「4回観たので感想と考察」天気の子 Garukoさんの映画レビュー(感想・評価)
4回観たので感想と考察
『天気の子』を4回鑑賞した。
5回目以降も鑑賞しようとは思っているが、せっかくなのでレビュー、考察をしようと思う。
ちなみに『君の名は。』では5回鑑賞したが、レビューする気にはならなかった。何故なのか自問自答していたが、天気の子を4回観て分かった。
1つ目は、君の名は。では、結果的に全ての人が救われるいわゆる丸く収まるハッピーエンドに対して、天気の子では世界を犠牲にして陽菜を救ったという賛否両論の残るエンドだったからだ。私はこの終わり方がとても好きだ。
「知らないフリ」をし続けて、大切なことから目を背け続けた大人達とは対照的に、迷わず大切な人を選び、階段を駆け上る帆高の姿には思わず涙した。(その際のRADWIMPSのなんと素晴らしき曲の入り方であることよ)
少し蛇足になるが、この「知らないフリ」も、物語のキーとなる要素だと思われる。考察の最後あたりに述べる。
2つ目は、天気の子では、作中に散りばめられている各々のシーンに意味が多数見受けられたからだ。そのシーンについて私が目についたものに限るが考察しようと思う。
1.帆高の家出
親戚の家に遊びに行くと須賀に嘘をついた帆高は実際は家出少年。理由は陽菜の家に訪問した際に述べていた。
「家も、学校も、息苦しくて」
また、警察が陽菜の家に来た際に帆高と帆高の父親の写真が映るシーンがあった。父親は髭を生やし、見るからに厳格そうだった。窮屈な家庭、窮屈な島で育った少年がある日体験したのは雨の中の光。その光の先を追いかけようと思いついたのは家出することだった。追いかけた先の東京ではチンピラに足を引っ掛けられるわバイト先が見つからないわで途方にくれてしまう帆高。3日間マク○ナルドのスープで飢えをしのごうとするが腹の虫は止まない。そんな時にバイトしていた陽菜にもらったハンバーガー。
「16年で一番美味しかった夕飯」と帆高は感じたのだ。
また、最初の帆高は顔に絆創膏を貼っていたが、あれは親との喧嘩の結果なのかもしれない。もしくは虐待をされていた恐れもある。これらの言動に基づけば、帆高が家出をしてきたのは最も合理的であると思った。
2.須賀の奥さん(アスカ)について
須賀の奥さん、アスカについて様々な考察がなされている。
とあるレビューの「アスカ=晴れ女」説は私は肯定する。
『天気の子』では、全般的にキャラクターの言動がそれぞれ鍵を握っていると思われる。この説では須賀が鍵だ。
須賀はしきりに指輪を触っていた。そのシーンは、(私が覚えている限りでは)晴れを依頼して陽菜と帆高の間に座ったシーン、酒を飲み「みんなそうだろ」と言い放ったシーン、刑事に問われ「俺に言われても」とぼやいたシーンなど。これらのシーンはどれも、『晴れ』や『逢いたい人』に纏わるシーンばかりだ。晴れであることと、指輪を触ることに何の因果があるのか。
それはアスカが実は晴れ女で、人柱としてこの世を去ったということに関係があるように思われると感じた。人柱としてこの世を去り、残された須賀は後悔の念に駆られてはいたが、これが大人になる事であると自身で言い聞かせ、そして次の自分になると思われる帆高にも「大人になれよ」と言い放つ。須賀の言う「大人」とは一体何なのだろうか、私は「誰にとっても良かったと思われる人になる事」つまり「自分の主張を捨てる人」になる事だと思った。
大事な人より世界を選んだ須賀と世界より大事な人を選んだ帆高の対立は胸熱だった。結局は須賀が、逢いたいと叫ぶ帆高に心を突き動かされ、捕まりかけた帆高を助けたシーンは本当に泣きそうになった。
作中の須賀の言動だけでアスカの正体が本当に晴れ女か完全に証明することは出来ない。何故なら、これは「須賀の物語」ではなく「帆高と陽菜が世界の形を変えた物語」であるからだ。作中の須賀の言動はあくまで「須賀の物語」の一部であるため、その数少ない言動だけで決めつけるのは難しいと思う。だが、証明が出来ないということは反対にそうではないとも言い切れないので、私はこの説を推す。
3.水の魚の正体
魚の形をした水を覚えているだろうか。陽菜の体に纏っていたあの水の魚のことだ。水の魚の正体についてふと感じた。あれは一体何なのだろうかと。
私は『歴代の犠牲となった巫女達』説を提唱する。
というのも、帆高と夏美がツイッターを見ているシーンで、『中に内臓の器官のようなもの』と呟いているツイートがあった。これはもしや、人柱として天に召された巫女達の身体から、あの水の魚達は出来ているのではないかと考えた。そう考えると少々グロいが、あり得なくはないと思う。
4.陽菜が助かったのは本当に帆高のおかげ?
