ジョーカーのレビュー・感想・評価
全1561件中、241~260件目を表示
うーん、そんなに良いかな…?
予備知識は一般人(?)程度で見に行きました。
ジョーカー=バットマンの悪役、悪のカリスマ的かっこよさ、犯罪都市ゴッサムシティの王(的な?知らんけど)
ってことくらいが頭の隅にあった。
そんでバットマンがすこし古めのアメコミってことも。(つまり舞台を現代にされてる訳ではないんだろうなって考えてた)
そんなくらいの頭で見終わったら、疑問がたくさん出てきた。
これバットマンのジョーカーである意味ある?まずここはどこ?いわゆるゴッサムシティ?そんで時代はいつ?バットマン(ブルース)が子供で、白黒テレビの感じからして1950、60年代とかって感じ?そんな時代に冒頭のメンタルセラピーみたいなカウンセリングあったの?少なくとも日本はそれくらいの時代は精神衛生法なんてものもあったんだけど、アメリカは違うんかな、いやあそんなに違わないと思うけどなあ、『ビューティフルマインド』みたいなイメージあるし。とにかく、あのメンタルセラピーはなに?まじで時代設定はいつごろなの?まあフィクションだしそこらへんは曖昧なんだろうけど…。現代風にしても良くない?SNSに晒されるイタいコメディアンみたいな、それで「まったく新しいジョーカー」みたいなのならわかるけど…。
設定の疑問が浮かび続けて、ストーリーをしっかりと楽しむことができなかった。
そういう細かい設定なんて気にしやがって、この映画の本質はそこじゃねえよ…みたいに思われるかもしれないけど、それが頭に引っかかってからは、全部破綻した「作り物」にしか見れなくて。ホアキンフェニックスの素晴らしい演技、狂気じみた笑い声も、家でDVDで見た『時計仕掛けのオレンジ』のマルコムマクダウェルの声に聞こえてくる。すなわち作り物。まあ映画なんて常に作り物だけどさ。
『joker』を見てる自分を頭の上から見てるみたいな。
没頭することによって映画を見つつ傷つくし何かを得ると思う(勝手な自分の考え)けど、没頭できなかった。
これを見て痛みとか苦しみとか、それから解放されるための身勝手さとそのための暴力とか、なんとなく理解できそうだけど、もっと違う方法があると思う。ジョーカーじゃなくても、ゴッサムシティじゃなくても。
見てる間ずっとこれから面白くなるんだろうなあって思ってた。そんでその高揚感のまま終わった。
ていうか『キングオブコメディ』と『タクシードライバー』見ないと面白みを理解できないとしたら1つの作品としてはダメでしょ
というかこれが金獅子賞か……
思いついたことをだらだら書いた
苦痛の時間
人を不快にする笑いがあることを知る映画でした。
ホアキンの演技力は圧倒的で、突然笑いだす脳の病気とやらは、笑っているのにまるで楽しそうでなく、ピエロがそうであるように、泣いているのかと思わせる笑い方で、不気味さと怖さをよく表していた。
結局のところ彼の病気は、先天性のもの(母親からの遺伝)に加えて、子供の頃に受けた虐待による外傷も影響しているということなのだろうと個人的に解釈した。
現に虐待で脳に損傷を受ける子供は沢山いる。
ジョーカーらしいかどうかを評しているレビューがあったが、そんな主観に興味はない。
いつもどこででも、ジョーカー即ちモンスターは生まれるのだ。
持ち合わせたものに、環境や不運が重なり、それは変異する。
痛快劇でもあるのに不気味な作風のバットマンに繋がる、非常に良くできた作品だと思う。
しかし、観ている間中、とても苦痛だった。
胸糞映画はやめよ!
どんなに絶賛されようが、終始心を締め付け、震え上がらせ、軽蔑させる映画は自分の滋養にならないことを学べた。
若い頃憧れた、自由の国アメリカ、あんなに汚い国だったっけ?あんなに自己中な人ばっかだったっけ?あんなに人を馬鹿にする、冷たい国だったっけ?
地下鉄の汚さ、街の汚さ、バスの汚さ、店のきたなさ、部屋の汚さ…あらゆる汚さを堂々と晒されて、ずっと国の民度を疑ってた。最後の拘置所内の廊下が1番綺麗だった皮肉。
日本もそりゃ馬鹿な人がいるけどさ、そこまで自由を与えられなかったからこそ、秩序があって、節度もあって、清潔を好む国柄。…全く関係ない感想かもだけど、改めて日本に生まれてよかったなと思わせてくれた映画でした。
…本音を言えば、イケメンが見たかったwww
これはジョーカーか...?
