「大丈夫、市子さんは何も言わない方がいい。」よこがお 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
大丈夫、市子さんは何も言わない方がいい。
前作を彷彿とさせるゾワゾワ感。
全編、時系列が交錯する。ただ、市子自身の雰囲気が違うだけでなく髪形が違うので、それが「前後」のアイコンだと見極めればいいから問題はない。観る者の視点を惑わす手段はそんなとこじゃなく、例えば「ハクシャク?、カクシャク?」とか、気になるようなならないようなわずかな不快感を挿し込んでくるので、座り心地の違和感みたいなものがずっとある。そしてときどき、動物的な夢想やら、ひまわりやら、はっとするくらいものも放り込んでくる。そんな進展に身構えていると、どう?こういう一面もあるでしょ誰にだって、とばかりに静かな横顔の画を差し込んでくるから憎い。ほら、あなたの中にだって隠している本心があるでしょうと言わんばかりに。澄ましててもわかるのよ、とばかりに。
市子は、事件によってそれまでの生活を失ったことをきっかけに変貌した。怖いのはそうなってしまった彼女ではなく、報道の正義を振りかざすマスコミや仲良かった同僚などでもなく、基子だ。きっかけは事件そのものであるにしても、基子の執着(偏愛とでもいうか)によって市子が追い詰められていったのだ。市子の復讐劇でさえスカされたのではないか?と勘ぐる。ああ、この人は私を忘れていないのだと。つまり、事件後、自分と犯人との関係を告白しようとした市子を止めたときから、すでに市子は基子の手中に落ちていたのだ。市子は、それからずっと基子の心の中に軟禁されていたのだ。市子の復讐はむしろ基子の満足を高め、活力にさえなったのだ。そうじゃなくては、基子が平然と最後のシーン近くの姿(つまり職業)でいるはずがない。基子の満足は、共にいる時間でもなく、仲良くすることでもなく、ましてや身体を重ねることでもなく、自分の手の内に(影響下に)納めること。そして「好きな人に成り代わる」こと。そんな基子本人にその自覚が希薄なのではないかという懸念が押し寄せるから、怖いと思うのだ。むしろ市子は、精神がもともと正常だからこそ心が壊れて変貌してしまった。「無実の加害者」はむしろ基子ではないかと戦慄する。
いま。違うぞ、狂気をはらんでいるのは誰だよ?と誰ともなく訴えかけたい心境でいる。