ジョーカーのレビュー・感想・評価
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絶望の果てにあるあっけらかんとした心の荒野
レトロな色調で映し出されるゴッサムシティの根底で生きる大道芸人、アーサーの、まるで人の不幸をまとめて請け負ったような日常に、まず惹きつけられる。誰しも、彼ほどではないにしろ、嫌なことが連続して起きることはあるし、そんな時、悲しむよりむしろ笑ってしまうことだってある。ついてない現実から逃避するため、愉快な妄想の中で思いっきり自分を解放してみたくもなる。トッド・フィリップス×ホアキン・フェニックスの「ジョーカー」は、観客の心の足を鷲掴みにして、物凄い力で地獄へと引き込もうとする。かつて、コミックス上のヴィランにこれほどシンパシーを感じたことがあっただろうか?そうして、これまで誰も描かなかった「なぜ」に踏み込んだ本作は、絶望の果てにある妙にあっけらかんとした心の荒野を大都会のど真ん中に設定して、人の世の悲喜劇を新たな形で提示する。今年一番の強烈な映画体験。そろそろ始まるアワードシーズンを間違いなく牽引する1作だ。
【優しき人間の善性が、絶対的悪に変容していく様を恐ろしくも哀切に描き出した作品。】
ー 冒頭、貧しき道化師アーサーは笑う仕草を繰返しながら、涙を流している。ラジオから流れるゴッサムシティの衛生状態の混乱。ー
・帰宅しても愛する母の健康状況を気遣い、バス内では幼子を笑わせようとし、エレベーターに駆け込む親娘を待つアーサー。
どのシーンも不器用だが、彼の善性の欠片が観て取れる。
・が、アーサーの脆い神経は、自らを取り巻く辛い環境、数々の試練、愛する母の若き頃の姿に徐々に混乱していく。
・そして、シティの混乱の中、地下鉄の中で狂態を晒す若き証券マン達へ彼の怒りが炸裂してしまう。又、敬愛するマレー(ロバート・デ・ニーロ)の仕打ちが追い討ちをかける。
〈狂っているのは、私か社会か〉
・後半の、マレーのTV番組への出演からのラストシーンへの悪夢の様な怒濤の流れは忘れ難い。
〈そして、絶対的悪が降臨した〉
・ダークナイトシリーズとの繋がりもきちんと描かれているので、スピンオフとして観ても良いが、今作は、明らかに現代社会への警句として作られた作品だと思う。
<それを圧倒的演技で魅せるホアキン・フェニックス。
そして彼もこの作品で、絶対的名優になったのである。>
<2019年10月4日 ユナイテッドシネマ岡崎にて鑑賞>
乾坤一擲(けんこんいってき)の演技です。
さてジョーカーである。どんな存在か?
バットマンの宿敵、数々の名優が演じた悪役、
DCコミックス伝説のヴィラン、最後に持っていたら負け!
こらあ!それはババ抜きだよ!林先生の言葉検定の緑かよ!
のちのジョーカーことアーサーはコメディアンを目指します。最悪のゴッサムシティからぬけだすために。
しかし、そんな簡単にはいきません。人を笑わせるのは大変な事です。
日本でも相当な数のお笑い芸人志望の方がいますが世に知られ、お笑い番組にでて、さらにゴールデンタイムで看板組を持つ・・・どの位の確率でしょうか?多分1パーセント以下でしょう。しかも10年前のBIG3.たけし、タモリ、さんまが今も不動の地位を保っている。
私はタモリファンです。何年か前の事です。
関根勤のショーその名もカンコンキンキンシアター(音読みにしただけ)に毎年行っていました。場所は歌舞伎町のアップルシアター(今は有りません)真ん中の木曜日に行くと、必ずタモリが
来ていました。
チョータモリ!本当にいるんだ!
ツチノコかっ!
ある時舞台が終わって帰る時、偶然タモリが私のすぐ前に来た時が有りました。私が思った事は・・・
タモリは私が、死んでも守る!
大きなお世話だよ!
さて本作は内気なアーサーがいかにジョーカー
になっていったかの物語です。主役はホアキン・フェニックスです。上の兄は今は亡きリバー
妹はレインとサマー。ホアキンの本名はリーフです。つまり・・・川 葉 雨 夏 です。
キラキラネームか!!
しかしキラキラネームでは日本も負けていません!最強のキラキラネームそれは・・・
阿部プリンセスキャンディだ!(実在します)
ご存知の方も多いと思いますが、珍名さんの話題になると必ずメデイアにでてくる。しかもその度に可愛くなっている。友達からなんといわれているか?
阿部ちゃん!
プリンセスキャンディの無駄遣い!(ネタに使ってすみません。SNSやっているので、フォローして頂ければ幸いです)
さてここから本当に映画の感想です。
胸が痛い。滅入る。楽しくはない。でも記憶に残る。きっと。
刃を喉元に、当てられている。苦しい。凄いものを見せつけられた。そんな感じです。
おそらくこの映画がホアキンの代表作になるでしょう。体重を24キロ減量して臨んだこの映画。
デニーロの前でデニーロアプローチ。
乾坤一擲の演技。
70年代初頭の映画「タクシードライバー」「カッコーの巣の上で」「シャイニング」などの
イメージも感じました。ジャック・ニコルソンの狂気に近いです。はっ!
ニコルソンも ジョーカーやってる!
Isn't it beautiful? ホアキン・フェニックスの大勝利
で、結局どっち!?あのエンドは何処からが妄想で何処までが現実だったの?もし最初からだったらある意味夢オチか!?と観た後にとても混乱に陥ります。ある意味記憶に刻まれる衝撃的な作品です。
ホアキン・フェニックスってちょっと変わった役者さんなイメージです。まぁ、人気上がってた時にいきなり「ラッパーになります」。で、暫くして「実はラッパーになるのはジョークでしたー!」なんてやる程なので筋金入りなのでしょう、きっと。
でも、今回のジョーカーはホアキン以外に考えられないですね。本当に素晴らしかったと思います。二時間ほぼほぼホアキン・フェニックス!極端な話デ・ニーロですらモブ扱い。それでもホアキンの演技に魅せられます。だいたいあの体つきどうなってんの?ガリガリになってるのもスゴいけど、微妙に骨格おかしくないですか?後、変に手足が長く感じたのですが、カメラの撮り方なんですかね?特に腕が妙に長い!
