「王道行かぬ映画」天気の子 Hosisameさんの映画レビュー(感想・評価)
王道行かぬ映画
初上映当日鑑賞し、本日まで自分の中で反芻し、ふっとあることに気づいたのでレビューいたします。
正直、鑑賞当日の感想は3つだけ:
1、「君の名は。」の後日談を知れてよかった。
2、期待通りのクオリティー。
3、世界を引き換えにしても思い人を選ぶという思いつかぬ結末は新しい。
しかし、よくよく考えたら見落としたことがある気がする。
大ヒットの「君の名は。」のかげにある本作は、確か「君の名は。」ほど感動的な物語ではなかった。
という点で評価されないレビューが多いと見受ける。
しかし、本作の新しい物語の終わり方から、「君の名は。」とは異なる何かが訴えかけている。
それは、「傲慢な全体主義への批判」ではないかと思う。
鑑賞の際、終局までは世界を引き換えに彼女を救うという選択肢がある、と考えもしなかった。
何故なら、自分の中に既に「1人を犠牲にしても世界を救うべきだ」という先入観が存在したと思う。
しかし、この一見に正しい価値観が通ったのは、その1人の犠牲という代償を払うのはあくまで少数であり(この映画では2人)、それ以外の多数派は実質、タダで世界を取り戻してもらったことになるからである。
従って、本作の一見納得できない主人公の選択は、主人公が思う社会の人々が持つ傲慢な全体主義、つまり世界が元通りになれば自分と関係のない1人が犠牲になってもいいという自分が損しない卑怯な考え方への反逆であると思う。
犠牲のリスクが個人に限定する「1人を犠牲にしても世界を救うべきだ」という全体主義は、多数派の利己的な考えで成り立ち、傲慢なものである。
自分はこの傲慢な全体主義に囚われ、主人公の立場でありながら(見ている映画はこの人が主人公だから自然にこの人の立場になる)、世界を引き換えに彼女を救うという選択肢を取れなかった。
だから主人公がこの選択肢を取ったのを「新しい」と思った。
この映画はこの「新しい」ことを我々観衆に訴えかけているのではないか。
だから映画の最後のあのセリフについて、許されても罪を感じるという王道より、我々観衆が持つ傲慢な価値観に反し、堂々と世界より彼女を選ぶという王道行かぬことを主張したと自分が思う。
何故主人公にとって彼女が世界より重いかについて、本作から申し上げることがたくさんありますが、新しくないので割愛します。
長文失礼。