「ある意味「風景描写((映像×音楽))」が主役の不思議な映画。」天気の子 japonesia do:さんの映画レビュー(感想・評価)
ある意味「風景描写((映像×音楽))」が主役の不思議な映画。
同時期に公開されている映画ドラゴンクエスト・ユアストーリーを観に行った際にポスターなどが目に付いて、このサイトにその感想レビューを書いている際にランキング画像などがまた目に付いて…、この『天気の子』も観てみることにしました。
エンターテインメント映画として受け取った場合には、新海監督の前作『君の名は。』よりも、感情表現に心を動かされたり、起承転結に一喜一憂したり、現代機器と物語構成の相関に感心したりといった面では、全てがぼんやり焦点が定まらない印象でした。ただ、自分は『君の名は。』の物語の着地点に不満をもっていましたので、その点に関しては『天気の子』のほうが納得できる、腑に落ちるものでした。そして、風景・遠景での美しい場面描写に関しては、今作のほうが圧倒的に良かった。しかも、そんな場面が数多くあり、それらを観賞・体験できただけでも映画館に足を運んだ価値があると思えました。不思議な美を、ありがとう!
主人公とヒロイン(2人の主人公と言ってもいいのかな?)が置かれている世代間格差や経済的格差における弱者としての状況、それらの犠牲を払って先進国・高度文明都市としての現状を維持しようとする現代日本・首都東京。特に若い女性を、表のアイドルなどの面でも、裏の風俗産業などの面でも使いつぶしつつ、それを直視しないか、そもそも無かったことにしつつ、消費社会を回転させている現実。そのような描写に関して、この映画がそのよう現代日本を批判しているという、他の人のレビューを読みました。私の両親は「団塊の世代」(≒作中訳書がチラッと映った村上春樹さんと同世代)で、ドラえもん・ドラゴンボール・ドラゴンクエストで少年期を過ごし、思春期にはZARDに憧れ…、もろにそのような消費社会の回転の真っただ中を生きてきました。この映画は、何かしらの犠牲を生みつつ回転し続けるそのような現代日本の消費社会(その象徴としての東京)を、意図的に厳しく批判・否定したような、そのような作品ではないと、私は感じました。むしろ、いろいろなものとタイアップしていることがもろに分かるようになっているし、コンビニで宣伝の音声がガンガン流れていたし、むしろ若い世代をその回転に巻き込んでいく役割すら担っていると思います。
この映画のストーリー面でのテーマは、そういうことではなく、「現代日本における<対幻想>のあり方」ということだと、私は受け取りました。「<個人の幻想領域>と<社会の幻想領域>は逆立する構造になっていて、その間に<対幻想>という領域が…」というのは吉本隆明さんの言説ですが、『天気の子』で行われているのはその現在進行形版だと思いました。私は、<個人幻想>と「メモ」、<対幻想>と「手紙」、<共同幻想>と「新聞・書籍」のように整理している時期がありましたが、前作『君の名は。』ではLINE的なSNSが主人公2人をつなぐものとして上手く活用されていて感心していたのですが、今作ではそれに相当するものが思い当たらず、このレビューを書き出すまでモヤッとしていました。書きながら、あえて絞るなら((映像×音楽))がそれかな…。と、いま思いました。新しい世代によって、新しい表現は無限に生まれてゆく、そこに希望がある…ということでしょうか。
ラストシーン。「大丈夫」というキーワードで、((映像と音楽))がつながり、2人がつながる。『君の名は。』から3年たって、LINE、You Tube、フェイスブック、ツイッター、ブログ、いろいろなメディアで、個人がアップした動画をみることが増えました。(いま周回プレイしている『隻狼 SEKIRO』というゲームでは、クリアするためには、激ウマの人以外は先行プレーヤーの攻略動画がほぼ必須で、とてもお世話になっています。)また、仕事でスカイプ会議は普通だし、ビジネス相手に音声データを加工してメール送信、などもやっています。男女・相方・家族の<対幻想>も、それで紡がれる時代なのかもしれません。そう思って鑑みると、自分の第一印象を「風景描写((映像×音楽))が主役の不思議な映画」だと感じたこととも整合性が取れますしね。
☆とにかく、機械の美しさと自然の美しさを統一して不思議な美しさを創出しようとした挑戦の領域は唯一無二です。その他の部分は、好みによると思います。丁寧な仕事に感謝!