ジョーカーのレビュー・感想・評価
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ものすごい密度
まずびっくりしたのが監督。「ハングオーバー」のトッド・フィリップスだった事です。全然毛色が違うじゃないですか。
そして本作は何よりホアキンの芝居でしょう。
こうゆう作品を待っていたとばかりに実に瑞々しい。
そこに食い入るように迫るカメラワークも良かった。
物語は「タクシードライバー」と「キングオブコメディ」へのオマージュが強烈で、しかしそれをDCコミックの世界へと落とし込んだのが新鮮。
導入がもう「キングオブコメディ」だし、歪んだ思想に自宅での服装なども「タクシードライバー」をまず想起します。
こめかみを撃ち抜くムーブもそうでしょうし、そもそもデニーロ本人が出演してますもんね。しかもコメディアンの役で。
脚本の端々にが少し荒さを感じながらも、ホアキンに魅せられて続けます。
でも、もっと綿密に仕込まれていたのが、散りばめられた数々の“嘘”。
途中、観客に敢えてそれを教えるのですが、一度それを見せられると境目がわからなくなるからすごい。
"脚本の端々に感じた荒さ”は全部それだったのでしょう。
虚構か現実なのか、どちらにしろそれらは全てアーサーの見ている世界。
ものすごい密度の作品でした。
演技は素晴らしいと思いましたが、、、
本作はキングオブコメディのオマージュでは無い 本当はリメイクなのだ
疑いもなく確信犯だ
似ていて当たり前の話なのだ
リメイクのつもりで撮っているのだから
ロバート・デ・ニーロがあの役で出演しているのはそれを宣言しているのだ
ジョーカーは確かにバットマンの悪役だ
トーマス・ウェインも幼少期のブルース・ウェインも、執事のアルフレッドさえ登場する
ブルースの目の前での両親の殺害シーンまである
20数年後のバットマンビギンズの世界にそのまま繋がるようになっている
しかし、それは偽装だ
興行的には著しい程の失敗であったキングオブコメディをリメイクするための方便に過ぎなかったのだ
本当の目的のリメイクと大ヒットした興行、数々の映画賞の受賞
まんまとこの偽装は大成功したのだ
監督の完全勝利だ
時代設定は1981年
1983年公開のキングオブコメディとほぼ同時代ということにして音楽もテロップの書体までテイストを合わせてある
しかし観てわかるように、実際は1981年じゃない
劇中にスマホもSNSもネットも登場しないのだが
21世紀の現代を本作は描いていると感じるはずだ
監督はそれを敢えてやっている
キングオブコメディのリメイクだから1980年代であるが、本当は現代の物語だ
トランプ批判?
そんなものは末葉のこと
キングオブコメディの時代より21世紀は、普通の人間はより孤立し、埋没している
成功することはより難しくなり、要求される才能はより高度に、努力はよりハードに、運はより強運でなければならなくなったのが21世紀なのだ
普通の人間にはもはや登ることすらあきらめてしまうほど高い階段になってしまったのだ
そう本作劇中に登場するあのNY ブロンクスにある、シェークスピア・アベニュー1170番地の長く高い階段のように
だからジョーカーはあの階段の下の方で踊るのだ
階段の頂上では刑事が冷たい目で見下ろしているのだ
キングオブコメディの時代
成功者のジェリー・ラングフォードの自宅の階段はまだ広くそんなに高くもなかったのだ
なのに21世紀の階段は、かくも細く高いのだ
絶望的なほどに
これをフェアじゃないと憤ったとき、その人間はジョーカーになるのだ
ジョーカーの階段
1973年のエクソシストにも良く似た長い高い階段が登場する
こちらはワシントンDC にある
つまりジョーカー階段とは悪魔が生まれるところという意味だったのだ
この物語の本当の時代は21世紀だ
本作は2019年10月の公開
日本を震撼させた京都アニメーション放火殺人事件は同じ2019年7月
ジョーカーは現実としてまず日本で現れたのだ
キングオブコメディ、京アニ事件、本作は暗黒の中で通底していたのだ
そしてジョーカーが産まれる土壌は、コロナ禍で一層増しているのだ
あと1ヵ月で京都アニ事件の三回忌
改めてご冥福をお祈りしたい
彼の妄想?
