「宗教の教義と、社会の常識の相容れない関係性」ある少年の告白 Naguyさんの映画レビュー(感想・評価)
宗教の教義と、社会の常識の相容れない関係性
"教会の常識は、社会の非常識"という言葉がある。時代とともに常識は変化していくからだ。
本作は、クリスチャンではない日本人が観ると、単なる"LGBTQ映画"のひとつとなってしまう。しかし、米国社会におけるキリスト教根本主義と、LGBTQを始めとする多様性受容社会の相容れない関係性を描いている。
牧師のひとり息子として育った大学生のジャレッドは、自分がゲイであることを両親に打ち明ける。両親はジャレッドを、教会の紹介する同性愛者矯正施設に、入所させる。
"矯正プログラムの内容を外部に漏らしてはいけない"と約束させる、衝撃的な内容は、ガラルド・コンリー原作の「Boy Erased: A Memoir」(「消された少年:回想録」)で暴露された実話である。この施設は"洗脳"以外の何物でもない。
同性愛を"病気"と考え、"治療する"という立場しか選択肢のない牧師の父と、自ら"治そう"と苦しむゲイの息子の人生観の隔たり。"多様性"という言葉では信念を変えられない、"宗教"の枠組み。
主人公一家は、バプテスト(Baptist/浸礼教会)である。"浸礼"の名のとおり、本作の矯正プログラムの中にも、全身を水に浸けて行う、"浸礼"の描写シーンがある。クリスチャンではないと、こんなことで、"同性愛がなくなる"と本気で考えていること自体が滑稽だったりする。
アメリカ合衆国で、最も宗教人口が多いのがプロテスタント系で、なかでもバプテストは最大の割合を占める。
また極端なバプテストは、"聖書の無誤性"を唱えており、聖書が原典において全く誤りがない神の言葉であるという前提で活動している。
この立場においては、"歴史と科学の分野を含んで完全に正確"とされており、劇中でも、"神と科学"という絵画展のシーンが出てくる。
本作は、俳優でもあるジョエル・エドガートンの監督第2作。前作「ザ・ギフト」(2015)は、学生時代のイジメの被害者が大人になって、何も覚えていない加害者をじりじりと追い込むイヤミス(嫌な気分になるミステリー)の秀作だった。
立場の異なる人間がそれぞれどう考え、感じているのかを、極めて客観的に描写しているという意味で、本作と共通点がある。
主人公ジャレッドの両親役がラッセル・クロウとニコール・キッドマンというのも豪華だ。また矯正施設の入所者のひとり(敬礼する青年)として、グザビエ・ドラン監督が役者として出演している。
ドランは若干30歳ながら、「たかが世界の終わり」(2016)で、カンヌ国際映画祭グランプリを獲得した新進気鋭の監督。その作品に、世界中の映画ファンの目が集まっている。また自身もゲイであることをカミングアウトしている。
エンディングで、父の経営するフォード自動車販売店(米国車)から出てきた、主人公ジャレッドは、トヨタ車に乗って旅立っていく。意図しているかどうかは別として、まるで伝統や過去に固執するアメリカ社会からの離脱を象徴している。
しかし一方で、このような矯正施設が、いまなお全米30州以上で合法とされている事実が最後にテロップで紹介される。"同性愛"は病気ではない、と映画は訴える。
(2019/4/28/TOHOシネマズシャンテ/ビスタ/字幕:松浦美奈)