「「上下逆転」を意識しながら観ると分かる」ジョーカー f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
「上下逆転」を意識しながら観ると分かる
★はじめに
・どこにも「ダークナイトの前日譚だ」という記載がないにも関わらず、『ダークナイト』によって形成された「わたしのジョーカー像」と比較して低評価する人がいる
・自分の「ジョーカー」像は、どんな映画・ドラマ・コミック等メディアから形成されたのかを思い返すほうが良い(自分の思い込みを疑うこと)
・過去に色々なジョーカーは存在したが「この映画は」ジョーカーをどのように描こうとしているか、単体で見ることは出来るか。(前提知識や事前情報を無視して評価するとどうなるか?)
・勿論、DCコミックの「ジョーカー」を謳っている以上、過去のジョーカーとの比較は避けられない。
・「過去のジョーカーとの比較」と「この映画におけるジョーカーを単独で見る」をバランス良く行うことが、この映画に対する正当な評価ではないか
・では、過去のジョーカーとどこが違っていて、何を共有しているか?
→自分のレビューでは後者について述べます。「『あべこべ』こそがジョーカーの本質だと製作者は考え、映画の語り口全体を『あべこべ』(上下逆転)で表現しようとした」のだろうと考えました。
米コミックでは、同じキャラクターでも、作者によって、異なるデザインで、異なるストーリーで描く。作者ごとに異なった「ジョーカー」と「ジョーカーの物語」がある。だからといって、好き勝手にジョーカーを描いていいわけでもない。ではジョーカーの本質とは何か?見た目は勿論、どんな発言、振る舞い、犯罪スタイル、過去を以て「ジョーカー」は定義されるのか?その境界線を手探りする作業が、漫画家や映画製作者には求められる。
日本の漫画読者は、「この作者が描いたものが正しい」という考え方をする。米コミックは、同じキャラクターを色々な作者が、自分のデザインと自分のストーリーで描いてもいい。一方日本の漫画では、原作者によるデザインと、原作者によるストーリーが「正しい」とされる傾向にある。
「キャラクターが、原作者の手からどれくらい離れているか」は、米コミックと日本の漫画では異なる、という点を意識すると、『ジョーカー』に対する評価の視点も変わるかも知れない。
★★この映画を観る時は「上下逆転」を意識する
・社会の底辺はのし上がりたい
・ジョーカーは転落するほどヒーローになる
・転落するほど「本当の自分」を解放できる
・悪役をヒーローに(バットマンを悪役に)
・階段を降りている時、実は昇っている!
★★★ -(マイナス)を+(プラス)に変える
→なんでも逆(あべこべ)にしてしまう、道化師の本質
「上下逆転」を意識すると分かる映画
以下本題。
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トリックアートの代名詞、マウリッツ・エッシャーの作品に『相対性』というものがある。階段を昇り降りする人物群を描いた絵画だが、1人の人物が降っているのと全く同じ階段を、全く同じ向きに、別の人物が「昇っている」。
もしこの作品を知らない人は、「エッシャー 相対性」でググってみてほしい。
このトリックアートと同じような効果を、映画『ジョーカー』は利用して、下降と上昇を全く同一のこととして提示してみせた。
劇中、主人公アーサーは何度か階段を昇り降りする。特に降りる場合に注目すると、彼が階段を降りるたびに、カメラはまるで彼が階段を「昇っている」かのような角度から急勾配で写し出す。昇っているときは降りているかのように。降りているときは昇っているかのように。落ち込む背中が階段を昇るときは下に落ちていくようだし、階段を下る背中はむしろ上昇するかのようにウキウキしている。(ジョーカーというのはあべこべな存在である。悲劇は喜劇。喜劇は悲劇。表は裏で、裏は表。)
その意図は?