帆高が彼岸に行き、陽菜を見つけ出し2人で逃げ出したことで陽菜を人柱から解放し、救い出した結末。陽菜が助かったのは帆高のおかげなのか、そもそも帆高は何故彼岸に行けたのか。
3回目までは私は帆高が救ったと信じて疑わなかったのだが、4回目を観たときにアレ?と思った。
2人が鳥居で倒れているシーンで、陽菜のチョーカーが割れているではないか。あのチョーカーは元々陽菜のお母さんのものだったと思われる。というのも、最初の病室のシーンで、陽菜の母親の手に、今の陽菜がチョーカーとしてつけていたアクセサリーがつけられていたのだ。その頃の陽菜の首にはチョーカーはついていない。つまり、母親を亡くしてから、陽菜はあのチョーカーを着けるようになったのだと思う。いわゆる形見である。
また、立花家に晴れを届けた際に、冨美ばあちゃんが初盆について話した時に、「お母さんに守ってもらえるよ」と言ったあのシーン。あのシーンに意味を持たせるとするならば、いや、新海監督ならきっとあのシーンに意味を含めているだろうと感じた私は1つの結論を導き出した。陽菜が人柱を回避できたのは、『母の守りがあったから』である。立花家のおかげで初盆を迎えることができた陽菜は母親に守ってもらうことが出来たのだ。その媒体となるものが形見であるチョーカー。役目を終えたチョーカーは世界に帰ってこれたときに割れたのだ。
では帆高は必要なかったのか?と言われるとそれは否定したい。帆高は世界で唯一陽菜に会いたいと強く願った人物。(凪は置いといて)そんな帆高の目の前に落ちてきたのは、つい先程、陽菜にプレゼントした指輪。この指輪が、帆高を彼岸に連れて行ったキーアイテムと思われる。
そもそも、空へ行ってしまった陽菜がチョーカーは落ちず、指輪だけ落ちて行ってしまったからにはそれなりの理由があると思う。
(もらって日が浅いため、天に持ってこれたものの陽菜の所有物として結局認識されなかった。など)
何にせよ、指輪は一度天に行ったのだ。それが、帆高が天に行けたことと繋がると思われる。
本来、人柱として巫女だけしか、つまり女の人だけしか行くことができない天に、帆高が行けたのは、陽菜が天へ持って行った指輪が入場券のような媒体として働き、辿り着くことができたからだと思われる。もしあそこで帆高が指輪を持たないまま鳥居をくぐったら、何も起こらずに熱血刑事に顔面床ドンされてまた血塗れになってたんだろうなと感じた。
どうあれ、帆高は指輪のおかげで天に行くことができ、人柱として身を捧げようと諦めた陽菜を救い出す逆転劇を行うことができたのだ。
5.帆高の言い放った「知らないフリ」
追い込まれた帆高が銃を向け、「皆何も知らないくせに……知らないフリして!」と言い放つシーンを覚えているだろうか。
このセリフこそ、作中の自分達以外の人間(つまり"オトナ")への最大の反抗、皮肉だと思う。
須賀の奥さんの母親の「現代の子達は可哀想。昔は春も夏も素敵な季節だったのに」も、須賀の「ま、人柱一人で世界が救われるってんなら、俺は喜んで〜〜てか、皆そうだろ」も、刑事からの質問にも。
もちろん刑事は陽菜のおかげで天気が戻ったなんて考えもしないし、須賀の養母だって同様だ。
そうやって"大人達"が知ろうとせず、目を背け、知らないフリをし続けた結果が、この世界なのだという現代の大人達への反逆を示唆した台詞が、帆高のあの台詞なのだと思う。
6.瀧と三葉
これはほぼ余談なのだが、瀧と三葉は果たしてこの世界線で出会っているのか、考察をした。
終盤で帆高が立花家に再び訪問した際、冨美さんの右腕に注目してほしい。組紐のようなものを手に巻かれていると思う。これが、もしも三葉、もしくは瀧からのプレゼントだとしたら、三葉と瀧は出会っていて良好な関係を築いているのだと私は思っている。
様々な考察を述べたが、この考察が合っているかはどうでも良くて、言いたいのは天気の子は、ちょっとしたシーンが実は深い意味があったり、結末に賛否両論あったとしても大丈夫なんだってこと。
とても味わい深い映画だった。
5回目以降と観ようと思うので、また考察が変わってしまうかもしれないがそこは追記しようかと思う。
陽菜の晴れ女の力は、狭い範囲で短時間。東京を壊滅させるほどの自然災害を制御できる能力ではない。だとすれば、世界を変えてしまったというのは、主人公の思い込みだろうか?
陽菜が、晴れ女の力を受けた場所は、ちいなさ末社。神格を考えても絶対的な力を授かるにはそぐわない場所だ。
世界が元々狂っていて、それにあがなって、力尽きようとしていた陽菜を、穂高が連れ戻した。
もし、あのまま陽菜が犠牲になっていても、わずかな晴れの後に、再び雨が続いたように思える。
前作では、神秘的な導きで山村の住人を救えても、隕石の落下は防げていない。
この世界観なら、中学生一人の命と引き換えに、関東全体を襲う破滅的な降雨災害を防げるような、甘い設定ではないと思う。
また、彼女が逃げ出したことで、被害が壊滅的に拡大したとも思えない。
帆高は島に戻り、陽菜も、高校に進学したらしい。降雨災害で沿岸部が水没しても、東京は健在て、多くの人の営みが続いている。世界は何もの変わっていない。