「陰キャの青春リアリティ。今ならパパの愛情が痛いほどわかる。」エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
陰キャの青春リアリティ。今ならパパの愛情が痛いほどわかる。
少し前なら、主人公のケイラだけに感情移入してこの映画を見た気がするのだけれど、今となってはケイラのパパの気持ちまでわかる気がして、全編にわたって胸が張り裂けそうだった。ただでさえ、共感性羞恥を刺激するような「陰キャあるある」で溢れたこの映画。プールパーティーでのバツの悪さや、年上グループに一人混ざった時の所在なさ。意中の相手の前での不器用なアプローチ・・・と、青春時代をただの陽キャでは過ごせなかった人なら逃げ出したくなるようなシーンが連続する。ケイラを演じたエルシー・フィッシャーの水着からあふれる贅肉のリアリティも含め(多感な年齢でよくあれを演じたものだ)、あの決まりの悪さをここまでリアルに表現した映画って、なかなかなかったと思うし、青春ってのは、キラキラ眩しいものじゃなくて、ボロボロに傷ついてしごく切ないものだっていうことを思い出す。この映画は、ケイラの気持ちで見てもパパの気持ちで見ても、そういった青春の痛みや切なさがしかと感じられて、その上で凄く良い映画だったなと思う。
日本とは治安や法制度が異なるアメリカだと、子どもを一人で外出させてはいけない法律があったりするし(小さい子どもだと家で一人で留守番させてもいけない)、特に西海岸だと車社会なので免許を持たないうちは友達と遊びに出かけるだけでも親に車で送迎してもらわなければならなかったりして。ということはつまり、親には子供がどのくらいの頻度で友人に会い、その友人がどんな子で、夜何時まで外出を許しているのか・・・なんてことがすべて筒抜け状態になってしまう。そんな中で、子の友人関係があまり良好ではない時に、それまでもが親には簡単にわかってしまうのだ。ケイラがパパに対して冷たく当たるのは、思春期の苛立ちもそうだけれど、友達がいないことや学校が楽しくないことがバレたくないという、彼女なりの必死な防衛本能だったりもするのだと思う。そしてそれは決して彼女自身のプライドのためではなく、自分を心から愛してくれる父親を失望させてはならないという健気な献身でもある。
一方で父親の方も、ましてや相手が娘なら、どこまで接近していいかどこまで離れるべきかも考えながら、ウザがられながらでも娘を守らなければならない義務がある。泣きながら帰宅し自室に閉じこもった娘を、放っておくのが正しいのだと分かっていても、あえて「放っておいて!」と言われるために扉をノックしなければならない時が親にはある。そんな葛藤が、ケイラのパパからは常ににじみ出る。娘がバナナを嫌いだとわざわざスマホアプリにメモしていたり、ショッピングモールでこっそり娘の様子をうかがっていたり・・・。娘の立場で考えればどう贔屓目に見たってウザい父親だ。でも親はウザがられても子を視界に入れていなければならないし、我が子があまり友人関係でうまく行っていないと気づいても気づかない振りで「お前はクールだ」と言ってあげたいと思うものだ。仮にそれが子のプレッシャーになるとしても。
そんな二人の葛藤が、あのタイムカプセルを燃やすシーンでついに溶解される。私はこのシーンでうっかり泣いてしまった。二人の気持ちが良く分かってしまって。父と娘は決してすれ違っていたわけではなく、ただ思い合っていただけだと分かる素敵なシーンだったから。
少し前なら、私は主人公のケイラだけに感情移入してこの映画を見た気がするし、それでも満足だった気もする。だけど今なら、今だから、ケイラのパパの気持ちも分かる気がする。そして私が学生当時の両親の気持ちも少しわかるかもしれないと思う。前までは青春映画なんて興味もなかったのに、最近になって急に青春映画が胸に響くのは、主人公を我が子のように思うからかもしれないし、かつての自分のように思うからかもしれない。だから青春の痛みにあがく主人公を抱きしめて「その気持ち、わかるよ」と言ってあげたくなる。
私には子供がいないし、年齢でいえばケイラとパパのちょうど中間あたりだろう。そんな今このタイミングだからこそ、やけに青春映画が胸にしみる。そして自分が親にちゃんと愛されていたことを十数年遅れでひしひしと実感する。