下降すれば下降するほど、彼は上昇する。それはバネのようなもので、押さえつければ押さえつけるほどよく伸びる。助走の距離をたくさん取れば取るほど遠くに飛ぶ。
ジョーカーが転落すればするほど、タガが外れた彼の爽快感は大きい。人殺しというまさに最底辺の行いこそ、彼に最も爽快感を与える。それも彼が社会の最下層へと押さえつけられたゆえだ。彼は勝手に下降したのではない。抑圧され、下に押しつぶされたのだ。上がりたくても上がれないのだ。
転落しきったジョーカー=アーサーだが、一旦暴動が発生すると救世主がごとく祭り上げられる。その様はまさにヒーローだ。ジョーカーと言えば「バットマン」シリーズ最凶の悪だ。だがこの映画では、貧困層の立場からすれば彼は善なのだ。(いわば今作は『ジョーカー・ライジング』。バットマンがパトカーの上に立つ姿が、『ダークナイト』あるいは『ダークナイト・ライジング』のポスターアートとして存在したと思う。今回はジョーカーがパトカーの上にRISEする。これははっきりバットマンに対抗している。バットマンが民衆の上に立ち上がるなら、俺も民衆の上に立つ、と。)
悪は善に、そして善は悪に。ジョーカーが善ならば、バットマンは悪。バットマン=ブルース・ウェインは、資産家ウェイン家の一員として、上級民と底辺層への分裂構造を生み出した、悪者の側に位置づけられる。
よく考えてみればこれはすでに『バットマン・ビギンズ』や『ダークナイト・ライジング』でも描かれていたことだ。両親の死に憤り、犯罪者への罰を望むも、司法は腐敗して機能しない理不尽な世の中に直面するブルースに向かって、幼なじみレイチェルは「貧困が犯罪を生む」という現実をつきつける。ブルースは自分の潤沢な資産を使って貧困を改善するのではなく、武装(おもちゃ)し、私怨から犯罪者を叩きのめす。これでは問題の原因解決になっていない。バットマンの行動は、純粋な善ではないし、合理的な解決策でもない。ただ自分の憤りをぶつけたい。発散したいのだ。結局バットマンは、金持ちであるという立場を利用して夜遊びをしているのに過ぎない。(理不尽に直面し「自分で行動しなければならない」となった点で、今作のアーサーに似ている)
そんな彼を罰するように『ダークナイト・ライジング』でブルースは屋敷も地位も執事アルフレッドも失って、裸一貫での再出発(とはいえやはりスーツも武器も持ったままなのだが)を促される。そしていつのまにか、本当は金持ちの側として叩かれる側なのに、民衆の側に立ってベインを叩く。(民衆の側にあったはずのベインがいつのまにか民衆の敵になっている。このような転移を許容せしめるものは何だろうか?)(それもこれも、バットマンがシンボルだから出来たことだ。金持ちだとかの背景が、仮面の裏に隠されているから出来ることだ。だからバットマンはズルい。姑息だ。そこが彼の特徴でもある。ダークナイトだから。)
(補足)バットマン=ブルース・ウェインは両親殺害当時幼く、金や権力を利用して何か悪事を行ったわけではない。しかしその父親は、ウェイン社のトップであり、政治家でもあった。具体的にどんな罪を犯したかは知らないが、アーサーを始めとする底辺層からすれば父親が報いを受けるのは「当然のこと」であり、ブルースも「父親と同じ」側なのだ。だからブルースが犯罪者を憎むのは逆恨みであり、本当は自分の身を振り返るはずなのに、していない。『ダークナイト』三部作ではトーマスは医師であり、ウェイン社の経営は譲渡し、市民のために安価な鉄道を敷設するなど貧困をなくすためになにかをしようとしていたから、今作のように「バットマンこそ自分の身を振り返ってみろ」と言う描かれ方がより強いかたちで成されるのは初めてのことだ。(むしろノーランが、バットマンが責任追及されるのを避けるようなかたちで、トーマスを貧困の原因から外したのかもしれない)
以上のような『ダークナイト』三部作における「犯罪の原因=貧困」論を踏まえ、『ジョーカー』は、バットマンという上級層からの視点ではなく、底辺層の立場からを描く。
バットマンが上級層の善ならば、この映画におけるジョーカーは底辺層の善=ヒーローである。善を悪に、悪を善に。暴力行為がヒーローとなるのもまた、主人公アーサーが抑圧されにされた結果である。降下すればするほど上昇している。
『ダークナイト』では、ジョーカーの鮮やかな犯罪手腕に爽快感を覚えた人もいるかも知れない。そのような、悪事がもたらす爽快感こそ今回の「下を上に」ということだ。(文明社会において禁止・抑圧されている数々の行為、おこないにこそ、人間の本性とでも言うべき、爽快感が眠っている。)
……というのもまた、ジョークだったというオチ。
涙は笑いに、笑いは涙に。全てをあべこべにする道化師。この映画全体を彼の妄想として見せられたとき、観客は「何が真実で何が嘘か」の拠り所を失って不安になる。それは劇中でアーサーが感じていたのと同じ狂気だ。
人は嘘でも笑わなければいけない。理不尽さを味わされているにも関わらず、相手の機嫌を取って、耐え忍ばなければいけない。それが正気だとされる。そして「本当の自分」を出す人間ほど「頭がおかしい」と避けられる。正気こそが仮面で、狂気こそが真実だ。そのような逆転、あべこべ現象は既に、この世の中に現前している。(本当の自分=内面が抑圧されればされるほど社会的には上昇する。本当の自分を解放するほど、社会的には転落する)
「この映画はあくまでジョークですよ」というのは、「この映画は決して革命を促しているわけではありません」という最後の予防線なのかもしれない。とはいえ、この映画が今現在燻る民衆の不満を汲んでいるというのも事実だ。下を上にしたい、という。