月に1〜2本観る程度の普通の映画ファンです。誰が読んでるレビューでも無いと思うが何となく..。久し振りに呟きたくなったのでこちらにレビューを。
題字やフォントや色、退廃的な街並みに時代背景も絵ズラも「好み」でした。
序盤ロバートデニーロが出てきて、「なるほどこれは確信犯。タクシードライバーはベトナム戦争のPTSDで精神が病んでいったが、アーサーは...!?」
映画自体はとても良く出来ていると思います。(←一介の素人映画ファンが偉そうに..?)
ただ、いくつか疑問も...。
まず、アーサーがジョーカーだったとしたら、ブルースが大人になった頃、ジョーカーだいぶおじいちゃん?
いちジョーカーファンとしては、、、、
特にダークナイトの時の悪の定義や哲学も、狂気の向こう側の人「ジョーカー」にヤラれているので、
自己防衛とはいえ咄嗟的に電車で3人を撃ったり、うっかり小児病院慰問の時に銃落としたり、そういう事やらかさないでしょう...?
その割に一人で部屋で銃を持ちながら自己陶酔して独り言言ってる、まるでタクシードライバーのシーン、思わず撃ってしまって、すぐにTVのボリューム上げて「戦争映画観てたんだ!」ってそんな咄嗟に上手く誤魔化す言い訳考え付く!?
現実の話、ここ最近のテレビでも多くの人が辛い気持ちになる様なニュースもある。
アーサーも子供の頃の悲惨な虐待や環境が彼をジョーカーにさせていった...ってのも分かりますよ。
でもね!?あの底なしの富を使って信じられない様な武器を駆使するバットマンの、
最強最凶?の敵に、「自分がこの世に存在しない人間」なんてセリフ、
それってただの自己顕示欲?自身の存在証明?っと疑いたくなるセリフを吐くジョーカーは、自分が思ってるジョーカー像とはちょっと...。
個人的には、誰の子か(ブルースウェインと異母兄妹?)分からなくても良いんだけど、子供の頃から超頭が良過ぎて、世界がひっくり返せそうな最狂の天才が更に狂っていった...って言う様な感じで「ジョーカー」はいて欲しかった...。
まあ、コメディアン=落語家みたいに、今回の初代ジョーカーの後に、2代目、3代目と、ジョーカーを襲名していったら色々辻褄があうけど。
ピエロが石段を下りながら踊るシーンはアート!
DCコミックス「バットマン」に登場する悪のカリスマ、ジョーカーが誕生するまでの姿を描いた作品。第76回2019年ベネチア国際映画祭で最優秀作、金獅子賞を受賞。公開早々、主演のホアキン デニックスが今年のアカデミー賞男優最優秀賞に選考されること確実と予想されている。
激しい暴力シーンのために15歳以上でなければ見られない。映画の内容が2012年にコロラド州オーロラで、「バットマン リターン」上映中に乱射事件が起き12人の死亡者を出したことを思い起こす、として、上映拒否する映画館が出現したり、クリスチャン団体が映画の公開に反対するなどの社会現象が起きている。
ストーリーは
1950年代と思われるニューヨーク、というか、1980年代ゴッサムシテイー。
アーサーは、コメデイアンになることにあこがれて、いまは大道芸人としてエージェントに雇われている。身体障害のある母親を介護しながら、しょぼいアパートで暮らしている。子供の時から母親に、いつも笑顔でいなさいと言い聞かされてきたとおりに笑顔でいて、人を笑わせて喜ばせたいと思ってきた。しかし感情が高まると、笑い出してそれを止めることができなくなるという人格障害を伴った精神病を病んでいて、人間関係をうまく継続できない。またそのため薬を飲まなければならないが、生活が苦しく、薬代の捻出に苦労している。家に帰れば母親のために食事を作り、入浴させ、一緒にテレビを見ることが唯一の娯楽だ。二人ともコメデイアンだったマレー フランクリンのショーを楽しみにしてる。アーサーは以前、マレーに会って励ましてもらったことがあって、それが自慢でならない。
ピエロに扮して宣伝マンの仕事をしていた時に、悪ガキに絡まれてひどい目にあったことから、アーサーは、職場の同僚から護身用の銃を借りる。しかし小児病棟でピエロ訪問のショーで、うかつにもアーサーは持っていた銃を子供たちの前で落としてしまい、それを理由に職場を解雇される。気落ちしたまま地下鉄に乗って帰宅途中、3人の男達が酔って向かい側の座席に座っている女性をからかい始めた。それを見ていたアーサーは高まる緊張を抑えられず笑いだす。笑われて怒った男達は、他に電車の乗客が居ないことを良い事に、アーサーに殴る蹴るの激しい攻撃をかけてきた。アーサーはぶん殴られて足蹴にされされて、怒りを抑えきれず遂に3人を銃で撃ち殺して逃げ帰る。翌日のニュースによると、3人の男達はウェイン財閥のエリート証券マンだった。社長でゴッサムシテイー一番の実力者トーマス ウェインは、自分の会社の将来を約束されていた社員が殺されたことで怒って、記者会見で犯人を一刻も早く捉えることに協力するよう市民に呼び掛けた。