ラスト、パトカーで護送される途中に暴徒化したピエロたちに救出され、彼が悪のヒーローに祭り上げられる。「ジョーカー」誕生の秘話である。そしてピエロの一人がウェイン夫婦を射殺し、息子のブルース・ウェイン(後にバットマンとなる)だけが生き残る。
ところがその後、突然に精神病棟に収監されたアーサーとカウンセラーのシーンとなる。今までの事は妄想だったということ?直前のシーンとこのシーンに至るまでの説明が全くないので、色々な解釈ができてしまう。
<私見:妄想説>
悪のヒーローに祭り上げられた後に、結局警察につかまって精神病棟に収監されたと考えることもできる。
ただ悪のヒーローに祭り上げられて、「ジョーカー」誕生と言うところで終わった方が、映画的には良いと思うので、わざわざ精神病棟の部分をラストに挿入する必然性はなかったはず。また、直前までは髪の毛が緑色だったのに、精神病棟のシーンでは急に黒に変わっていたのも不自然だ。なので、やはり妄想であるということだったと思う。
そう考えると、どこから妄想だったのか?どこからと言うよりも、部分的に妄想であったと言うことも考えられる。例えば同じアパートの黒人の女性と付き合っていたことが妄想だったことが一番わかりやすい。ただ、それ以外の部分についてはいまいちはっきりしない。
結局最初から妄想で、現実はラストの精神病棟だけだったのではないだろうか。そう考えると、カウンセラーを殺して精神病棟を逃げ出し、妄想の「アーサー」から現実のあのお馴染みの「ジョーカー」になっていったのであろう。
つまり「ジョーカー」の最初の殺人が、この黒人のカウンセラーになる。今までの殺人(妄想の中で)は、すべて彼が憎しみを持った相手であったのに対して、このカウンセラーは特に憎しみはなかったはずである。 それなのに、殺してしまったと言うところが「ジョーカー」らしくないか。また、このカウンセラーの殺人のみ、殺人シーンがないのである。この2点で、現実の殺人と妄想での殺人を線引きをしていたのではないか。
<タクシー・ドライバーへのオマージュ>
所々にタクシー・ドライバーへのオマージュを感じる。そもそも主人公のセリフ回しが、タクシー・ドライバーのトラヴィス(ロバート・デニーロ)に似ているし、ロバート・デニーロ自身も出演している。
同じアパートに住む黒人の女性が、ピストルに似せた指で頭を撃つ仕草をして、主人公も真似をするシーンがあるが、タクシー・ドライバーにも同様のシーンがあった。
<印象に残った曲:send in the clowns>
もちろん 「ホワイト・ルーム」やチャップリンの「スマイル」(モダン・タイムスで使われた曲)も良かったが、この曲が特に気にいっている。clownはピエロのことで、最初の3人組が殺される前に、3人組の1人がこの曲を歌いながらピエロのメーキャップのアーサーに暴行加えようとした。そしてこの曲はもう一度、エンドロールでシナトラが歌った曲が流れる。
<印象に残ったセリフ>
(アーサーのジョーク)
I just hope my death makes more sense(cents) than my life .
