「コメディとしての側面に加え、パロディの部分もある」キングスマン ファースト・エージェント 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
コメディとしての側面に加え、パロディの部分もある
初めて背広を買ったときに、背広という名詞の由来を調べたのは当方だけではないだろう。いよいよ仕上がった試着室で、上着に袖を通して釦を留めたとき、なんとも言えぬ誇らしさのようなものがこみあげてきたことを、些かの恥ずかしさとともに思い出す。
アメリカ人はどこかイギリス人に対して引け目のようなものを感じている気がする。文化でも経済でも圧倒している筈なのに、イギリスに比べてどこか軽い。所詮は移民の国だということなのか、それとも歴史の重味が違うのか。
それは印象だけではない。これまで当方が交流したことのあるアメリカ人はいずれもノリで話していたし、みんながみんな自分の都合だけを優先していたが、イギリス人やオーストラリア人は論理的な話し方をしていて、自分の都合と同じくらい他人の都合に配慮していた。大人としての度合いが違うのだ。だから大学にしても、日本の皇太子が留学するのはハーバードではなく、オクスフォードなのである。
日本人の当方と同じように、アメリカ人にとってもサヴィル・ロウの背広は憧れなのではないだろうか。ベタでミーハーではあるが、定番はやはり強いのだ。ディズニーがイギリスのスパイ組織の映画を作るのにイギリス人のマシュー・ヴォーンを監督にしたのも同じで、やはりアメリカ人監督ではだめだということだろう。
マシュー・ヴォーン監督はディズニーの期待に応え、ウィルソン大統領をアホに描いてみせた。これはこれでよかったのだが、実際のウィルソン大統領は理想主義者であった。第一次大戦で武器の性能が飛躍的に向上したために多くの犠牲者を出したことを反省し、戦争の再発を防ぐために国際連盟を設立した。しかし第一次大戦は実質的には終結しておらず、ヨーロッパに火種はくすぶり続けていた。連合国側で参戦して帝国主義の大国に躍り出た日本は、国際連盟の白人優先に不満を抱えていた。20世紀の先進国は、まだ戦争を肯定していたのである。
本作品に登場する各国も、国際紛争を解決する手段として戦争に参加している。国家の指導者が勝手に参戦しているのではない。参戦する指導者を国民が選んでいるのだ。だから国民同士が殺し合うのも、ある意味では仕方のないことかもしれない。ただ、浮かばれないのは戦争に反対し、参戦する指導者を選ばなかった国民である。しかし戦争したい国民と同一に扱われて徴兵される。人殺しをするつもりはないから士気はゼロだ。そして早々と殺される。味方に殺されることのほうが多いらしい。生き残るのは戦争をしたい人間たちばかりだ。かくして戦争の歴史は綿々と続いていく。
本作品はコメディとしての側面に加え、パロディの部分もある。二十世紀の戦争全体を茶化してみせたのだ。国の指導者は軒並みバカまたは傀儡である。そういう指導者を選ぶ国民もアホばかりである。バカとアホの世界が続くから、バカバカしくもくだらない組織を作った。つまりキングスマンそのものも茶化している。
怪僧ラスプーチンにロシアダンスのような格闘技をやらせたり、推定50歳くらいの主人公に激しいアクションをやらせたりするのも、ある種のパロディだろう。おかげで笑いながら鑑賞できた。マシュー・ヴォーン監督はなかなかやる。