追記①「何も本当のことを言えず、お道化しかしない」という点で、事前に『人間失格』(太宰治)を想定して鑑賞した。不満があっても強い者が勝つ、物事を良くしたくても既得権益がそれを阻む、という諦観や失望においては今作と共通するのかも知れない。葉ちゃんの「お道化」はいわば仮面であるが、世渡りをすることは仮面を被ることだという点ではある意味で真理を体現している。道化師は嘘を装って真実を語るのだ。(『バットマン・ビギンズ』でも、ブルースに向かってレイチェルは言っている。「この仮面が、あなたの本当の姿なのだ」と。嘘がまことなのだ。)
また黒澤明監督作品『乱』には、狂阿弥という道化師(演・ピーター)が登場する。このような殿様控えの道化師は、場を盛り上げる役割を持ち、多少の無礼は許されたという。いわば「イジり」が許された。イジりは、個人の外見や言動、性格を取り上げて馬鹿にすることだ。しかし目上の者が目下の者に行えばパワハラ事案だし、目下の者が目上の者に行えば不興を買ってこれまたパワハラに繋がりかねない。特に後者の場合のようなイジり(目下→目上)を行うことが許される場が「無礼講」である。道化とはいわば、この無礼講を常時行う特権を有した職業であった。「冗談」を装って真理をつくのである。権力を使ってナワバリを守る人間の権威を崩す、それがコメディアンだとか風刺の1つの役割なのかも知れない。
追記②
バットマン不在の今作は、単独でも成立するが、バットマンと似ながらにして対極にある両者の相補的な関係をよく認識させてくれるように思った。共に仮面で装った存在であり、『ダークナイト』三部作と『ジョーカー』においては貧困問題という同一の事案から、バタフライエフェクト的に誕生する。今作は特にジョーカーを、いわゆる犯罪者側のヒーローとして描いた。(革命が成功したあとの世界では、バットマンは悪の側の好敵手として記録されるだろう)
そしてもしかしたら、2人とも同じ人間を父親に持つのかも知れない。(ただし『バットマン・ビギンズ』と『ジョーカー』ではトーマス・ウェインの描き方が全く異なり、別人物とも言えるから、必ずしも本作は『ダークナイト』の前日譚としては捉えられない)
両者は同じものから生まれたにもかかわらず、対立する関係を持つ。今作は特に貧富格差という構造内部に両者を配置することによってさらに、対立関係を克明にした。
お褒め頂き光栄です!ありがとうございます。私のはいつも感想文ですが、f(unction)様のレビューは大変勉強になります。Batmanとの対比や階段シーンの分析はなるほど〜と思いました!
エッシャーという作家にとっての主題は、今はあまり詳しくないので、ここでは控えさせていただきます。個人的にエッシャーにはとてもきl興味があるので、鑑賞の際にはぜひカミツレさんのご指摘を参考にさせていただきますね!
すみません、カミツレさんの「相反する二つの概念が実は同一のものである」というご指摘は、エッシャーに関するものでしたね。勘違いして、ジョーカーについてのものだと思い込んでしまいました。ごめんなさい。
社会的な転落は自己解放度をたかめる昂揚である。自己を偽ることが正気だとされる社会こそ狂気である。自己を解放する人間は狂気だとして見られるが、実際は狂気こそ自己を解放した結果の真実である。貧困層を上に、上級層を下にする。ジョーカーこそ英雄であり、ウェイン家は悪である。
「なんでも逆にするジョーカー」という見方をすれば、この映画があらゆる場面で「下を上に」逆転させているのだと、説明がつきました。階段の場面は自分にとって、その糸口となる重要なシーンです。
もし他に同じような見方をしている方がいたら、階段のシーン以外にどこで気づいたか、ということをぜひ知りたいなと思いました。
「相反する二つの概念が実は同一のものである」というカミツレさんのご指摘は、まさにその通りだと思います。
この映画を理解するうえで念頭に置くべきなのはたった1つ、「ジョーカーというのはなんでもあべこべ(逆)にしてしまう存在だ」ということです。そう気づかせてくれたのが階段の下降=上昇シーンでした。
他にも「喜劇と喜劇は同一の事象を引きで撮るか寄りで撮るかの違いだ」ということは多くの方がレビューして居られましたし、映画公開前に町山さんがラジオでお話しもしていました。(たしかにこの映画では追いかけっこのシーンが多く、これが喜劇と悲劇が表裏一体であるということに相当するのだと思われました。しかし映画だけでそのことを伝えきるのには成功しているように思えなかったのですが)これもまた、悲劇を喜劇に変えるチャップリン的道化師の技なのだと思います。
f(unction)さん、ご無沙汰しております。カミツレです。
作中でアーサーが階段を昇り降りする場面がやけに多いな(あるいは、印象に残るな)とは思っていましたが、
「彼が階段を降りるたびに、カメラはまるで彼が階段を『昇っている』かのような角度から急勾配で写し出す」という演出と、その意図には気が付きませんでした。非常に鋭いご指摘だと思います。
エッシャーでいうと、無限に続く階段で有名な『上昇と下降』でも、階段を昇る者と降りる者が同じ段に描かれていますね。
私は、エッシャーの作品は「無限への志向性」が一つの主題だと考えていますが、f(unction)さんがおっしゃるように、「上昇」と「下降」とか「図」と「地」というような「相反する二つの概念が実は同一のものである」ということも表現しているのかもしれませんね。
読んでいて新たな発見が数多くありました。素晴らしいレビューをありがとうございます!