私の死が私の人生より意味のあることを望む。
(私の死が私の一生より稼げることを望む)
<その他>
ジョーカー役のホアキン・フェニックスは、あのリバー・フェニックスの弟だったということを最近知った。
ここ数年の最高峰かもしれない
決してジョークで終わらせていけないジョーク
ホアキン・フェニックスの集大成にして傑作
もう5週目ですか。満を持してIMAXで観賞。
まわりから気味悪がられ、年老いた母の面倒をみながら孤独に生きるアーサー。壊れかけていた心を世間の悪意が完全に砕いてしまった。
彼の爆発、シングルマザーの娼婦への妄想、それらすべてが府に落ちた。唯一苦言を呈するなら、ゴッサムシティの大衆のアーサーに同調した暴走の描写の薄っぺらさだろうか。それも意図したものかも知れんが。
アーサーがジョーカーとなった過程を知るだけでも十分だと思うが、アーサーの母とウェイン家との関係、アーサーの出生の秘密、そしてジョーカーとバットマンの深い関係までも明らかにしてしまう大盤振る舞い。これを観ないわけにはいかんだろう。
オールドファンの長年の思いにも応えた。「タクシー・ドライバー」と酷似した展開、そしてデ・ニーロはアーサーに「私が誰か知らないのか?」と問うた。まるで「俺がトラヴィスだ」とでも言わんばかりに……。
まあ、何だかんだ言って、私のようなアウトサイダーにとってアーサーはブルース・リーみたいなもんかも知れんな〜。彼の暴力に溜飲を下げつつも、明日は会社への足取りが一段と重くなりそうだ。
世界は彼に優しくない
彼に対して世界がもう少しでも優しければ、ジョーカーは生まれなかったんじゃないかなぁと思わせられる作品。
弦楽器の音楽が精神状態を現しているようで、落ち着いているときの低い幅のあるリズムから今にも切れそうな細い細いピアノ線の上を綱渡りしているような高く細い音にドキドキさせられました。
苦痛の時間
人を不快にする笑いがあることを知る映画でした。
ホアキンの演技力は圧倒的で、突然笑いだす脳の病気とやらは、笑っているのにまるで楽しそうでなく、ピエロがそうであるように、泣いているのかと思わせる笑い方で、不気味さと怖さをよく表していた。
結局のところ彼の病気は、先天性のもの(母親からの遺伝)に加えて、子供の頃に受けた虐待による外傷も影響しているということなのだろうと個人的に解釈した。
現に虐待で脳に損傷を受ける子供は沢山いる。
ジョーカーらしいかどうかを評しているレビューがあったが、そんな主観に興味はない。
いつもどこででも、ジョーカー即ちモンスターは生まれるのだ。
持ち合わせたものに、環境や不運が重なり、それは変異する。
痛快劇でもあるのに不気味な作風のバットマンに繋がる、非常に良くできた作品だと思う。
しかし、観ている間中、とても苦痛だった。
大スクリーンで観る必要はなかったかなぁ
ピエロが石段を下りながら踊るシーンはアート!
DCコミックス「バットマン」に登場する悪のカリスマ、ジョーカーが誕生するまでの姿を描いた作品。第76回2019年ベネチア国際映画祭で最優秀作、金獅子賞を受賞。公開早々、主演のホアキン デニックスが今年のアカデミー賞男優最優秀賞に選考されること確実と予想されている。
激しい暴力シーンのために15歳以上でなければ見られない。映画の内容が2012年にコロラド州オーロラで、「バットマン リターン」上映中に乱射事件が起き12人の死亡者を出したことを思い起こす、として、上映拒否する映画館が出現したり、クリスチャン団体が映画の公開に反対するなどの社会現象が起きている。
ストーリーは
1950年代と思われるニューヨーク、というか、1980年代ゴッサムシテイー。
アーサーは、コメデイアンになることにあこがれて、いまは大道芸人としてエージェントに雇われている。身体障害のある母親を介護しながら、しょぼいアパートで暮らしている。子供の時から母親に、いつも笑顔でいなさいと言い聞かされてきたとおりに笑顔でいて、人を笑わせて喜ばせたいと思ってきた。しかし感情が高まると、笑い出してそれを止めることができなくなるという人格障害を伴った精神病を病んでいて、人間関係をうまく継続できない。またそのため薬を飲まなければならないが、生活が苦しく、薬代の捻出に苦労している。家に帰れば母親のために食事を作り、入浴させ、一緒にテレビを見ることが唯一の娯楽だ。二人ともコメデイアンだったマレー フランクリンのショーを楽しみにしてる。アーサーは以前、マレーに会って励ましてもらったことがあって、それが自慢でならない。
