「【手錠・チョーカー】誰も言及しないクライマックスで表現したかったシーンとは」天気の子 YMさんの映画レビュー(感想・評価)
【手錠・チョーカー】誰も言及しないクライマックスで表現したかったシーンとは
クライマックスの代々木廃ビルから天空~地上までのシーン。
ほとんどの人が表現したかったものに気づいてないので投稿。
まず、チェーホフの銃という格言を思い出してもらいたい。
ーー説明ーー
舞台上に弾の込められた銃が置かれるならば、それは発砲されなければならない、という言葉で、要は使われない(意味のない)舞台装置を置いてはいけないという有名な作劇の格言。
ーー説明ここまでーー
当然、新海監督がこれを知らないはずがない。作劇論に則るなら空中のシーンで手錠を使うべきだったし、使わないなら穂高が手錠をかけられる前に須賀を突っ込ませるべきだった。
しかしあえてそうしないということには、そこにメッセージがあるということ。
空中のシーンで使える手錠を使わないというのは、わかっていてあえて使っていないのだ。
なぜか?
あのシーンは純然たる解放のシーンだから。
人柱としての役目から解放されても、手錠という新しい拘束が増えるなら何の意味もない。拘束の対象が入れ替わっただけ。
あのシーンは「新しい拘束で君を縛りたいんじゃない」という帆高の意思の表れ。
さらに、多くの人が勘違いしているが、地上に落ちたシーンで、陽奈のチョーカーは切れているが、石は割れていない。
作劇論的には石が割れた方がしっくり来るし、それゆえに多くの人が石が割れたと空目しているのであろう。
これもあえて割らないことでメッセージが生まれる。
あそこで陽奈の本質が変わってしまったり、何かが喪われたりしたわけではなく、純然たる解放であるというメッセージだ。
新しい拘束(手錠)を増やされることもなく、本質的な何か(石)が喪われたわけでもない。
つまり「何も足されず、何も引かれなかった」姿を描写しているのだ。