劇場公開日 2019年10月4日

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「結びつかないジョーカー像」ジョーカー アラカンさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5結びつかないジョーカー像

2019年10月9日
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鑑賞方法:映画館

怖い

字幕版を鑑賞。バットマンの敵役のジョーカーがどうして出来上がったのかという話らしい。ジョーカーを主人公にした映画で忘れ難いのは、何と言ってもヒース・レジャーがジョーカーを演じた 2008 年公開の「ダークナイト」であった。撮影直後に主演俳優が急死するというハプニングがあったため、伝説化されているが、本来のジョーカーの設定は、歪んだユーモアを持つサイコパスというもので、必ずしも残虐なキャラではなかったものを、「ダークナイト」で路線が暗い方に変更されたもので、本作もその路線上にある。「ダークナイト」のジョーカーが非常に頭の切れる天才肌のキャラだったのに比べると、本作の設定はただのサイコパスに過ぎず、かなり物足りない思いをさせられ、ヒース・レジャーの作り出したジョーカーには繋がっていないように感じられた。

呪わしい悪人はどうして生まれたのか、を考えるには、神々しい救世主がどうして生まれたのかをひっくり返せば良いと、この映画は言っているような気がした。ハムラビ法典以来、刑罰の基本は同害報復であり、「目には目を」というフレーズは、決して復讐を勧めているのではなく、目を潰されたら相手の目を潰す以上の報復を望んではならないという意味である。その考えで行けば、人を1人殺したら殺した者を死刑にして良いのだが、誤って真犯人でない者を処刑してしまうと、それで同害報復は済んだことになってしまい、真犯人は処刑されなくなるというのが古代法の考え方であった。

このため、罪がないのに刑死してしまったイエスによって、罪深い人間が救われるという理屈がキリスト教の根本を成している。救われる方の人数が1対1でなく、無制限なのは、イエスがただの人間でなく神の子だったからであり、従って、それを信じなければ救済されないというルールになっている訳である。

これの逆を考えてみると、例えば自分を殺した相手を呪い殺すことができた場合でも、殺して良いのは加害者1人だけであるはずなのだが、「リング」の貞子のような存在は、果てしなく人間を呪い殺し続けている訳であるから、人間ではないということになり、一般的には「悪魔」という名称で呼ばれるものとなる。本作のジョーカーもこれと同様な存在であり、まさに人としての所業を超えた残虐な振舞いは、人間としての同情なととは無縁のものである。

脚本では、次々とジョーカーの不幸な生い立ちが明かされ、これでもかという不幸の連打を見せられるのだが、如何に自分の出生や生立ちに呪わしい過去があったとしても、そのせいで他人を殺して良いなどということには絶対にならない。しかも、この映画の中でジョーカーが手を下しているのは、過去は別にしても、いずれも彼に対して憐みや救済を申し出ている者たちばかりである。自分の不遇を外部のせいにして暴力的な手段を厭わずに実行してしまうのは、銃乱射事件などで目にする犯人どもの思い上がりであり、アメリカ的価値観の典型である。ビン・ラディンが行った 9.11 のテロも、発想は似たようなところから出て来ているのに他ならない。率直に言って、この主人公に同情できる人は、これくらい不幸な人間は他人を殺しても仕方がないと考えるのであろうか?私は全く同感できない。最初の看板の事件はダミーを使っていれば防げた話だし、銃はすぐに返しておけば何も起きなかった。全ては本人の杜撰さから起こっているのであって、他人のせいにするのは大間違いである。

主演のホアキン・フェニックスは素晴らしい役作りをしており、若い頃のロバート・デ・ニーロを思わせるほどの怪演であったと思う。奇しくもデ・ニーロ本人との共演となった本作は、彼の代表作となるには違いない。音楽の素晴らしさは特筆もので、緊張感を激増させていたと思う。演出は、R15+(15 歳未満は親同伴でも鑑賞不可)の容赦ない流血表現がリアリティを感じさせていて好ましかったが、母親との関係はイエスとマリアの関係を逆にしたものより更におぞましく、復活を思わせるかのような描写も不愉快で、聖書をひっくり返すのが邪悪の根本だと言いたげな手法には、やや物足りないものを感じた。
(映像5+脚本1+役者5+音楽4+演出3)×4= 72 点。

アラ古希