アーサーは貧困で病気持ちなのですが、やっぱりちょっと変なんですよね。あのコントの授業なのか皆で机に座ってコントを見ているシーンで、周りの人と笑いのツボが違うのに何とも言えない不気味さを感じました。何もない所で笑ってるのってハタからみたらちょっと怖いわ。
ホアキンさん、今回のアーサーというキャラクターを体現するために激ヤセしたみたいなのですが、見事にキャラクターになりきっています。ホントにあんな人なんじゃないかと思えるぐらいに。あの苦しそうに笑う姿といい、覚醒した後のキレッキレじゃないダンスといい、もう本作はホアキン・フェニックスの大勝利です。いやー、引き込まれますわ。
個人的にアメコミ好きでもマーベル派なのでDCのジョーカー関連だと「キリング・ジョーク」と「アーカム・アサイラム」しか読んだ事がないのですが、「バットマン」という作品は1939年に始まってから2019年で80年、「ジョーカー」の初登場も1940年なのでキャラクターとして、とんでもなく長い歴史があるわけなんですよ。「ジョーカー」の単独作品もいっぱいありますし。となれば色んな設定のジョーカーがいて当然で、逆にいうと色んな側面を持つ奥の深さがアメコミの魅力とも言えます。そして本作もまた1つの「ジョーカー」の姿なんです。
長い「ジョーカー」の歴史に新たに素晴らしい1ページが加わった事を心より祝福したいと思います。
マスクは禁止にしちゃうぞ!
連日ニュースで届けられる香港のデモ。二日前には覆面禁止法なるわけのわからぬ法律が施行され、デモ隊の逮捕者が続出。そんな法律作られたらジョーカーが誕生しないじゃん!などと『Vフォー・ヴェンデッタ』(2005)まで思い出してしまいました。ピエロの化粧を施すのと仮面を被ることは同じ意味なのでしょうが、殺人鬼であるジョーカーを称え、市民が蜂起(とまではいかない暴動程度)するシーンは身震いしてしまいました。
これというのも貧富の差がゴッサムシティにも広がってるためであり、Vフォー・ヴェンデッタと雰囲気も似ています。現実問題でもある香港においては、民主主義を守るための抗議です。この香港情勢からも目が離せません。
さて、ジョーカーことアーサーですが、笑い病?をずっと患ってるようで、しかもワンテンポ遅れて笑ってしまう病気です。これじゃ吉本新喜劇じゃあーりませんか!たしか内場さんが得意だったハズ。しかし、ジョーカーのこの病気は笑えるどころか不気味です。それでもコメディアンになろうとしてるんだから、まずは吉本に入って腕を磨いてください!とツッコミたくなります。
ロバート・デ・ニーロもよかったし、ホアキンも良かった。オスカーノミネートも確実なのでしょう。ブルースの両親もやられちゃいましたが、こうやってバットマンとジョーカーの因縁も誕生してたのですね。詳しくないのでよくわかりませんが。
前評判に踊らされた
正直普通。むしろ退屈寄りの映画だった。
予想は超えてこないし演出も音楽でごまかしてる感。同情こそすれあまり共感できるキャラもいないし、映画に入り込めなかった。主演の怪演ぶりはすごいけど、展開はゆっくり、というより一般人がなぜ悪いやつになったか、その変容が表面的な肝だと思っていたし楽しみにしていたのだけど、もともと精神病んでる奴が主人公なので、初めと終わりでも精神ヤバイやつと特に変化がなく、そこにメリハリがないものだからゆっくりに感じてしまった。
精神病んでる上にろくな環境にいないのだからそりゃいつかやばい行動とるでしょ。
本当に事が動くのがマジの終盤だし、うーん、もっとやりようあったのでは。
一方で精神障害者の悲痛な描写という意味ではなかなか良かったと思う。いいように扱われつまはじきにされ、でも誰も助けてくれない。最後の語りはその苦しみを爆発させたもの。単に障害者を哀れむだけでなく、健常者すらも不幸にしてしまう恐ろしさを表現していたように思う(といっても障害者寄りだけど)。
京アニ事件というろくな保護下にもない精神障害者の引き起こした大事件があったが、そこにある恐ろしさと問題提起という意味で実にタイムリーな映画ではあった。
アカデミー賞候補?みたいな話らしいが、まぁ好きそうだよね、アメリカ人こういうの。社会問題を風刺しちゃうやつ。主演は男優賞取ってもおかしくないと思うけど。彼のおかげで最後まで観れたし。
総評としては「テーマはいいかも。でもサービスデー鑑賞で十分です」
くそ、増税で映画料金もあがってらぁ
ジョーカーから見た世界
見終わった直後と時間が経過した後で印象が変わる不思議な映画だった。
初見、「いやいや、ウェイン家金持ちやん!」という壮大なツッコミ映画だと思った。
ブルース含めウェイン家が行う正義は社会の底辺及びはみ出してしまった人には届かない。彼らから見たウェイン家の正義は偽善、ナルシズム、自己利益の追求に映る。
バットマンという存在の欺瞞を暴く作品というのが本作初見の印象。
それと併せて、
・暗がりの地下鉄車両内で引き笑いを浮かべながら銃を撃つ男
・自分の家の居間にぼうっと居る隣人
・自分が実の息子だと言い寄ってくる男
等、その場面だけ切り取れば確実にヤバい奴なのだが、その前後に理由があるとヤバさが薄らぐ。
つまりどんなにヤバい奴でも主観にすれば感情移入出来るでしょ、という凶悪犯罪者ジョーカーへ感情移入してしまう危険な映画だと思った。
その後、多くのこの映画の評論を聞いた。最も興味深かったのはライムスター 宇多丸さんの批評だった。彼の批評を聞いてこの物語そのものが信用できない語り手、ジョーカーの視点から語られているということに気づいた。
つまりこの作品、どこからが真実でどこからが嘘・妄想なのか分からないということだ。
確かに序盤、中盤、ラスト、3回カウンセリングの場面が出てくる。この時、3回とも同じカウンセラーのように見える。おかしい。
序盤と中盤は保健所のような行政機関の無料カウンセリングでの問診、ラストは精神病院の問診だ。全て同じカウンセラーな訳が無い。
そもそもこの映画のラスト、カウンセラーにジョーカーが語っているということは客観では無くジョーカーの回想、ジョーカー視点の物語だということだ。
そしてジョーカー視点の物語の中でなぜジョーカーが立ち会っていないブルースウェインの両親が殺される場面が入るのか?ジョーカーが夢想したものか。
また、ジョーカーがシングルマザーとの間に見ていた淡い恋。これが妄想だと分かる。
そう、ジョーカーは妄想癖のある奴でその妄想が現実と区別が付かなくなる病を抱えている。
恐らく幼児期の虐待による脳障害からそうなってしまった。
この作品の中でジョーカーにとって都合の良い事象は恐らく妄想だろう。
自分の考えでは、
・母の入院記録を奪い、出生を知る場面
・コメディショーに呼ばれる場面
・市民の希望となるジョーカー
この辺は妄想色が強い。
ダークナイトでジョーカーが口が裂けた理由を色んな人に話すが、話すたびに理由が違う。一体、何が本当で何が嘘なのか分からない。もしかしたら全部嘘なのかもしれない。
それって最もジョーカーを表していないだろうか?
