劇場公開日 2019年10月4日

「スーパーヴィランのジョーカーではないジョーカー」ジョーカー cthetisさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0スーパーヴィランのジョーカーではないジョーカー

2019年10月6日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

バッドマンを一作目から観てるわけではないので、僕にとってのジョーカーは、ダークナイトでヒース・レジャーが演じたジョーカーこそがジョーカーだった。

あの知性的な狂気こそが、ジョーカーがスーパーヴィランである理由であり、崇高なヒーローに対峙可能な要素だ。
と言う前段を踏まえて観ると、全く違うジョーカーにガッカリする。

ホアキン・フェニックスが演じるジョーカーは、バッドマンに対峙するためのジョーカーではなく、一般市民がなりうる可能性を秘めたジョーカーだ。

彼を狂気に貶めたのは、『貧困』と、『孤独』であり、人々を誘導したのは『カリスマ性』ではなく、『一般的な不満』だ。

この映画を観て、秋葉原通り魔事件を思い出した。
犯人は『貧困』だったかはわからないが、『孤独』だったのは確かだ。

また今日こんな記事が出ていた
『12年勤務して手取14万円 「日本終わってますよね?」に共感の声』
貧困とは言えないけど、社会に対する不満は誰でもあると思う。

この映画の怖さは、不満は誰でも持っていて、不幸が積み重なった結果、誰でもそこに行き着く可能性を感じることだ。

社会的問題を炙り出そうとしている作品としては面白いが、ジョーカーの人物像の映画としては失格だ。彼はバッドマンを困らすことの出来るスーパーヴィランのはずで、苦悩をテレビカメラの前で吐露する人物像ではない。
彼がいかに成長しても、バッドマンに対峙する姿は想像できない。

ジョーカーというアイコンを使うなら、もっと徹底的な狂気を見せて欲しかったという感想で、⭐︎3っつ。

cthetis