家に帰るとアーサーの母親がトーマス ウェインに手紙を書いていた。母親はトーマス ウェインの恋人だったことがある。アーサーの父親はトーマス ウェインだと信じている。アーサーは、ウェインの会社に忍び込み、ウェインに会って、母親の名前を言うとウェインは、「その女は精神病だ。」と言って相手にしない。ウェインの屋敷にまで行って、庭で遊んでいたトーマスの息子、ブルースに塀越しに話しかけるが、執事のアルフレッドに見つかって追い返される。
警察が訪ねて来て、母親のペニーが発作を起こして病院に担ぎ込まれる。アーサーは病院で、病歴室に行って母親のファイルを盗み出す。そこには母親がアルコール中毒で精神病を患い、同じような中毒者の男と暮らしていたが、孤児を養子にした。しかし養父が養子のアーサーに暴力を奮っていたために、頭の傷から子供も精神病を発病したという経過が書かれていた。今まで母親に言われた通りに何時も笑顔でいて、人を喜ばせようと努力してきたアーサーだったが、母親と自分は血がつながっていなかった。トーマス ウェインも父親ではなくて、自分は孤児だったという事実を突きつけられて、衝撃を受ける。
アーサーは自分が立っていた足場を失った。もう歯止めが効かない。母親を殺し、心配して訪ねて来てくれた昔の同僚を惨殺し、マレー フランクリンのライブショーに出かける。テレビカメラの前で、3人の証券マンを、ジョークで殺したと告白し、マレー フランクリンを撃ち殺す。アーサーは逮捕されるが警察による護送中、アーサーのテレビ生中継にインスパイヤされた暴徒によって救出される。ピエロのお面をかぶった暴徒たちで街は略奪、殺人、強盗の無法地帯となり混乱を極めていた。街は火の海で警察は手も足も出ない。アーサーは転覆した車の上に立ち、英雄として狂喜乱舞いする。というお話。
ジョーカーが恵まれない酒と暴力の中で育てられた孤児で、精神を患い不毛な環境から逃れられずにいたために暴力で、はねかえさざるを得なかった、というジョーカーのバックグラウンドを描いている。本来だったら母親思いの心の優しい青年が、母親の望むようにいつも笑顔を絶やさず人に笑いを届けようと望んで生きて来た。孤独な時に、ベッドを共にする女性も同じアパートに住んでいる。そんなどこにでも居そうな青年が、自分が孤児だったと分かっただけで、壊れてしまうことをに理解する人も、出来ない人も居るだろう。
アーサーは子供の時の頭部外傷がもとで人格障害を持つ精神病患者になって、興奮すると笑いの発作が出てしまい自力ではそれを止められない。面白いから笑うのではなくて、笑いは彼にとっては発作であって、横隔膜のケイレンにすぎない。緊張するとてんかん発作を起こすてんかん患者と同様に発作をコントロールすることができない。だから人間関係をスムーズに続けるのは難しいし、定職について長く勤めることが困難で低所得のため薬代にも事欠く。年を取り精神障害と身体障害を持つ母親とアーサーとの生活では共倒れ必須だ。社会福祉の貧しい社会では生きていけない。
映画の最後のシーン。狂喜、乱舞い、放火。略奪、警察署襲撃、殺人といった混乱の一夜のあと、逮捕されたアーサーは警察病院で精神科の医師に向かって「いま新しいジョークを思いついた。」けれど「あなたにはわかってもらえない。」と言う。その次のシーンは、血を吸った靴の足跡を残しながら部屋を去るアーサーの後ろ姿で映画が終わる。もう彼にとって人殺しはコメデイアンとしてのジョークでしかなくなってしまったのだ。
一人殺せば殺人犯、沢山殺せば英雄、全部殺せば神様だ、と映画の中で言わせたのはチャーリーチャップリンだが、アーサーは英雄をめざして一直線に走っている。
当時のブロードウェイの様子が出てくる。劇場や映画館にが集まる人々は、賑やかで華やかだ。チャップリンの映画が上映されていて、着飾った夫婦や正装した年配者で会場は上品な笑いに満ちている。チャップリンの「モダンタイムス」の画面に彼が作曲した「スマイル」ジミー デユランが「笑っていよう。今はつらくても明るい明日が必ず来る」と歌っている。
