「主人公とは… & 思春期とは」天気の子 2638さんの映画レビュー(感想・評価)
主人公とは… & 思春期とは
今回も開幕ポエムでボーイミーツガールでSF(すこしふしぎ)でしたね。「君の名は。」はその辺のポエム的な独白や台詞回しがぞわぞわして苦手だったので、今回もそうなんだろうなと思いながら見たのですが、やっぱり台詞回しは苦手でした。「決定的に、変えてしまったんだ…!」とか、ヒロインの名前連呼したりとか、そういう厨二的なものを大真面目に主軸にしている辺りが自分とはどうも合わないんだろうなと思います。この点については某建設会社のCMも同様なので、映画に限らず新海作品は全部そうみたいです。
逆に、レビューでよく聞かれる「スポンサーネタ多すぎ問題」は自分は平気でした。元々日常に溶け込んでるのと、その日常の再現性が高い美麗グラフィックだからでしょうか。
語られない部分が多すぎてモヤモヤした謎が残る件は、これも他の方からもたくさん声が上がっていますが、映画だとやはりそれ一本である程度しっかり納得して見終わりたいので、ストーリーのでっかいところに関わるような謎は残してほしくないと感じました。今回の場合、主人公が東京に家出してこなきゃ話が始まらないわけで、そこの理由付けは何でも良いんだけどちゃんと描いて欲しかったと思います。じゃないと作品が始まる理由付けがないからです。それなしに「犠牲」だの「知らないふり」だの「世界<君」だの言われても、それを訴えてる主人公の方がどんな人なのか(真面目で真っ直ぐという性格は分かったのですが)どんな価値観、不安、背景を持っているのかさっぱりなので、主人公というよりも「設定がそこそこあって目立ってるモブ」が中心になって動いているような感じがしました。
親と口論するとか、島で居心地悪そうにするとか、進路希望調査握り締めるとか、参考書投げ捨てるとか、大学案内の封切らずに机に放置してるとか、そういうちょっとした描写で良かろうに、何で無いんでしょうね。新海上級者にしか分からない何かがあったのでしょうか。「君の名は」でも実は最初から紐つけてるみたいなのがあるので、あったのだとしても「もっとアピって…」と思ってしまいます。
一回で分からないようにしてあるのは良し悪しですね。何度も通うくらい好きな人は良いでしょうが、「一回で全部分かってすっきりしたい勢」はあんまり居ないんでしょうか。
あと一つ気になったのですが、雲龍図のお寺はモデルがあるんでしょうか。専門家じゃないので滅多なことは言えませんが、800年前の禅寺か黄檗の雲龍図なら相当な文化財なのでは。
やはり今回も手放しで「好き!」とはならない作品でしたが、微エロお姉さんと平泉成さんとにゃんこで、とりあえず納得して帰ってきました。今回の微エロお姉さんは前のより好きだなァ僕ァ。
…翌日…
見に行ったのでレビュー解禁ということで、色々な方々のレビューを読んでおったのですが、やっぱりお若い方の方が高評価っぽいですね。お若い方々は自分が引っかかった「帆高さんは何が気に入らんで家出するとこまで行ったの?」というところをあまり気にしてなかったので、「今まさに同世代の人なら、もしかして言わずとも分かるのか?」と思い、その辺をちょっと考えてみました。
思春期の少年少女は何がそんなに不満なのか? 自分が子供だった時のことを思い出してどうだったかというと、「具体的に細々したむかつくことが積み重なって、その集合として気持ち悪さ、居心地の悪さ、不満、不安がある」という気持ちだったような気がします。細々した不満というのは「親の期待が重い」とか「自分の容姿が気にくわない」とか「敵わない存在がいる」とか「世界の在り様が自分の価値観と不一致で許せない」とか色々でしたが、仮にそれの一つが綺麗さっぱり解決されたところで、他にも気に入らないことはたくさんありました。これらの不満の「どれ一つ見逃すことができない」、更には「それを他人と共有するにふさわしい言葉で言い表すことができない」というのが、思春期の憂鬱だったのだろうかと、大人になって理屈を味方につけ、ちょっとだけ日本語ができるようになった自分は思います。帆高さんは「逃げ出したかった」とだけしか言いませんが、多分思春期の皆さんは、その一言で十分共感できるのでしょう。
しかし大人の皆さん、大人になっちまったら「理屈(言葉による説明)なしに不満を持つ」のは好まれる行為ではありませんね。「気に入らない」ことがあるのは全然結構。自分の価値観に照らし合わせて許容しがたいことがある、それは各々の価値観が違っているわけですから当然のことであり、それを「理性的に」表現することはむしろ、社会の中で必要な能力とすら言えます。所謂「生理的に無理」も、理論でもって考えれば「集合恐怖症」のような感性や心理の次元で考えることができます。そして理論同士の戦いに敗れた時、一部の人はやり場のない心情を漏らす手段として「芸術」を持ち出すこともあるのでしょう。大人になっちまった人々が穂高さんに感じていた「ちゃんと作中で説明せーや…」はこういうとこなんだろうなと思った次第です。
あともう一つ言いたいなと思ったのが、帆高さんの「世界<君」の決断についてです。これの対極にあるものを須賀のおじさんが言ってましたね。「一人の犠牲で世界が救われるならそれもまたあり」と。「世界>君」ですね。これを割り切った大人の残酷な考え方だと憤慨しているお若いのを見ましたが、「世界<君」だって同等に残酷ですよ。
世界という大多数の「誰か」の大事なものをたった一人のために(主人公らしからぬ主人公が)ぶっ壊したわけですからね。数の上で言うならそっちの方が愚かで残酷ですよ。「3年間降り続いた…」じゃねーよって話ですよ。何なら陽菜さんはその前にトラック爆破してますしね。水没に連鎖して死んだ人も一人どころじゃないかもしれないわけでね。描いてないけども。でも、その愚かさを取るほど、帆高さんは彼女が大事だったんでしょうね。こういう結末の作品も自分としては全然ありですし、その感動のための映画でしょうから、この辺のことを言うのは、分かって言ってますが無粋です。
それが世界というものなので、「セカイ系」を描くときにはこれは避けては通れない命題ですね。前作の主人公がカメオ出演するのが新海作品では定番になってきてるようですが、次は「世界のその他」側から、あの二人によって奪われたものの話を描いてみて欲しい気もします。(途中で失敗した気もしますけど)ガンダムSEEDみたいな感じで。