自分が感じたのはジョーカーは恐らく瞬間、瞬間に浮かぶ妄想を現実として話しているのでは無いかと思う。
今日のジョーカーはこういう妄想だけど明日は違うかもしれない。
そして自分がこの映画が凄いな、と感じたのはそういう妄想症の人間が感じる主観を観客が追体験出来る様に作られている。
監督のトッドフィリップスはハングオーバーで有名だが、あの作品も失われた真実を主人公達が探っていく話だった。本作は観客自身が一体何が真実なのか探る、考える話なのだと思う。
そして自分は全てが嘘だと思う。
わかりやすい動機という落とし穴
ジョーカーという男はこんなにもわかりやすかったのか、と驚いた。バットマンシリーズはそれぞれ独立した世界なので、今回のジョーカーはこういう解釈なのだと言われてしまえばそれまでだが、本作はノーランの『ダークナイト』に近いリアル路線の世界観だったので、ノーラン版の印象をそのまま引きずって観ていたので驚いたのだ。
本作のジョーカーの世間を憎む動機はとてもわかりやすい。ノーラン版では、そのようなわかりやすい動機は示されなかった。ノーラン版は、なんというか、「混沌」そのものを愛してるような印象だった。口が裂けている理由がいつも違うのも、動機なんざどうでもいい、俺は混沌自体が好きなんだという風に見て取れた。その底知れなさに魅力だった。今回のジョーカーは、ある意味底が知れている。共感可能な理由も描かれる。実際共感を覚える人もたくさんいるようだ。
しかし、ちょっと待てと思う。その共感できるストーリーそのものが嘘かもしれない。本作が上手いのはここだ。映画全体を嘘かもしれないと提示することで、観客を混沌に落とし込む。この映画のそんな振る舞い方そのものがジョーカーっぽい。
決して天の邪鬼ではありませんが……
ホアキン・フェニックスのいびつに痩せた体形と直接心臓に響いてくるような音楽、その二点がおぞましさを増幅させてはいるが、あの〝ジョーカー〟誕生秘話としてはなんだか厚みがないように感じた。
〝小さな人〟に見せた優しさ、ヒーローとして祭り上げられて踊っている様は、どうみても〝普通〟の人間性の発露であり、〝絶対的な悪〟としては弱々しい。
『ダークナイト』で感じた、人間の弱点を容赦なく一片の隙もなく突いてくる凶々しさにどうしても繋がらない。
ジョーカー、或いはジョーカー的な邪悪(人間の弱さを集めて社会を恐怖と不安で覆うようなこと)と闘うためにダークナイト・バットマンが存在するように勘違いしていたが、ジョーカーは始めからジョーカーだったのではなく、バットマン的な正義の必要性を悟らせるために『ダークナイト』に登場するような本当の〝ジョーカー〟として造形された。
そういうことかもしれない。
クリストファー・ノーランの『バットマン ビギンズ』『ダークナイト』、その二作品の前日譚として、ゴッサムシティーが何故そうなったのかを理解するための作品のようにも思えたが、ノーラン監督の凄さを再認識させられる人が多いと思う。
5年前の今日悪のカリスマは誕生した…
今日は興行収入約1,564億円を稼いだジョーカー(2019)を観ました。
ちなみに観るのは3回目です。
この映画は心優しい少年が悪のカリスマジョーカーへと変わる物語です。
初めてこの映画を観た時は衝撃でした。
この映画を見てるとジョーカー(アーサー)のことを共感してるですよ。
共感してる自分が怖いんですよ。
マジで鳥肌たった
ちなみに僕のお気に入りのシーンはジョーカーとマレーのシーンです。ジョーカー(アーサー)がマレーのことを銃で殺すのはすごかったしびっくりしました。でも何故か俺のお気に入りはあのシーンなんですよね〜
そしてこの映画の中でも一番衝撃をだったシーンはランドルへの復讐です。
ジョーカー(アーサー)がランドルのことをはさみで刺すシーンはマジで衝撃でした。
多分この映画の中で一番衝撃なシーンかもしれないですね。
そして来週ジョーカー2が公開されます✨
ジョーカー2マジで楽しみです!
皆さんもぜひこの秋ジョーカー(2019)をご覧ください!
「上下逆転」を意識しながら観ると分かる
★はじめに
・どこにも「ダークナイトの前日譚だ」という記載がないにも関わらず、『ダークナイト』によって形成された「わたしのジョーカー像」と比較して低評価する人がいる
・自分の「ジョーカー」像は、どんな映画・ドラマ・コミック等メディアから形成されたのかを思い返すほうが良い(自分の思い込みを疑うこと)
・過去に色々なジョーカーは存在したが「この映画は」ジョーカーをどのように描こうとしているか、単体で見ることは出来るか。(前提知識や事前情報を無視して評価するとどうなるか?)
・勿論、DCコミックの「ジョーカー」を謳っている以上、過去のジョーカーとの比較は避けられない。
・「過去のジョーカーとの比較」と「この映画におけるジョーカーを単独で見る」をバランス良く行うことが、この映画に対する正当な評価ではないか
・では、過去のジョーカーとどこが違っていて、何を共有しているか?
→自分のレビューでは後者について述べます。「『あべこべ』こそがジョーカーの本質だと製作者は考え、映画の語り口全体を『あべこべ』(上下逆転)で表現しようとした」のだろうと考えました。
米コミックでは、同じキャラクターでも、作者によって、異なるデザインで、異なるストーリーで描く。作者ごとに異なった「ジョーカー」と「ジョーカーの物語」がある。だからといって、好き勝手にジョーカーを描いていいわけでもない。ではジョーカーの本質とは何か?見た目は勿論、どんな発言、振る舞い、犯罪スタイル、過去を以て「ジョーカー」は定義されるのか?その境界線を手探りする作業が、漫画家や映画製作者には求められる。
日本の漫画読者は、「この作者が描いたものが正しい」という考え方をする。米コミックは、同じキャラクターを色々な作者が、自分のデザインと自分のストーリーで描いてもいい。一方日本の漫画では、原作者によるデザインと、原作者によるストーリーが「正しい」とされる傾向にある。
「キャラクターが、原作者の手からどれくらい離れているか」は、米コミックと日本の漫画では異なる、という点を意識すると、『ジョーカー』に対する評価の視点も変わるかも知れない。
★★この映画を観る時は「上下逆転」を意識する
・社会の底辺はのし上がりたい
・ジョーカーは転落するほどヒーローになる
・転落するほど「本当の自分」を解放できる
・悪役をヒーローに(バットマンを悪役に)
・階段を降りている時、実は昇っている!