どうしてもこの映画を観ていて、クリストファーノーランの「バットマン」と比べてしまう。
クルストファ―ノ―ランの3部作は、「バットマン ビギンズ」2005、「ダークナイト」2008、「ダークナイトライジング」2012の3本を言う。クリスチャン ベールがバットマン、ブルースウェインを演じ、執事アルフレッドをマイケル ケインが演じた。ヒース レジャーのジョーカーが素晴らしかった。製作費用の莫大さ、撮影のために世界中を舞台にし、スケールの大きさも出演俳優陣の豪華さも他のどの映画にも勝てない贅沢な映画だった。
3作目の「ダークナイト ライジング」プレミア上映中、米国コロラド州オーロラの映画館で、24歳の男が銃を乱射して映画を観ていた12人の観客が死亡、負傷者58人を数えた。殺人者はガスマスク、防弾チョッキにヘルメットをかぶり、拳銃2丁、ライフル、ショットガンで武装し、催涙ガスを2本投げガスが立ち込める中を逃げ惑う観客を殺しまくった。コロラド大学、神経科学科選考の博士課程の学院生だったジェームス イーガンホームズの単独犯でいまは終身刑に服している。映画の暴力シーンが犯行を助長したのではないかと言われ、それが今回の映画「ジョーカー」の上演に反対するクリスチャン団体や自治体の声になっている。しかし映画の上演に反対するヒマがあったら、シリアやアフガニスタンでやっている本当の戦闘のほうを止めるのが先じゃないか。
ホアキン フェニックスは、テイーンのアイドルで人気絶頂時にヘロインで亡くなったリバー フェニックスの弟だ。リバーが生きていたら二人とも40歳代の立派な役者兄弟だったことだろう。ホアキンはジョーカーを演じるために体重を20キロ落としたそうだ。彼の背中やあばらの浮きで体が痛ましい。おかしくないのに笑う発作が起きた時の苦しそうな笑い顔も恐ろしい。街の石段を下りながらピエロの化粧をして踊りまくるシーンは素晴らしい、それだけでアートシーンになっている。ちゃんとリズムに乗っていないところなど、ホアキン フェニックスの役者の才能を感じる。ヒースの身も心も引きずり込まれるようなジョーカーとちがって、ホアキンのジョーカーは淡々としていて、悲しい哀しい笑いが死を予告している。彼の胸の苦しみを、弦楽器おもにチェロを使って延々と不協和音が奏でている。
1%の富裕層が99%の庶民の富を奪い独占しているこの世界で、「新しいジョークを思いついた。あなたがたには理解できないだろうけど。」と言ったあとで、血を吸った靴で歩き回るジョーカーたちで、街が溢れかえる。そんなことが明日起きても驚かない。
「ジョーカー」は1950年代の話ではなく、1980年代の話でもなく、今のいまの話だ。
一生に逢えるか逢えないかの名作
昨今、莫大な製作費やギャラが話題、
有名俳優起用の割には、
ストーリーが雑だったりで、
アメリカ映画にヘキヘキし、
しばらく遠ざかっていました。
が、いやいやしかし、この作品で
改めてアメリカ映画の底力を
まざまざと知らされました。
大好きなホワキン・フェニックスの
怪演に近い演技力。
ジョーカー誕生、というより
正気を失くすことは誰にでも起こりうる事
であり、誰でもピエロの仮面を
被りながら生きているのかもしれない。
決して別世界の話ではなく、
私たちの生き方さえ問われて
いるような感覚を覚えました。
純粋無垢なアーサーだから、
器用にその仮面を取り外しながらの
生き方は出来なかったと…
悲しく、理不尽で、切な過ぎる
作品です。でもその中から
人にとって大切な愛とは?
と問われ、そしてそれは
何であるかを教えてくれる、
優しい映画でも
あったと思います。
ストーリー、
キャスティング、セット、
音楽、全て完璧で一生に
逢えるか逢えないかの
名作だと思います。
ホワキン・フェニックスさんに
とにかく乾杯🍻素晴らしい〜👏
間違いなく自分自身の中に在る、もう一人の自分…。
この映画を鑑賞しながら、そんな思いを繰り返し反芻していました。
ジョーカーは生まれるべくして生まれた。多分、そういう事なんでしょう。
社会の中に沈澱している澱の様な孤独や不安や貧困や憤り、そこから涌いてくる暴力の象徴としてジョーカーは誕生し、そうして、その存在は体制に対するアンチテーゼとして人々を惹きつけます。
光りが有る処には、必ず闇が生まれます。人が見ない振りをしても、その闇は必ず存在して、痛みの中にのたうち回ります。その闇は処へ往くのだろうか?その闇が静かに癒やされる事なんて果たして有るのだろうか?
