「ぬるい設定ながら熱演に称賛」ジョーカー erimakiさんの映画レビュー(感想・評価)
ぬるい設定ながら熱演に称賛
素晴らしいと感じたのは、ホアキン・フェニックスの演技や存在感は言わずもがな。画の取り方、魅せ方が素晴らしい。
多少目に余る設定のぬるさを感じたもののそれをカバーするに足る、総じて良い印象だった。
・いちいち画になる
階段をダイナミックに踊りながら降りていくジョーカー、
マレーの番組出演直前にたばこをふかしつつ闊歩するジョーカー、
大衆の歓声を受けながら血で裂けた口を描くジョーカー、
廊下窓から後光を受けながら踊るラストシーンのジョーカー、
いちいち絵になるし構図がかっこいい。そこにBGMなんて流されたら映画ってやはりいいなあと思わずにはいられない。
・ヒース・レジャーとはまた違った趣
ホアキン・フェニックス本人が真にジョーカーのような生い立ちを背負ってきたのではないかと錯覚させられそうになる程に彼の演技は突き抜けており、演技力だけでなく表情や顔の作りまで説得力のある存在感を放っていた。特に冒頭のシーンとラストシーンで笑い狂う、彼の深い彫の奥に青白く光る瞳に映える一縷のハイライト、観ているこちらまで吸い込まれてしまいそうな、闇に引きずられてしまいそうな恐ろしさを醸し出している。そんな力をもった役者にはなかなかお目にかかれないだろう。
・「笑う」斬新な設定
楽しい嬉しい幸せの表現である筈の「笑う」という行為に対してこんなにも特殊なイメージを持ってしまうことがあっただろうか。もちろんホラー映画で怪物に笑われたら恐ろしいが「恐怖」だけではない。彼の笑いには悲しみ、怒り、やるせなさとった様々な感情が入り交じる。「笑いたくない場面で笑ってしまう」「病気で笑ってしまう」という設定はなかなか斬新だと感じたし今回のジョーカー像にもハマっていてうまいなと思った。
・ぬるい設定2選
1:地下鉄の殺人をきっかけに若者や貧困層の熱気に火がついた、という設定にやや無理を感じる。いくら富裕層を粛清したとはいえ、只の殺人である。それを上回る共感を得られたというのがちょっとよくわからない。
2:マレーの番組で起きた事件を通じてジョーカーが英雄になった流れになっているがあの番組での言動や行動も只の自意識過剰な異常者にしか映らない。デモを起こしている大衆はどこにシンパシーを感じたのであろう?更に言い合いでは堂々たる姿勢で正論を述べるマレーにやや分があるような状況となり、ムキになって喚き散らして挙げ句にカッとなって引き金を引いてしまった(ような)アーサーには共感し難い気持ちになる。
もうちょい我々鑑賞者を巻き込んで同情や憐れみややるせなさを誘うような、そんな現状を浮き彫りにしてしまうような話があのシーンで出ていれば、ジョーカーにもより説得力が増すんじゃないだろうか?
要するに大衆がジョーカーに突き動かされる流れがかなりいい加減な印象だった。
・ジョーカーの信念は感じない
地下鉄にしても番組にしてもアーサーの信念の発露というよりは、彼の内なる葛藤やトラウマ(このトラウマもインパクトちょっと弱いしもっと驚愕の内容にしても良かった)によって(半場)衝動的に起こされたものであり、ダークナイトのジョーカーのような、大衆を陽動するような、何か革命を起こしてやろうとでも言うような、外に向けてのエネルギーの発露みたいなものをほとんど感じない。ジョーカー誕生の物語であるからそこまで描けないであろうことはわかるが、だからこそ大衆を引き入れてカリスマへと押し上がったという流れに無理矢理感を感じた。
まとめるとストーリー単体でみるとややパンチが弱く、強引である。とはいえ、それがあまり気にならなくなる程にホアキン・フェニックスの演技は奇々怪々であり、圧倒的だった。
深く考えると、全部妄想だったんじゃないかと思えてきました。精神病院から実際は出ていなくて、全部妄想だった。ラストで逃げ出して本当のジョーカーが始まる。ダークナイトでも生い立ちとかジョークばかりでしたから。
マレーに言い負かされてカッとなったのではなく、自分のステージを晒しものにしたからでしょう。しかも、あのステージ場面は編集されて、面白くさせられてると思いましたよ。
「将来はコメディアンになる言ったら笑われた」の件と、「大人になってコメディアンになったら笑われない」は本来繋がっていなかったはず。
大衆が暴動を起こしていたのはアーサーの妄想と観ました
そもそも大衆はただゴミ問題でデモ起こしてただけなのでは?
また、小屋に出たのもテレビ出演も全て妄想じゃないのかと観ました
大衆はジョーカーに「共感して」暴動を起こした、というより暴動
を起こす「きっかけ」としてジョーカーを選んだという表現があっていると思いました。登場人物はみんな最初からどこかしら狂っていて、暴動を起こすのに丁度いいきっかけが欲しかったのだ思います。
最後にアーサーを大衆が囲むシーンは、自分達の行いを宗教化して正当化するために「ジョーカー」を教祖として祭り上げているようにも見えました。
マレーが人気の面白い司会者であったと同時にどこかで不快感を与えていたのかな、と。
日本で例えるとみのもんたとか、宮根とかそんな感じで…。
ジョーカーの「お前はスタジオから出たことあるのか!」って同じことを街で暴れてる人は思ってたんじゃないかな〜と思いました🤔