ピエロに扮して宣伝マンの仕事をしていた時に、悪ガキに絡まれてひどい目にあったことから、アーサーは、職場の同僚から護身用の銃を借りる。しかし小児病棟でピエロ訪問のショーで、うかつにもアーサーは持っていた銃を子供たちの前で落としてしまい、それを理由に職場を解雇される。気落ちしたまま地下鉄に乗って帰宅途中、3人の男達が酔って向かい側の座席に座っている女性をからかい始めた。それを見ていたアーサーは高まる緊張を抑えられず笑いだす。笑われて怒った男達は、他に電車の乗客が居ないことを良い事に、アーサーに殴る蹴るの激しい攻撃をかけてきた。アーサーはぶん殴られて足蹴にされされて、怒りを抑えきれず遂に3人を銃で撃ち殺して逃げ帰る。翌日のニュースによると、3人の男達はウェイン財閥のエリート証券マンだった。社長でゴッサムシテイー一番の実力者トーマス ウェインは、自分の会社の将来を約束されていた社員が殺されたことで怒って、記者会見で犯人を一刻も早く捉えることに協力するよう市民に呼び掛けた。
家に帰るとアーサーの母親がトーマス ウェインに手紙を書いていた。母親はトーマス ウェインの恋人だったことがある。アーサーの父親はトーマス ウェインだと信じている。アーサーは、ウェインの会社に忍び込み、ウェインに会って、母親の名前を言うとウェインは、「その女は精神病だ。」と言って相手にしない。ウェインの屋敷にまで行って、庭で遊んでいたトーマスの息子、ブルースに塀越しに話しかけるが、執事のアルフレッドに見つかって追い返される。
警察が訪ねて来て、母親のペニーが発作を起こして病院に担ぎ込まれる。アーサーは病院で、病歴室に行って母親のファイルを盗み出す。そこには母親がアルコール中毒で精神病を患い、同じような中毒者の男と暮らしていたが、孤児を養子にした。しかし養父が養子のアーサーに暴力を奮っていたために、頭の傷から子供も精神病を発病したという経過が書かれていた。今まで母親に言われた通りに何時も笑顔でいて、人を喜ばせようと努力してきたアーサーだったが、母親と自分は血がつながっていなかった。トーマス ウェインも父親ではなくて、自分は孤児だったという事実を突きつけられて、衝撃を受ける。
アーサーは自分が立っていた足場を失った。もう歯止めが効かない。母親を殺し、心配して訪ねて来てくれた昔の同僚を惨殺し、マレー フランクリンのライブショーに出かける。テレビカメラの前で、3人の証券マンを、ジョークで殺したと告白し、マレー フランクリンを撃ち殺す。アーサーは逮捕されるが警察による護送中、アーサーのテレビ生中継にインスパイヤされた暴徒によって救出される。ピエロのお面をかぶった暴徒たちで街は略奪、殺人、強盗の無法地帯となり混乱を極めていた。街は火の海で警察は手も足も出ない。アーサーは転覆した車の上に立ち、英雄として狂喜乱舞いする。というお話。
ジョーカーが恵まれない酒と暴力の中で育てられた孤児で、精神を患い不毛な環境から逃れられずにいたために暴力で、はねかえさざるを得なかった、というジョーカーのバックグラウンドを描いている。本来だったら母親思いの心の優しい青年が、母親の望むようにいつも笑顔を絶やさず人に笑いを届けようと望んで生きて来た。孤独な時に、ベッドを共にする女性も同じアパートに住んでいる。そんなどこにでも居そうな青年が、自分が孤児だったと分かっただけで、壊れてしまうことをに理解する人も、出来ない人も居るだろう。
アーサーは子供の時の頭部外傷がもとで人格障害を持つ精神病患者になって、興奮すると笑いの発作が出てしまい自力ではそれを止められない。面白いから笑うのではなくて、笑いは彼にとっては発作であって、横隔膜のケイレンにすぎない。緊張するとてんかん発作を起こすてんかん患者と同様に発作をコントロールすることができない。だから人間関係をスムーズに続けるのは難しいし、定職について長く勤めることが困難で低所得のため薬代にも事欠く。年を取り精神障害と身体障害を持つ母親とアーサーとの生活では共倒れ必須だ。社会福祉の貧しい社会では生きていけない。