★★★ -(マイナス)を+(プラス)に変える
→なんでも逆(あべこべ)にしてしまう、道化師の本質
「上下逆転」を意識すると分かる映画
以下本題。
・・・
トリックアートの代名詞、マウリッツ・エッシャーの作品に『相対性』というものがある。階段を昇り降りする人物群を描いた絵画だが、1人の人物が降っているのと全く同じ階段を、全く同じ向きに、別の人物が「昇っている」。
もしこの作品を知らない人は、「エッシャー 相対性」でググってみてほしい。
このトリックアートと同じような効果を、映画『ジョーカー』は利用して、下降と上昇を全く同一のこととして提示してみせた。
劇中、主人公アーサーは何度か階段を昇り降りする。特に降りる場合に注目すると、彼が階段を降りるたびに、カメラはまるで彼が階段を「昇っている」かのような角度から急勾配で写し出す。昇っているときは降りているかのように。降りているときは昇っているかのように。落ち込む背中が階段を昇るときは下に落ちていくようだし、階段を下る背中はむしろ上昇するかのようにウキウキしている。(ジョーカーというのはあべこべな存在である。悲劇は喜劇。喜劇は悲劇。表は裏で、裏は表。)
その意図は?
下降すれば下降するほど、彼は上昇する。それはバネのようなもので、押さえつければ押さえつけるほどよく伸びる。助走の距離をたくさん取れば取るほど遠くに飛ぶ。
ジョーカーが転落すればするほど、タガが外れた彼の爽快感は大きい。人殺しというまさに最底辺の行いこそ、彼に最も爽快感を与える。それも彼が社会の最下層へと押さえつけられたゆえだ。彼は勝手に下降したのではない。抑圧され、下に押しつぶされたのだ。上がりたくても上がれないのだ。
転落しきったジョーカー=アーサーだが、一旦暴動が発生すると救世主がごとく祭り上げられる。その様はまさにヒーローだ。ジョーカーと言えば「バットマン」シリーズ最凶の悪だ。だがこの映画では、貧困層の立場からすれば彼は善なのだ。(いわば今作は『ジョーカー・ライジング』。バットマンがパトカーの上に立つ姿が、『ダークナイト』あるいは『ダークナイト・ライジング』のポスターアートとして存在したと思う。今回はジョーカーがパトカーの上にRISEする。これははっきりバットマンに対抗している。バットマンが民衆の上に立ち上がるなら、俺も民衆の上に立つ、と。)
悪は善に、そして善は悪に。ジョーカーが善ならば、バットマンは悪。バットマン=ブルース・ウェインは、資産家ウェイン家の一員として、上級民と底辺層への分裂構造を生み出した、悪者の側に位置づけられる。
よく考えてみればこれはすでに『バットマン・ビギンズ』や『ダークナイト・ライジング』でも描かれていたことだ。両親の死に憤り、犯罪者への罰を望むも、司法は腐敗して機能しない理不尽な世の中に直面するブルースに向かって、幼なじみレイチェルは「貧困が犯罪を生む」という現実をつきつける。ブルースは自分の潤沢な資産を使って貧困を改善するのではなく、武装(おもちゃ)し、私怨から犯罪者を叩きのめす。これでは問題の原因解決になっていない。バットマンの行動は、純粋な善ではないし、合理的な解決策でもない。ただ自分の憤りをぶつけたい。発散したいのだ。結局バットマンは、金持ちであるという立場を利用して夜遊びをしているのに過ぎない。(理不尽に直面し「自分で行動しなければならない」となった点で、今作のアーサーに似ている)
そんな彼を罰するように『ダークナイト・ライジング』でブルースは屋敷も地位も執事アルフレッドも失って、裸一貫での再出発(とはいえやはりスーツも武器も持ったままなのだが)を促される。そしていつのまにか、本当は金持ちの側として叩かれる側なのに、民衆の側に立ってベインを叩く。(民衆の側にあったはずのベインがいつのまにか民衆の敵になっている。このような転移を許容せしめるものは何だろうか?)(それもこれも、バットマンがシンボルだから出来たことだ。金持ちだとかの背景が、仮面の裏に隠されているから出来ることだ。だからバットマンはズルい。姑息だ。そこが彼の特徴でもある。ダークナイトだから。)
(補足)バットマン=ブルース・ウェインは両親殺害当時幼く、金や権力を利用して何か悪事を行ったわけではない。しかしその父親は、ウェイン社のトップであり、政治家でもあった。具体的にどんな罪を犯したかは知らないが、アーサーを始めとする底辺層からすれば父親が報いを受けるのは「当然のこと」であり、ブルースも「父親と同じ」側なのだ。だからブルースが犯罪者を憎むのは逆恨みであり、本当は自分の身を振り返るはずなのに、していない。『ダークナイト』三部作ではトーマスは医師であり、ウェイン社の経営は譲渡し、市民のために安価な鉄道を敷設するなど貧困をなくすためになにかをしようとしていたから、今作のように「バットマンこそ自分の身を振り返ってみろ」と言う描かれ方がより強いかたちで成されるのは初めてのことだ。(むしろノーランが、バットマンが責任追及されるのを避けるようなかたちで、トーマスを貧困の原因から外したのかもしれない)
以上のような『ダークナイト』三部作における「犯罪の原因=貧困」論を踏まえ、『ジョーカー』は、バットマンという上級層からの視点ではなく、底辺層の立場からを描く。
バットマンが上級層の善ならば、この映画におけるジョーカーは底辺層の善=ヒーローである。善を悪に、悪を善に。暴力行為がヒーローとなるのもまた、主人公アーサーが抑圧されにされた結果である。降下すればするほど上昇している。
『ダークナイト』では、ジョーカーの鮮やかな犯罪手腕に爽快感を覚えた人もいるかも知れない。そのような、悪事がもたらす爽快感こそ今回の「下を上に」ということだ。(文明社会において禁止・抑圧されている数々の行為、おこないにこそ、人間の本性とでも言うべき、爽快感が眠っている。)
……というのもまた、ジョークだったというオチ。
涙は笑いに、笑いは涙に。全てをあべこべにする道化師。この映画全体を彼の妄想として見せられたとき、観客は「何が真実で何が嘘か」の拠り所を失って不安になる。それは劇中でアーサーが感じていたのと同じ狂気だ。