かつて、映画「タクシードライバー」で、体制に対する強烈なアンチテーゼを叩きつけたハズの俳優ロバート・デニーロが、寛容と良識を装いながら弱者を嘲笑する体制側の象徴としての役柄を演じている事に、強い皮肉を感じました。
コメディ畑出身の監督が描いた、喜劇の先に有る狂気と恐怖の世界を、ホアキン・フェニックスが迫真の演技で演じ切っています。
この世界観を映像化した関係者の勇気に心から敬意を表します。
とある悲しい男の孤独と絶望を描いた上質な人間ドラマ
これは悲しい男のドラマだ。一人の男の孤独と絶望とが、小さな出来事の積み重ねで徐々に徐々に狂気と化し、凶暴性が目を覚ましていくその様子がなんともドラマティックかつ非常にデリケートに描かれており、重厚なヒューマンドラマか宛ら上質なドキュメンタリーの如く胸を打った。そしてまさかと思いつつ強い共感すら覚えてしまった。
というか、今この現代と言う時代において、アーサーに共感する人は少なからずいると思う(もちろん彼のような行動に出るかどうかは別問題として)。胸の奥にある鬱屈とした思いや、拭いきれない不満だったり、ふとした時に「あぁ自分は報われない方の人生なんだ」と気付いてしまう瞬間とか、そういうものを抱えて生きる感覚は、少なからず私にはよく分かると思ったし、そしてそういう感情が怒りに替わってしまいそうになる気持ちも、やっぱり分かってしまった。
突然笑いだしてしまう病も、母の素性や過去も、秘めた恋の妄想も、大失敗のスタンダップ・コメディも、全てが後のジョーカーというモンスターを形成するものだ。実は野心もあるし、欲望もあるし、理想もある。だけどいつも貧乏くじばかりを引いてしまうようなアーサーという男の人生は、いつになっても社会と親和していかない。ただ程度の違いこそあれ、そういう人生を送っている人は今の時代決して少なくはない。映画の時代背景は現代ではないのだけれど、アーサーと言う男そしてこの映画が定義したジョーカーという存在は、現代におけるアンチヒーローとして確かだと思った。
そしてそのアンチヒーローを演じたホアキン・フェニックスの名演たるや!肉体をげっそりと痩せさせて心も体もアーサーになりきって、ジャック・ニコルソンにもヒース・レジャーにも引け劣らない見事なもの。全編に亘って彼の役者魂を感じる作品だった。
最近はMARVELもDCもそろそろ倦厭していたところ、この映画だけは「一人の男のドラマ」として堪能できた。原作コミックから離れた独自の解釈が、却って私には良かったのかもしれない。良質の人間ドラマを観た。まさしくそんな気分だった。
今も世界はJOKERの掌
観賞後、ずーっと最後のオチが腑に落ちなくて。モヤモヤしてたんですわ。
で、一週間後くらいに気付く訳です。あー。やられたと。
この話、『ユージュアル・サスペクツ』と同じ構造ですね。ジョーカーの戯言ですわ。映画全体が「笑えない冗談」ですわ。最後の「fin(だったかな?)」の文字デザイン、オープニングのぶっとい骨太ゴシックタイトルに対して、レトロなshow風のあしらい。あれって日本で言う「チャンチャン!」ですよね。。。
人間的尊厳が希薄化する社会とそこで崩壊・滑落していく主人公。偶然シンボルを獲得し、それを祭り上げ、群体として思考停止にも似た状態で、高揚に絡め取られる大衆。現代社会を抽出して強烈に批判するこの物語が、すべてジョーカーの与太話という皮肉。
これからもそんな世界で生きていく我々にとって、これ以上「笑えない冗談」が他にあるか?