映画の最後のシーン。狂喜、乱舞い、放火。略奪、警察署襲撃、殺人といった混乱の一夜のあと、逮捕されたアーサーは警察病院で精神科の医師に向かって「いま新しいジョークを思いついた。」けれど「あなたにはわかってもらえない。」と言う。その次のシーンは、血を吸った靴の足跡を残しながら部屋を去るアーサーの後ろ姿で映画が終わる。もう彼にとって人殺しはコメデイアンとしてのジョークでしかなくなってしまったのだ。
一人殺せば殺人犯、沢山殺せば英雄、全部殺せば神様だ、と映画の中で言わせたのはチャーリーチャップリンだが、アーサーは英雄をめざして一直線に走っている。
当時のブロードウェイの様子が出てくる。劇場や映画館にが集まる人々は、賑やかで華やかだ。チャップリンの映画が上映されていて、着飾った夫婦や正装した年配者で会場は上品な笑いに満ちている。チャップリンの「モダンタイムス」の画面に彼が作曲した「スマイル」ジミー デユランが「笑っていよう。今はつらくても明るい明日が必ず来る」と歌っている。
どうしてもこの映画を観ていて、クリストファーノーランの「バットマン」と比べてしまう。
クルストファ―ノ―ランの3部作は、「バットマン ビギンズ」2005、「ダークナイト」2008、「ダークナイトライジング」2012の3本を言う。クリスチャン ベールがバットマン、ブルースウェインを演じ、執事アルフレッドをマイケル ケインが演じた。ヒース レジャーのジョーカーが素晴らしかった。製作費用の莫大さ、撮影のために世界中を舞台にし、スケールの大きさも出演俳優陣の豪華さも他のどの映画にも勝てない贅沢な映画だった。
3作目の「ダークナイト ライジング」プレミア上映中、米国コロラド州オーロラの映画館で、24歳の男が銃を乱射して映画を観ていた12人の観客が死亡、負傷者58人を数えた。殺人者はガスマスク、防弾チョッキにヘルメットをかぶり、拳銃2丁、ライフル、ショットガンで武装し、催涙ガスを2本投げガスが立ち込める中を逃げ惑う観客を殺しまくった。コロラド大学、神経科学科選考の博士課程の学院生だったジェームス イーガンホームズの単独犯でいまは終身刑に服している。映画の暴力シーンが犯行を助長したのではないかと言われ、それが今回の映画「ジョーカー」の上演に反対するクリスチャン団体や自治体の声になっている。しかし映画の上演に反対するヒマがあったら、シリアやアフガニスタンでやっている本当の戦闘のほうを止めるのが先じゃないか。
ホアキン フェニックスは、テイーンのアイドルで人気絶頂時にヘロインで亡くなったリバー フェニックスの弟だ。リバーが生きていたら二人とも40歳代の立派な役者兄弟だったことだろう。ホアキンはジョーカーを演じるために体重を20キロ落としたそうだ。彼の背中やあばらの浮きで体が痛ましい。おかしくないのに笑う発作が起きた時の苦しそうな笑い顔も恐ろしい。街の石段を下りながらピエロの化粧をして踊りまくるシーンは素晴らしい、それだけでアートシーンになっている。ちゃんとリズムに乗っていないところなど、ホアキン フェニックスの役者の才能を感じる。ヒースの身も心も引きずり込まれるようなジョーカーとちがって、ホアキンのジョーカーは淡々としていて、悲しい哀しい笑いが死を予告している。彼の胸の苦しみを、弦楽器おもにチェロを使って延々と不協和音が奏でている。
1%の富裕層が99%の庶民の富を奪い独占しているこの世界で、「新しいジョークを思いついた。あなたがたには理解できないだろうけど。」と言ったあとで、血を吸った靴で歩き回るジョーカーたちで、街が溢れかえる。そんなことが明日起きても驚かない。
「ジョーカー」は1950年代の話ではなく、1980年代の話でもなく、今のいまの話だ。
一生に逢えるか逢えないかの名作
昨今、莫大な製作費やギャラが話題、
有名俳優起用の割には、
ストーリーが雑だったりで、
アメリカ映画にヘキヘキし、
しばらく遠ざかっていました。
が、いやいやしかし、この作品で
改めてアメリカ映画の底力を
まざまざと知らされました。
大好きなホワキン・フェニックスの
怪演に近い演技力。
ジョーカー誕生、というより
正気を失くすことは誰にでも起こりうる事
であり、誰でもピエロの仮面を
被りながら生きているのかもしれない。
決して別世界の話ではなく、
私たちの生き方さえ問われて
いるような感覚を覚えました。
純粋無垢なアーサーだから、
器用にその仮面を取り外しながらの
生き方は出来なかったと…
悲しく、理不尽で、切な過ぎる
作品です。でもその中から
人にとって大切な愛とは?