人は嘘でも笑わなければいけない。理不尽さを味わされているにも関わらず、相手の機嫌を取って、耐え忍ばなければいけない。それが正気だとされる。そして「本当の自分」を出す人間ほど「頭がおかしい」と避けられる。正気こそが仮面で、狂気こそが真実だ。そのような逆転、あべこべ現象は既に、この世の中に現前している。(本当の自分=内面が抑圧されればされるほど社会的には上昇する。本当の自分を解放するほど、社会的には転落する)
「この映画はあくまでジョークですよ」というのは、「この映画は決して革命を促しているわけではありません」という最後の予防線なのかもしれない。とはいえ、この映画が今現在燻る民衆の不満を汲んでいるというのも事実だ。下を上にしたい、という。
追記①「何も本当のことを言えず、お道化しかしない」という点で、事前に『人間失格』(太宰治)を想定して鑑賞した。不満があっても強い者が勝つ、物事を良くしたくても既得権益がそれを阻む、という諦観や失望においては今作と共通するのかも知れない。葉ちゃんの「お道化」はいわば仮面であるが、世渡りをすることは仮面を被ることだという点ではある意味で真理を体現している。道化師は嘘を装って真実を語るのだ。(『バットマン・ビギンズ』でも、ブルースに向かってレイチェルは言っている。「この仮面が、あなたの本当の姿なのだ」と。嘘がまことなのだ。)
また黒澤明監督作品『乱』には、狂阿弥という道化師(演・ピーター)が登場する。このような殿様控えの道化師は、場を盛り上げる役割を持ち、多少の無礼は許されたという。いわば「イジり」が許された。イジりは、個人の外見や言動、性格を取り上げて馬鹿にすることだ。しかし目上の者が目下の者に行えばパワハラ事案だし、目下の者が目上の者に行えば不興を買ってこれまたパワハラに繋がりかねない。特に後者の場合のようなイジり(目下→目上)を行うことが許される場が「無礼講」である。道化とはいわば、この無礼講を常時行う特権を有した職業であった。「冗談」を装って真理をつくのである。権力を使ってナワバリを守る人間の権威を崩す、それがコメディアンだとか風刺の1つの役割なのかも知れない。
追記②
バットマン不在の今作は、単独でも成立するが、バットマンと似ながらにして対極にある両者の相補的な関係をよく認識させてくれるように思った。共に仮面で装った存在であり、『ダークナイト』三部作と『ジョーカー』においては貧困問題という同一の事案から、バタフライエフェクト的に誕生する。今作は特にジョーカーを、いわゆる犯罪者側のヒーローとして描いた。(革命が成功したあとの世界では、バットマンは悪の側の好敵手として記録されるだろう)
そしてもしかしたら、2人とも同じ人間を父親に持つのかも知れない。(ただし『バットマン・ビギンズ』と『ジョーカー』ではトーマス・ウェインの描き方が全く異なり、別人物とも言えるから、必ずしも本作は『ダークナイト』の前日譚としては捉えられない)
両者は同じものから生まれたにもかかわらず、対立する関係を持つ。今作は特に貧富格差という構造内部に両者を配置することによってさらに、対立関係を克明にした。
これからの正義の話をしよう(喜劇と悲劇は抱き合わせ)
最初にネタバレしておく。
だから、まだ未視聴の人は、この先を読むのは鑑賞後にして欲しい。
最大のネタバレは、おそらく「この作品はDCバットマンのジョーカーとは関係がない」
という事だ。(監督自身が仄めかしているから本当だろう)
もちろん、そういう作品には見えないように作ってある。
いかにも「バットマンの名ヴィランであるジョーカーが、いかにして生まれたのか?その誕生秘話である」と「見せかける」ように構成されている。
だからすっかりそうだと信じて、そのまま鑑賞を終える人も多いのではなかろうか?
「woke」或いは「stay woke」と言えば「社会的に重要な事実や問題(とりわけ人種間の差別や平等に関するもの)を意識していたり、積極的に気にかけたりしている状態」を指す。
それは非常に価値ある事だと思うし、私自身そうありたいと思う。
しかし「woke culture」などの表現で使われる場合には少々ニュアンスが異ってくる。「本質を逸脱した過剰な正義感」として揶揄する意味合いが強まると感じる。
過剰過ぎる「言葉狩り」や古い時代の名作に対して「差別に抵触する不適切な描写」を理由に改変したり絶版としたりする事もその一つだし、昨今の「コロナ自粛警察」も「過剰な正義感」の悪しき発露だろう。
行き過ぎた正義は「人間誰しもが持つ弱さや愚かさ」への寛容さを奪ってしまう。「意見や見解の多様性」も失われ、実現不可能な理想的正義に縛られて、結局は他者を傷つける。
本作は「喜劇」という文化を抑圧&衰退させかねない「過剰な正義感」に対するフィリップス監督のアンチテーゼだ。
「コメディ映画を作り、それをひっくり返す」
「世界が正義と妄信するものをひっくり返す」
「喜劇に見えるものの視点をひっくり返す手法で悲劇を創作する」
この重要な任務を完遂してくれそうなキャラクターとして、ジョーカーに白羽の矢を立てたってわけだ。
「もしもDCのバットマンとジョーカーが実在すると仮定し、彼らのユニバースを「現実のノンフィクション」だ」とするならば、本作は「ジョーカーの事実に着想を得た、事実ベースのフィクション作品」だと捉えるのがわかりやすい。(少しもわかりやすくないか?(苦笑))
だから、オープニングにDCのロゴはない。エンドロールの全クレジットが終わってようやく申し訳程度に出るだけだ。
キャラクターは借りたが、本作のベースになっているのはアメコミではない。
ヴィクトル・ユーゴー原作の1928年サイレント映画「笑ふ男」が参照作品だ。
また「フレンチ・コネクション(71年)」「狼よさらば(74年)」「タクシードライバー(76年)」「キング・オブ・コメディ(82年)」のエッセンスを盛り込んでいる事は監督が明言している。
アーサーは言う。
「自分の人生は悲劇だと思っていた。 でも、今わかった。喜劇だってね」
これはチャップリンの言葉を踏まえてだろう。
劇中で流れる「モダンタイムス」は、マジョリティが正常でマイノリティが異常だとする価値観をひっくり返す。
「ジョーカー」も「正義と悪」「正常と異常」の価値観をひっくり返す事に、監督の情熱は傾注されているように思われる。
困ったのは、作品の一体どこからどこまでが「妄想」であるのか、監督が種明かししてくれない事だ。
50%という事はない。60%?80%?90%?
いや、もしかしたら99%すら「妄想」なのかもしれないのだ!