さらに映画を鑑賞した人のうち、少なくない人数がこの与太話に真正面から向き合い、感情を揺さぶられ、いみじくもジョーカーに同情すらしている始末。世界がジョーカーの掌で踊らされている状態が、現在進行形で続いています。
ジョーカーである必要性を感じない、という意見もあるが、これはまさにジョーカーでしか成立しない映画。『ダークナイト』のジョーカーと繋がらないという意見もあるが、このキャラクターはまさに『ダークナイト』のジョーカーそのもの。見事すぎるスピンオフです。
ここまでキャラクターの本質に立脚している映画は、そうはない。歴史に残る構造的傑作です。
ただし一つ言うならば、この妙味はあくまでメタっぽい構造に拠るものです。100分以上見せられるお話が、そのものとして優れているか、と言われれば懐疑的。個人的な「可哀想」に満たされた話は、カタルシスに弱く、言ってしまえば不幸の描き方が下手で冗長。
この辺の感想は話の構造を理解した今でも変わらない。「まぁ与太話だからね」と言われても、それとこれとは別。
映像と芝居、映画としての構造はすごい。ただし見せられたものの大半は、なかなかに退屈。あくまで変化球。諸手を挙げて称賛はできない。
と言うところでしょうか。
結びつかないジョーカー像
字幕版を鑑賞。バットマンの敵役のジョーカーがどうして出来上がったのかという話らしい。ジョーカーを主人公にした映画で忘れ難いのは、何と言ってもヒース・レジャーがジョーカーを演じた 2008 年公開の「ダークナイト」であった。撮影直後に主演俳優が急死するというハプニングがあったため、伝説化されているが、本来のジョーカーの設定は、歪んだユーモアを持つサイコパスというもので、必ずしも残虐なキャラではなかったものを、「ダークナイト」で路線が暗い方に変更されたもので、本作もその路線上にある。「ダークナイト」のジョーカーが非常に頭の切れる天才肌のキャラだったのに比べると、本作の設定はただのサイコパスに過ぎず、かなり物足りない思いをさせられ、ヒース・レジャーの作り出したジョーカーには繋がっていないように感じられた。
呪わしい悪人はどうして生まれたのか、を考えるには、神々しい救世主がどうして生まれたのかをひっくり返せば良いと、この映画は言っているような気がした。ハムラビ法典以来、刑罰の基本は同害報復であり、「目には目を」というフレーズは、決して復讐を勧めているのではなく、目を潰されたら相手の目を潰す以上の報復を望んではならないという意味である。その考えで行けば、人を1人殺したら殺した者を死刑にして良いのだが、誤って真犯人でない者を処刑してしまうと、それで同害報復は済んだことになってしまい、真犯人は処刑されなくなるというのが古代法の考え方であった。
このため、罪がないのに刑死してしまったイエスによって、罪深い人間が救われるという理屈がキリスト教の根本を成している。救われる方の人数が1対1でなく、無制限なのは、イエスがただの人間でなく神の子だったからであり、従って、それを信じなければ救済されないというルールになっている訳である。
これの逆を考えてみると、例えば自分を殺した相手を呪い殺すことができた場合でも、殺して良いのは加害者1人だけであるはずなのだが、「リング」の貞子のような存在は、果てしなく人間を呪い殺し続けている訳であるから、人間ではないということになり、一般的には「悪魔」という名称で呼ばれるものとなる。本作のジョーカーもこれと同様な存在であり、まさに人としての所業を超えた残虐な振舞いは、人間としての同情なととは無縁のものである。
脚本では、次々とジョーカーの不幸な生い立ちが明かされ、これでもかという不幸の連打を見せられるのだが、如何に自分の出生や生立ちに呪わしい過去があったとしても、そのせいで他人を殺して良いなどということには絶対にならない。しかも、この映画の中でジョーカーが手を下しているのは、過去は別にしても、いずれも彼に対して憐みや救済を申し出ている者たちばかりである。自分の不遇を外部のせいにして暴力的な手段を厭わずに実行してしまうのは、銃乱射事件などで目にする犯人どもの思い上がりであり、アメリカ的価値観の典型である。ビン・ラディンが行った 9.11 のテロも、発想は似たようなところから出て来ているのに他ならない。率直に言って、この主人公に同情できる人は、これくらい不幸な人間は他人を殺しても仕方がないと考えるのであろうか?私は全く同感できない。最初の看板の事件はダミーを使っていれば防げた話だし、銃はすぐに返しておけば何も起きなかった。全ては本人の杜撰さから起こっているのであって、他人のせいにするのは大間違いである。
主演のホアキン・フェニックスは素晴らしい役作りをしており、若い頃のロバート・デ・ニーロを思わせるほどの怪演であったと思う。奇しくもデ・ニーロ本人との共演となった本作は、彼の代表作となるには違いない。音楽の素晴らしさは特筆もので、緊張感を激増させていたと思う。演出は、R15+(15 歳未満は親同伴でも鑑賞不可)の容赦ない流血表現がリアリティを感じさせていて好ましかったが、母親との関係はイエスとマリアの関係を逆にしたものより更におぞましく、復活を思わせるかのような描写も不愉快で、聖書をひっくり返すのが邪悪の根本だと言いたげな手法には、やや物足りないものを感じた。
(映像5+脚本1+役者5+音楽4+演出3)×4= 72 点。
スゴい映画かもしれないけど
合わなかった。
世間が悪い、環境が悪い、自分は悪くない、そんな理由で誕生して良いのかジョーカー。
圧倒的記号としてのヴィラン、ジョーカーを一般人の価値観で肉付けする意味が解らない。
良かった部分はゴッサムの街並みの再現度とブルースの両親の死ぬシーンで千切れる真珠のネックレスの演出かな。三部作ではファルコーニの鉄砲玉が犯人だった気がするが。
アレックス、トラヴィス、パプキン、、、、、
アメコミ、DCコミックスの"バットマン"に於けるスーパーヴィランこと"ジョーカー"が、今やこんなにも引き付けてしまうキャラになっているのは、ノーラン版"バットマン"でH・レジャーが演じた「ダークナイト」での"ジョーカー"ありきだろう!?
