「フェアネスに貫かれた、醜くも美しい青春の幻影」天気の子 胡上奈生さんの映画レビュー(感想・評価)
フェアネスに貫かれた、醜くも美しい青春の幻影
これはきわめて私的な体験からくる感想にすぎないのだけど、穂高のようなことは誰でも一度は考えたことがあるんじゃないだろうか。
横断歩道の黒いところに足を入れたらマグマに焼かれて大ダメージを負うという類の妄想の、もっと儚く切実で美しい衝動からくるもの。
しかしその時の自分には、掴みどころがなくてよくわからない現実よりももっと確実な質感を伴って真実に近いと思えるもの。
そんな感覚は私的なもので、誰かと共有はできなくて、それでも自分自身にとっては一番身近で堅固な価値観になりうるのだ。
この映画のすばらしい点は、そんな感覚の輪郭をきわめて美しく浮き彫りにして見せてくれたところにあると思う。しかし、一方ではその描写が極めて精確・フェアネスであるがゆえに自分自身ですらも客観視してしまい、醜くて未成熟なものとも感じてしまうのだ。
例えば陽奈の不幸の原因・あるいは救いの原因となった天候操作の力は、作品世界ではおそらく確実に存在するのだろうけど、それが裏付けられることは結局はなかった。
大人たちはそれぞれが見ている世界観を前提として行動するし、失われてしまったあまりにも大きなものに対して、超常現象を引き起こしたとして主人公たちが責任をとれと糾弾されることもない。
主人公が実際に見て体験したものであっても、それが一部の登場人物にしか共有されていなければ、それは社会的には妄想と同じなのだ。
この理解を与えてくれたのはひとえに作中世界の人物たちの描写が無駄なくフェアネスであるためで、こんな作品は今まで見たことがなかった。
そして、僕は最後に再会する陽奈にとってすら、あの出来事が妄想として理解されているのではないかと恐れる。
穂高と比べて、陽奈はその年齢相応の、未成熟で流されやすい人間のように描かれていると思う。しかし流されながらも、一つひとつの瞬間にだけはしっかり人間としての喜び・悲しみ・恐れといった感情を受け止めるのだ。そのありようが、終幕時の穂高にとっては儚く頼りなく大事なものと感じられたのではないだろうか。そして、「僕達は」大丈夫だという言葉には、そんな陽奈を一生かけて守りたいという願いと、穂高たちにとっての体験が妄想として片付けられてしまうのではないかという恐れに対して「それでもいいじゃないか」と言い聞かせたい気持ちがあったのではないだろうか。そう思えてしまう。
いったい人々にとって何が真実で、何が虚構か、という問いかけは、この世界で何か大事なことを自分が果たすべきと考えて日々努めている人たちに響くだろう。それは本当に真実なのか。それともただの思い込みなのか。その人を助けなくても実は大丈夫だったんじゃないの?もっと楽をして生きればいいんじゃないの?
でも違うのだ、と僕は思いたい。自分が幼くて、醜い妄想によってひとりずもうをとっていたとしても、自分にとって美しいものを守りたいという気持ちはきっと、わずかでも誰かの支えになっているのだから。
そういう覚悟を呼び起こす感覚があって、僕は映画館の外で少し背を伸ばしたのだ。醜いよね。