監督は「最後にアーカム州立病院の部屋で見せる、あのシーンだけが、彼が純粋に笑っている唯一の場面」だと述べている。
また、ロバート・デニーロ演じるマレーはアーサーに「オチはなんだ?」と何度も詰め寄る。つまり喜劇として作られているはずの「ジョーカー」という本作も「オチ」があるのだ、と仄めかしていると推測出来る。
この映画には「妄想シーン」である事を示唆する仕掛けが散りばめられている。
例えば
「作中の時計は常に11:11だ」
「利き手が変わる」
「機関が変わっても担当カウンセラーが同じ」
「地下鉄での発砲可能数が多すぎる」
などは明らかにハッキリとおかしい。
また、非常に気にかかるのが
「作中『アーサー』から『ジョーカー』に移る時、髪が『黒』から『緑』になるが、ラストシーンの人物は『髪は黒。凶行はジョーカー的』という矛盾を孕む点だ。
監督の言う通り「ラストシーンだけが本当の笑い」だというのならば、私達観客が「アーサーの現実」だと信じ込まされていたすべてのシーンすら「本当の主人公の妄想」という見方も可能なのだ!
(「アーサーの妄想オチ」とはまったく意味合いが違う!この映画の非常に秀逸な点の1つだろう)
しかも「ジョーカーとなったあとのアーサーである」と仮定可能な余地まで残されている・・・。まったくもう!
観客に「この映画はバットマンのヴィラン、ジョーカーの誕生秘話ですよ〜」と心の底から信じ込ませ、それが限りなく「真実」であるかのように演出しながら、実は「すべて虚構」であるという演出も随所に散りばめている。
喜劇をひっくり返し、悲劇をひっくり返し、真実と虚構、現実と妄想をひっくり返す。
なるほど、喜劇役者は「騙されている観客」の方であり、笑っているのはアーサーでもジョーカーでも無い「真の主人公」だという事か。
「コメディ作って文句言われるなら、コメディひっくり返して悲劇にすれば問題ないんだろう?(気付かれないようにそれもひっくり返して喜劇に仕上げてやるけどね)」って辺りが本音かな?
フィリップス監督、良かったね。随分と
「釣れた」ね?
世界中から発信されるレビューを読んで、監督はどんな笑いを浮かべているのだろう?
「正義への妄信」「真実だと思うものへの妄信」を問題提起する代わりに、随分と手の込んだブラックコメディに仕立てたものじゃないか。
嫌いではないが、私達は更に建設的に「これからの正義の話」でもしてみようではないか。
『ジョーカー』が描く社会の闇と人間の苦悩
トッド・フィリップス監督の『ジョーカー』は、単なるコミックヒーロー映画の枠を超えた、社会批評と人間性の探求を提示する作品だ。DCコミックスの悪役として知られるジョーカーの誕生秘話を描きながら、現代社会の闇と個人の苦悩を鮮烈に映し出している。社会への不満、普通ではない自分をどう受け入れるか。
●圧倒的な没入感と演技力
本作の最大の魅力は、主演ホアキン・フェニックスの圧倒的な演技力にある。彼が演じるアーサー・フレックは、コメディアンを夢見る心優しい男だが、社会から冷遇され、次第に精神を病んでいく。フェニックスは、アーサーの苦悩と変貌を、身振りや表情、そして独特の笑い方を通じて見事に表現している。特に、病的なヒョロヒョロとした体型から、ラストシーンで赤いスーツを纏った時の威圧的な存在感への変化は圧巻だ。
フェニックスの演技は、アカデミー賞主演男優賞を受賞するなど、高い評価を受けた。彼の演技なしには、この作品は成立し得なかったと言っても過言ではない。
●社会批評と問題提起
『ジョーカー』は、単なる娯楽作品ではなく、現代社会の問題を鋭く指摘する問題提起作でもある。貧困、精神疾患、社会の無関心など、様々な社会問題が描かれている。
アーサーの苦悩は、「普通」ではない自分をどう受け入れるかという普遍的なテーマを提示している。同時に、社会の底辺に追いやられた人々の怒りと絶望を象徴している。映画は、理不尽な世の中や、正論だけでは通用しない現実を浮き彫りにし、観客に深い考察を促す。
●真実の多面性
本作は「真実とは何か」という哲学的な問いも投げかける。特に、アーサーが母親を殺害するシーンは、真実の多面性を示唆している。ここで明らかになるのは、個人にとっての真実が、必ずしも客観的な事実と一致しないということだ。人は往々にして、自分が信じたいことを真実として受け入れる傾向がある。
この視点は、現代社会におけるフェイクニュースや情報操作の問題とも通じるものがあり、観客に真実の本質について考えさせる。
●音楽と視覚効果
ヒドゥル・グドナドッティルが手掛けた音楽も、作品の雰囲気を形成する重要な要素だ。セリフのないシーンでも、不気味で印象的な音楽が観客を引き込み、アーサーの内面を表現している。この音楽も、アカデミー賞作曲賞を受賞するなど、高い評価を得ている。
視覚的にも、1980年代のゴッサムシティの暗く荒廃した街並みが、アーサーの内面世界を反映するかのように描かれている。カメラワークや照明も、主人公の精神状態の変化を巧みに表現している。
●社会階級と正義の相対性
『ジョーカー』は、社会階級による視点の違いも鋭く描いている。富裕層と貧困層の対比を通じて、同じ社会でも階級によって見える景色が全く異なることを示唆している。
特に注目すべきは、「金持ちが人格者とは限らない」というメッセージだ。トーマス・ウェインのような上流階級の人物も、結局は自分の正義を押し付けているに過ぎない。これは、正義の相対性を示すと同時に、社会の分断を浮き彫りにしている。
●暴力の美化
一方で、この視点は暴力の美化という問題にもつながっている。アーサーの暴力行為が、社会に対する正当な反抗として描かれる場面があるからである。特に、地下鉄での殺人事件後、アーサーの行動が一部の市民から支持される展開は、暴力を肯定的に捉えかねない危険性をはらんでいる。
この点は批判的に見る必要がある。暴力を通じて自己実現を果たすというストーリーラインが、現実社会に悪影響を及ぼす可能性を指摘しているのである。映画は確かに、社会の不公平さを鋭く描き出しているが、それに対する解決策として暴力を提示しているようにも見える。
このような暴力の美化は、それを肯定する側と否定する側によって、社会の分断をさらに深める可能性がある。映画は観客に、暴力の是非について深く考えさせる機会を提供しているが、同時に暴力を正当化する危険性も孕んでいるのである。
●狂気と社会の関係性
本作の中心テーマの一つは、個人の狂気と社会の関係性だ。アーサーの精神疾患は個人的な問題のように見えるが、実際には社会の無関心や冷酷さが彼を追い詰めている。彼の変貌は、社会の歪みが生み出した必然的な結果とも解釈できる。
この視点は、現代社会における精神疾患や犯罪の問題に新たな光を当てている。個人の責任を問うだけでなく、社会全体の在り方を問い直す必要性を示唆しているのだ。
●結論:芸術作品としての『ジョーカー』
『ジョーカー』は、エンターテインメントとしての側面を持ちながら、深い社会批評と人間性の探求を行う芸術作品だ。観客を圧倒的な没入感で引き込みつつ、現代社会の問題を鋭く指摘し、人間の本質について考えさせる。
フェニックスの卓越した演技、印象的な音楽、緻密な視覚表現が相まって、観る者の心に深く刻まれる作品となっている。それは単なる娯楽を超え、社会と個人の関係性、正義と狂気の境界、真実の多面性など、普遍的なテーマを探求する哲学的な旅でもある。
『ジョーカー』は、映画という媒体の可能性を最大限に引き出し、観客に深い思索と感動をもたらす。それはまさに、現代社会を映し出す鏡であり、私たちに自己と社会を見つめ直す機会を与えてくれるのだ。
哀笑のピエロによる戦慄と混沌のショーの始まり
11年前、『ダークナイト』でヒース・レジャー最期の名演で魅せたジョーカー像はとてつもなく強烈で衝撃で、今後あれを超えるジョーカーは絶対に現れないと思っていた。
が、まさか、“ヒース・ジョーカー”に匹敵もしくは凌駕するほどの新たなジョーカーが現れようとは…!