と問われ、そしてそれは
何であるかを教えてくれる、
優しい映画でも
あったと思います。
ストーリー、
キャスティング、セット、
音楽、全て完璧で一生に
逢えるか逢えないかの
名作だと思います。
ホワキン・フェニックスさんに
とにかく乾杯🍻素晴らしい〜👏
衝撃でした
気にはなっていましたが、観に行こうとまでは思っていませんでした。しかし鑑賞した近所の先輩から「絶対観たほうがいいよ!」と言われ、ダークナイトを予習してから観に行く事に。
自分にはアーサーほどではないにしろ、似たような境遇に立たされた事があるので、気持ちは理解出来ました。
加えてこんな困窮状態が何年も続いた挙句、社会からは無関心、打ちのめされた自分に寄り添ってくれる人はいないとなればキッカケさえあれば誰でも人の道を踏み外す可能性はあると思います。
アーサーが可哀想でもうやめたってくれ、とか思いながら観てました。
しかし、アーサーが初めて殺人を犯し、自らの中で何かが切れたとき、ジョーカーとして生きはじめて行く過程でアーサーが変わっていく様は心が震えたと同時にホアキンの演技に凄みを感じました。
ジョーカーと化した時はただただカッコ良かった…。
ダークナイトのジョーカーもヒースの怪演で唯一無二の存在感を放ってますが、今回のジョーカーも映画史に残る悪のカリスマ性があると思ってます。
なんというか、上手く表現出来ないですが、衝撃的な作品で素晴らしい作品であることは間違いないと思うので一度は観た方がいいと思います。
観に行って良かった!
とある悲しい男の孤独と絶望を描いた上質な人間ドラマ
これは悲しい男のドラマだ。一人の男の孤独と絶望とが、小さな出来事の積み重ねで徐々に徐々に狂気と化し、凶暴性が目を覚ましていくその様子がなんともドラマティックかつ非常にデリケートに描かれており、重厚なヒューマンドラマか宛ら上質なドキュメンタリーの如く胸を打った。そしてまさかと思いつつ強い共感すら覚えてしまった。
というか、今この現代と言う時代において、アーサーに共感する人は少なからずいると思う(もちろん彼のような行動に出るかどうかは別問題として)。胸の奥にある鬱屈とした思いや、拭いきれない不満だったり、ふとした時に「あぁ自分は報われない方の人生なんだ」と気付いてしまう瞬間とか、そういうものを抱えて生きる感覚は、少なからず私にはよく分かると思ったし、そしてそういう感情が怒りに替わってしまいそうになる気持ちも、やっぱり分かってしまった。
突然笑いだしてしまう病も、母の素性や過去も、秘めた恋の妄想も、大失敗のスタンダップ・コメディも、全てが後のジョーカーというモンスターを形成するものだ。実は野心もあるし、欲望もあるし、理想もある。だけどいつも貧乏くじばかりを引いてしまうようなアーサーという男の人生は、いつになっても社会と親和していかない。ただ程度の違いこそあれ、そういう人生を送っている人は今の時代決して少なくはない。映画の時代背景は現代ではないのだけれど、アーサーと言う男そしてこの映画が定義したジョーカーという存在は、現代におけるアンチヒーローとして確かだと思った。
そしてそのアンチヒーローを演じたホアキン・フェニックスの名演たるや!肉体をげっそりと痩せさせて心も体もアーサーになりきって、ジャック・ニコルソンにもヒース・レジャーにも引け劣らない見事なもの。全編に亘って彼の役者魂を感じる作品だった。
最近はMARVELもDCもそろそろ倦厭していたところ、この映画だけは「一人の男のドラマ」として堪能できた。原作コミックから離れた独自の解釈が、却って私には良かったのかもしれない。良質の人間ドラマを観た。まさしくそんな気分だった。