J・フェニックスが演じたのは、J・ニコルソンやH・レジャー、J・レトが演じた様々な"ジョーカー"では無く、そんな様々な"ジョーカー"に成り得る可能性?がある"アーサー・フレック"と言う男を演じている。
まぁ、その男が"ジョーカー"になる訳だが三人が演じたどの"ジョーカー"になって行くのか?
J・フェニックスならどのタイプでも違和感なく演じる筈だし、皆が評価するH・レジャーすら圧倒する演技と存在感を発揮するだろうが、全く新しい"ジョーカー"像を示すかもしれない。
既にトラヴィス・ビックルであり、ルパート・パプキンでもあるし、アレグザンダー・デ・ラージの雰囲気も醸し出し"ジョーカー"であるアーサー・フレックから目が反らせないし、そんなJ・フェニックスのスクリーンに映える存在感がお見事!!
そして、T・フィリップスは「全身ハードコア GGアリン」を撮った監督であり個人的には最高な組み合わせで、アメコミや"バットマン"に興味が薄くても観に行かない理由が見当たらなかった本作。
デ・ニーロは素晴らしい存在感で、驚愕するシーンを見事に演じていたけれど、J・ニコルソンが現役だったらマレー・フランクリンを演じても面白そうだったり!?
アメコミ?DCコミックス?バットマン?ジョーカー?ノーラン?H・レジャー?そんなの抜きにして意識しなくても、アーサー・フレックと言う男に演じるJ・フェニックスに魅了されてしまう。
本作「ジョーカー」と「ビューティフル・デイ」に何か似た雰囲気を感じてしまう、J・フェニックスが演じる男の哀しさ、狂気、寂しさが胸に沁み入る。
2019/11/13 新宿バルト9にて
二度目の鑑賞。
個人的には地下鉄での騒動の後、脱出して暴動を背景にタバコを燻らせながら歩く姿、自信が満ち溢れたような表情が堪らない。
そんな絵になる場面が多く、メイクをしていてもスッピンでもその都度、表情が変わるホアキンの存在感。
本作の世界観のまま"バットマン"と対峙する正真正銘"ジョーカー"になったアーサー・フレックをJ・フェニックスを観てみたい!?
もう一声、、、
前評判が高過ぎるキラいがある作品は
まあ〜どんなんでしょうか〜ぐらいな気持ちで観るようにはしているんですが、
もう、、、こんな社会って、、、
グァーッ!