ヴェネチア映画祭まさかの金獅子賞、あちこちで囁かれているアカデミー賞期待の声は元より、年間MY BEST入りは間違いナシ! 思わぬ傑作を鑑賞出来たこの喜び!
…しかし、作品は喜び/幸せ/楽しさ/面白さを感じられる代物ではなかった。
胸が詰まるほどの辛さ、苦しさ、哀しみが…。
バットマンの宿敵、ジョーカー。
その誕生秘話。
コミックで描かれた事あるかもしれないし、バートン版バットマンでも簡単に描かれていた。
しかし本作は、それらとは全く違う完全オリジナル。
アーサー・フレック。
突然笑い出すという奇病を持ち、時々精神不安定な病的な面も。
が、実際は内向的で心根優しい青年。
職業は、ピエロ。宣伝や呼び込みなどで街頭に立っている。
稼ぎも生活も貧しく、古アパートで病弱の母の面倒を見ながらの二人暮らし。
そんなアーサーの夢は、コメディアン。TVの大物コメディアン、マーレイに憧れている。
母からも言われている。あなたの笑顔が周囲を幸せにする、と。
だから、さあ、皆、笑って幸せになって。
…が、実際の世の中は笑えない事ばかり。
開幕早々、クソガキどもに看板を盗まれ、追い掛けるも、殴る蹴るの返り討ち。
ある日地下鉄に乗った時も、エリート風の3人の男に絡まれ、また殴る蹴る…。
どうして、こんな目に…?
僕が何をした…?
ただ、笑って欲しいだけなのに…。ただ、ハッピーになって欲しいだけなのに…。
混沌としたこの世の中で、笑う事は罪なのか…?
後のあのヴィランの面影はまるで無い。でも、どこか滲ませる。
孤独、悲哀、狂気…。
神がかり的と評された期待通りの…いや、以上!
圧倒されるほどのホアキン・フェニックスの入魂の熱演。
痩せこけた身体や風貌がまた社会の底辺で生きる男の姿に生々しいリアリティーをもたらしている。
複雑な内面や見た目も含め、ホアキンの一挙一動から一瞬たりとも目が離せない。釘付け!
以前から何処か危なっかし気のある曲者なホアキンだったが、それが今回のジョーカー像にピタリとハマった。
アカデミー会員の偏見が無い限り、まずオスカーノミネートは間違いないだろう。なるか、ヒース・レジャーに続きジョーカー役で2人目のオスカーの快挙…!?
作風やホアキンの演技に、『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』の影響色濃く。『タクシードライバー』を彷彿させるようなシーンも。
その両作に主演したロバート・デ・ニーロが、アーサーが憧れる大物コメディアン役でオマージュ的出演。
出番はそんなに多くないが、クライマックスのアーサーとの緊迫したやり取りなど、スパイス的に締めてくれる。
本当にアーサーを襲う悲劇や不運は見てて辛くなる。
仕事はクビに。
カウンセラーが市の予算削減で閉鎖。
地下鉄での3人の男とのトラブルが、最悪な事件に…。
アーサー自身にも過失はある。
でも、彼をそこまで追い込んだのは…。
絶望、ドン底、弱者への社会の仕打ち…。
そんなアーサーにも唯一の心の拠り所はある。
同じアパートに住むシングルマザーと、母。
シングルマザーと惹かれ合う。…ところが、まさかの…。
どんな時でも母は自分を見守り、自分も母を愛していた。
ある時知ってしまった、出生の秘密。
それは、2重で驚愕と衝撃だった。
愛は偽りだった。
そして、思わぬ人物との関係。ほんの少しでも温もりが欲しかっただけなのに、傲慢と冷酷な仕打ち…。
これが、アーサーの現実。
この厳しい現実は、何処までとことん彼を虐げれば気が済むのか…?
だって、アーサーの心はもはや折れる寸前…。
辛い時こそ、苦しい時こそ、哀しい時こそ、笑えという。
確かに笑えば気が晴れる。
でも、それにも限度がある。
とことん辛い時は苦しんだっていい。
とことん苦しい時は哀しんだっていい。
とことん哀しい時は大声を上げて泣いたっていい。
寧ろそうした方がスッキリし、負の感情を切り捨てられ、気持ちを切り換えられるきっかけになれる。
無理して笑うよりかは。
だがアーサーは、笑った。無理して。自分を偽って。
そしてアーサーの心は、折れた。…いや、心が壊れた。
哀しみと怒りをピエロの笑いのメイクに塗って。
主人公こそアメコミのキャラクターだが、一切SF色のアメコミ要素はナシ。
ヒーローvsヴィランのバトルは無論、派手なシーンもアクションもCGも。
重く暗く、一見地味な作風だが、終始緊迫感は途切れない。
第一級のクライム・スリラー!
アメコミのキャラをモチーフに、ここまで出来るものなのか…!
MCUでさえ本作にはKOされるだろう。
全くアメコミと切り離されているという訳ではない。
後に対する事になる“闇の騎士”にも触れられ、彼の父親である市の実力者やあの精神病院など、分かる人には分かるリンクネタが堪らん…。
アーサーが遂に、あのメイクをし、派手な衣装で現れた時には、ゾクゾクと興奮!
と同時に、ゴッサムが犯罪大都市になったまでも描かれる。
クライマックスの狂気の暴動はスリリングなカタルシスさえ感じた。
もう本当に、お見事!
当初不安視されていたあの『ハングオーバー!』のコメディ監督、トッド・フィリップスの手腕は、それこそ『ダークナイト』のクリストファー・ノーラン級!