今も世界はJOKERの掌
観賞後、ずーっと最後のオチが腑に落ちなくて。モヤモヤしてたんですわ。
で、一週間後くらいに気付く訳です。あー。やられたと。
この話、『ユージュアル・サスペクツ』と同じ構造ですね。ジョーカーの戯言ですわ。映画全体が「笑えない冗談」ですわ。最後の「fin(だったかな?)」の文字デザイン、オープニングのぶっとい骨太ゴシックタイトルに対して、レトロなshow風のあしらい。あれって日本で言う「チャンチャン!」ですよね。。。
人間的尊厳が希薄化する社会とそこで崩壊・滑落していく主人公。偶然シンボルを獲得し、それを祭り上げ、群体として思考停止にも似た状態で、高揚に絡め取られる大衆。現代社会を抽出して強烈に批判するこの物語が、すべてジョーカーの与太話という皮肉。
これからもそんな世界で生きていく我々にとって、これ以上「笑えない冗談」が他にあるか?
さらに映画を鑑賞した人のうち、少なくない人数がこの与太話に真正面から向き合い、感情を揺さぶられ、いみじくもジョーカーに同情すらしている始末。世界がジョーカーの掌で踊らされている状態が、現在進行形で続いています。
ジョーカーである必要性を感じない、という意見もあるが、これはまさにジョーカーでしか成立しない映画。『ダークナイト』のジョーカーと繋がらないという意見もあるが、このキャラクターはまさに『ダークナイト』のジョーカーそのもの。見事すぎるスピンオフです。
ここまでキャラクターの本質に立脚している映画は、そうはない。歴史に残る構造的傑作です。
ただし一つ言うならば、この妙味はあくまでメタっぽい構造に拠るものです。100分以上見せられるお話が、そのものとして優れているか、と言われれば懐疑的。個人的な「可哀想」に満たされた話は、カタルシスに弱く、言ってしまえば不幸の描き方が下手で冗長。
この辺の感想は話の構造を理解した今でも変わらない。「まぁ与太話だからね」と言われても、それとこれとは別。
映像と芝居、映画としての構造はすごい。ただし見せられたものの大半は、なかなかに退屈。あくまで変化球。諸手を挙げて称賛はできない。
と言うところでしょうか。
平凡な映画
ウェブ記事の軒並み大絶賛に影響されて見に行った。
結果、平凡な映画という印象。どこで心を動かされたら良かったのか、わからなかった。
主人公が、失望により、悪に手を染めていくのは共感できず。何と言っても、悪の大スター、ジョーカー様である。後世にあれほどの壮大な悪事を為した人物だ。人間や社会への失望が悪の契機だったのはわかるとしても、それだけか?ジョーカーならば、悪の禍々しい世界に入り込み、自らを構築し、とてつもない強さを放つ姿を見せてほしかった。
ホアキンの弱々しい涙目の泣き笑いでは悪の大物になれるとは全く思えなかった。まもなく潰れる小物でしかない。この映画は単純すぎる。人の、悪への嗜好や資質が描かれていない。
この映画のジョーカーは人格が常人とあまり変わらない。唯一優してくれた友人を殺さずに見逃した彼はマトモである。
描かれてる世界は、今の日本も似たようなものだ。しかし、日本ではどんなに深く怒りや不満が堆積しても、社会の暴動は起きないので、より深く病んでいると言えるだろう。
興奮がない映画。日常にいそうな隣人の破綻をのぞき見て、ああメンタル病んだ人に銃を持たせたら危ないなーくらいの感想しか受けることができなかった。
悲愴感
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