と溜飲下げたい方にはいい映画だと思いました。
アナキン・スカイウォーカーがSithに堕ちる理由は
いまだに納得しないのですが、
アーサーがJOKERになるのも、
てか最後にぜーんぶJOKEさ、と言わせてるのか
やっぱり何かが憑依するぐらいのストーリーにしてもらわないと
「ダークナイト」の極悪非道ジョーカーが
わからなくなっちゃうんですよ。あの極悪非道ジョーカーが、今作のジョーカーを引き継いだっていう設定の別人ぐらいに感じちゃいますね。
JOKERと名乗らせる、ゴッサムシティ、ブルースが出てくる、
で、なんとか関連を持たせてるという強引さも感じちゃいました。
つまりアーサーがJOKERになる理由が、このストーリーじゃなくてもいいんじゃないの、、、?と。
若いJOKERのアナザーストーリージョーク、的なスピンオフのりでも観れた気がする。
こうしてJOKERは誕生した、というのは、何人かの方々が指摘している通り、
このストーリー、JOKERである必要ある?と、なんとなくむず痒い感想に。
ピエロお面団の暴動に至る過程はもう少しブツ切りに挿入してもらいたかった。
いつの間に何を騒いでるのアナタ達は、と理解するのに時間かかったよ。
あ〜富裕層のお調子者がああなったからね、、そこの過程こそもっとショッキングに描いておくれ。
なんか文句多くなってしまった。
レイトショーなのにお客さんいっぱいいたのが良かったです。いいことだ〜
一番印象に残ってるのは「IT」「ドクター・スリープ」の予告編、、、(ΦωΦえ)/
演技は素晴らしいと思いましたが、、、
重すぎて、辛すぎて私は入り込めませんでした。
荒んだ世の中の底辺にいる者の怒りや悲しみ、心までもが歪められていく様子が見ていて辛かったです。
自分を見て欲しい、注目されたいという妄想と、世の中に対する怒りが重なり合って描かれた世界が残酷で哀しくて、重い映画を見慣れていないせいか衝撃的でした。
ものすごい感情
架空の舞台ではあるが、
追い込まれ、這い上がれない人に、
生じてしまう感情。
もちろん理解はできないが、
やや同情してしまう面もあり、
アメリカの闇を強調して表現しているのか、
と感じた。
どこまで現実で、どこまで妄想なのか…
デニーロまであっさりやっちゃうとは恐れ入った
遅ればせながらスターチャンネルで鑑賞
君にも見えるさ、幸運の星が
ファンの人からしてみたら色々意見はあると思うんですが、映画としては中々上質なものだと思うんです。
私のような、一切アメコミやら、ジョーカー知らなかった新参者が普通に楽しめて、終盤にがっつりストーリーが動く感じ。悪役の話だと思ってなかったです実は。
音楽と映像のマッチが絶妙で、「これ何のジャンルの映画なんだ?」と思うほど、いい意味で迷走してる気がする。スプラッタシーンが無ければヒューマンドラマのようにも感じる。
社会要素強めでしたが、この要素入れないと最後の演説(?)に説得力が無くなっちゃうので。でももう少し狂ってる人になってほしかった。いや、あの、悲劇の中を生きる彼は、全て嘘でジョークなのかもしれない。
一緒に観た友人が「全ての人生の要素において、ジョーカー引いちゃった人って感じだったよね」と言っていて、なるほど、言い得て妙。でも、悪役ってそれで良いんだろうか。結局、運が良ければ、幸運の星の元に生まれていればヒーローになれたかもね、みたいな感じが「悪役とは」という前提とあまり合ってないように感じました。
といっても、話も分かりやすくて、面白いアメコミ漫画1冊読み切った感じがした。
映画としては大成功なのでは?
個人的には最後に大爆笑してしまったことがあって、静まり返った映画館の中で笑いをこらえて涙を流した。
最後にジョーカーの気持ちがわかった。
自分の人生で1番サイコパスな瞬間でした。
大スクリーンで観る必要はなかったかなぁ
バットマンに特別思い入れもなく、アメコミ自体もそれほど好きではないけれど、それとは関係ないところで評価されているということで、鑑賞。
悲劇なのか喜劇なのか、その境目は何だろうか、とか考えていたら、ラストが来てしまいました。ジョーカーの悲哀を演じた役者の表現力はさすがでした。
観て後悔とまでは言わないけれど、ストーリーも映像描写も美しいものでもインパクトのあるものでもないので、ビッグスクリーンで鑑賞する必要はなかった、というのが正直な感想です。
紙一重
苦しくなる映画でした
母親の面倒をみて、真面目に働き、決して悪いヤツではなかったアーサーが、段々と哀しみに潰されて狂っていく
こらでもかこれでもかと押し寄せる不幸に、狂っていくアーサーを責められるだろうか
その苦しみから逃れるために、善と悪、どちらに転ぶか、人間誰も紙一重なんじゃないだろうか
笑ってほしかった、愛して欲しかった、認めて欲しかった、ただ切にそれを願っただけなのに
もちろん、不幸だからといって、その後の行動は認められない
分かってはいるけど、アーサーの気持ちが痛くて、とにかく苦しくなる
哀しみの中でも、何かを忘れるように、取り憑かれたように優雅に踊るアーサーに涙が出た
アーサーを狂わせたのは私だったのではないか、私はどちら側の人間なのか、と自分自身すら分からなくなりそうだった
清掃局のストライキで、街中にゴミが溜まっている
その風景の中を歩き、画面が絶えずごちゃごちゃとしてるのをずっと見てると、知らず知らずのうちにこっちまで気持ちが荒んでいく気がして、アーサーの気持ちに寄り添いたくなる
全てが良くできた映画でした
演技、映像、音楽、どれも惹きつける
最後white roomが流れたとき、狂っていく気持ちを煽られるというか、破滅的な衝動に駆られました
せめて映画の中ではハッピーでいたい、と思ってるんですがね、、
衝撃的な映画でした
全1561件中、241~260件目を表示