主役のバットマンを喰ってしまうほどの存在感を示してきた悪脇役。これまでジャック・ニコルソンをはじめ、ヒース・レジャー、ジャレッド・レトーなど、名だたる名俳優が演じたきた経緯もありましたが、その後を継ぐホアキンも、その重責を十分に果たしていたと思います。
今までも、ジョーカーには悪役ながらも、どこか憎めない人間臭さを感じたていたのですが、本作を通して、信じていた人からの裏切り、格差社会の底辺を生きてきた悲哀、などが根底にあることが明らかになり、そうしたキャラも納得しました。
そして、ウェイン家との因縁やバットマンシリーズの最初に繋がる場面も盛り込まれ、バットマンへのオマージュも忘れていないところが、嬉しかった。
最後に、死んだと思ったジョーカーが、スラム街の人々のヒーローとなって、再び立ち上がる場面は、ジーザス・クラスイスト・スーパースターを彷彿とさせる名場面だった。
発想が古い
バットマンの悪役JOKERがJOKERになるまでのお話と言う事ですが、
大昔に作られたJOKERの設定があり、それを守ったからなのか、
監督のセンスが古いのかはわかりませんが、
境遇や環境が悪を産んだ、みたいな安っぽい悪役の話になっちゃったなと思いました。
映画のストーリー自体も中盤まではわかりやすい話をダラダラと流してるだけの印象で、
JOKERとバットマンが兄弟!?(結局ガセ風味)みたいな話にしたいのは
序盤ですぐ予想がつくのに
いつまでもマンネリな茶番を見せられている様に感じて疲れました。
そのネタの後にJOKERとして目覚めて行く様は中々格好良いシーン多めで
楽しめました。
(ただ小人症の人に「お前だけは俺に優しかった」と殺さずに見逃すシーンは
まさにしょぼい悪役でガッカリです)
ラストのオチも、
全部妄想だよ~みたいな事を言われても、
つまらない妄想を映画にするなよ、としか。
抑圧からの解放
上映回によっては満席続きでようやく。
Jokerは、なるべくしてなったという感じでした。ありとあらゆる不幸を詰め込んだような境遇。もう笑うしかない、でも笑いたくて笑っている訳ではない。こんなに悲しく苦しい笑い声を普段耳にすることはありません。これだけ不遇の人生なら仕方ないのではないかと哀れむし、同情的な描き方にも取れます。ArthurからJokerへの変身は、不運の連続で八方塞がりとなった一個人に、持たざる者達の鬱憤の爆発という社会現象が究極の抜け道を与えたように思えました。
皮肉にも母親からHappyと呼ばれていたArthur。人を笑わせたいけど、笑われるのは許せないし、笑いのツボはかなり少数派。人を喜ばせたいというのは本心だったのでしょうが、それ以上に強いのは承認欲求でした。
Arthurの人格よりも驚いたのはGotham Cityの民度の低さです。Arthurの行く先々で起こる攻撃と拒絶と無視の繰り返し(確かに人相悪めですが)。もし福祉担当者1人だけでも彼に同情していたら。誰かが一言慰めていたら。誰かが自分の目先の利益より他人を案ずることができたなら。見ず知らずの人にほんの少し親切にすることは、労力の無駄でも何でもなく、誰かが明日への気力を保つきっかけになるかも知れないし、どこかの通り魔殺人を防ぐかも知れないのです。丁度八つ当たりや悪戯が巡り巡ってJokerを生んだように。過剰な自衛と無関心がGotham化を招くという危機感は現実の世界でも当てはまりそうです。
最後はBruceを襲った悲劇も描かれていて、JokerだけでなくBatmanも生まれた同じ市なのだと再認識できました。Bruceはヒーローになるよりも、巨万の富を分配して教育と医療・福祉、公共サービスを充実させた方が良くないか?とも思いましたが。
結局実親は分からず、特別な「ルーツ」の有無も不明のままですが、Jokerの犯罪者としての生い立ちと背景は、アメコミヴィランであることを忘れるくらい、非常に現実的かつ典型的でした。普段は社会生活を問題なく送りながら、家族に隠れてよそで殺人を繰り返しているような実在の殺人鬼達の方がよほど闇が深そうです。
Joaquin Phoenixを予告編で観た時は、Jokerを演じるために役者になったんじゃないかと思うほど強烈に似合っていて、キャスティングに感謝しました。随分痩せて臨まれましたね。険しい邪念を演じさせたらピカイチの眼光を持っています。
“The worst part of having a mental illness is people expect you to behave as if you don't.”
“I hope my death makes more cents than my life.”
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