今後監督には、コメディだけではなくシリアス作品のオファーが殺到するだろう。
本作を見ていたら、一つのキャラクターと一本の作品が頭に浮かんだ。
まず、ダース・ベイダー。
ベイダーもかつては純真な子供であったが、数々の運命や悲劇が彼を悪の化身にした。何処か誕生の経緯が似通っている映画史上屈指の悪のカリスマ。
そして、『帰ってきたウルトラマン』。同作の根底に、社会の不条理が怪獣を生む…という裏テーマがある。
悪を生み出したのは…?
堕ちた自分の弱さもあるが、しかし…。
後にこの最凶悪に翻弄され、嘲笑われるのは、彼にそうしてきた社会や我々への強烈なしっぺ返しに他ならない。
周りや人々を幸せに笑わそうとした。
逆に冷たく嘲笑われた。
哀笑のピエロによる戦慄のショーの幕が、上がった…。
観る前に気づけよ、俺!
前情報なしで見るのも大概にせーよ、俺。と軽く自分を呪いつつ。映画が始まってから気づいた。遅いってw
Gotham City と聞けば分かるやん。ダメだダメだ、偏見持って見ちゃダメ。先入観は捨てて、この物語に没頭しなきゃ。と気持ちを切り替えはしたけれど。結論、どえらく回りくどい前説だった。悪く無かったけど「狂気」と「残虐性」をドライブさせるのが、結局は妄想性の反社会精神だってのが…「存在証明」を求めていた件から、足元が「狂気」に向かって崩落して行く様に、物足りなさを感じました、アレでも。いや、だってjokerの残虐性ってハンパ無いから。
薄暗いソイに取り残されたブルース・ウェインのその後も作る?
骨張ったホアキン・フェニックスの背中に役者魂を見た気分。ビューティフル・デイでは、お腹ダブダブでしたのに!
コレがオスカー候補?ホアキン・フェニックスの主演男優賞なら納得します。何か無茶苦茶良かった。映画を救ってたと思いました。
評価高すぎ
映画バットマン三部作を鑑賞、ゲーム版バットマンアーカムシリーズ三部作をプレイ済みで、予備知識ありますが、はっきり言って評価高すぎです。
バットマンの予備知識ない方や、デート映画にはキッパリとオススメできません。
病んだ時代を映す、心優しき《悪のカリスマ》
アメリカン・コミック映画の常識を覆す映画でした。
ホアキン・フェニックスの演じるアーサーは社会の片隅でひっそりと
老いた母親を介護しながら暮らす50男です。
超能力どころか、
金なし、
地位なし、
チカラなし
精神を病んで抗うつ剤を多量に飲み、カウンセリングを
受ける男。
仕事はピエロの扮装をした大道芸人で、笑わせる仕事なのに、
“ワーハハハハ“
“ワーハハハハ“と、
笑いだすと止まらない持病を患っている。
深夜の電車で笑いが止まらないアーサーを足蹴りにして
張り倒した証券マン3人を、銃で撃ち殺してしまう。
そうしてアーサーは悪の道に嵌って行くのです。
DCコミック映画で史上初のヴェネチア国際映画祭・金獅子賞と、
アカデミー賞主演男優賞をW受賞。
世界的に人々の共感と支持を集めたのは、自分たちの中に、
ホアキンのジョーカーが棲んでいるからだと思います。
急勾配の階段をピエロの姿で軽々とステップを踏みながら
踊るように下りる。
懐かしい80年代のBGMが鳴り、美しくも哀しい物語に
感動が湧きあがる。
この映画ではバットマンのブルース・ウェインは7歳の子供で、
アーサーの母親ペニーはブルースの父親のトーマス・ウェインの家政婦だった。
だから、ジャック・ニコルソンジョーカーとも、ヒース・レジャーのジョーカーとも
生い立ちが違う。
ゴッサム・シティを狂乱と混乱のるつぼに陥れるカリスマ・ジョーカー。
凶暴の嵐にゴッサム・シティは燃えあがる!!!
この映画は、
アーサーがジョーカーとして誕生するまでの全くのオリジナル・ストーリー。
脚本の素晴らしさとホアキン・フェニックスの繊細で大胆で独創的な怪演に
心底震えた。
本当に圧倒的で衝撃的な映画だった。
差別や貧困による格差社会の、差別された人々に捧げられたと
感じました。
2019-88
正直しんどい。
『ダークナイト』でも打ちのめされましたが、今作もホアキンさんの演技に打ちのめされ、ああもう、本当しんどいよ(笑)
『ダークナイト』では既にアーサーがジョーカーになっていたけど、どのようにしてジョーカーになったかを描く本作はただただ狂気、残虐で、根がいい私は(うるさい)共感も理解もできない。
歪んだジョーカーの心の闇に、憐れみを感じたのは『ダークナイト』。
本作はただただ慄いている自分がいた。
万人受けはしなそうなストーリーだし、『ダークナイト』公開時、アメリカでは映画に感化された過激な事件などが起きたそうですが、今作のほうが不安になるレベル、、、
デニーロさんが私の気持ちを代弁してくれました。
それにしてもホアキンさんはすごかったです。
この役を演じるって色んな意味でプレッシャーだと思いますが、ジョーカーが憑依してました。怖かったです。
オスカー作品賞は🤔な感じだけど、主演男優賞なら納得。
自らの血で裂けた唇をかくお決まりのシーンは、今後語り継がれそうな予感。
今年のハロウィンの渋谷はジョーカーさんいっぱいいそうだけど、ペニーワイズさんも忘れないであげてください。
自分の中にもあるかもしれない狂気
ジョーカーが如何にしてできたか。という観点よりも時代背景は違いますが現代社会の抱える負の部分、人間の持つ闇の部分等々、非常に考えさせられる映画でした。許されることではないはずなのに、何故か彼に共感してしまっている自分自身に恐ろしさを感じます。多くの人が同じような感想を抱いているのではないでしょうか。アメリカではこの映画が社会に与える影響を強く懸念して色々な報道がされていると聞きます。観方は人それぞれでしょうが確かにこの映画を観た多くの人々の胸に残る(刺さる?)ナイフのような、鈍器のような印象は最近の映画では感じなかったものではないかと。DCファンの期待するジョーカーではないのかもしれませんが誰もが持っている(かもしれない)漆黒の感情を見事に表現した作品だと思います。それにしてもホアキン・フェニックスの大笑いしながらも哀しみに満ち満ちた表情、役作りとはいえげっそりとした体型、どれをとっても秀逸でした。後味はよくありませんが色々な年代、立場の方々に観てここにレビューしてほしい映画です。
※誰かも書かれていましたがこのジョーカーがバットマンと相対するには年齢的にギャップがありすぎかも?ジョーカー続編で本当のジョーカーにどのようにして引き継がれるかがあるかもしれないと感じてしまいました。
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