「『代償』の存在する世界」天気の子 むとうななさんの映画レビュー(感想・評価)
『代償』の存在する世界
映像美、音楽、声優(俳優)さん達の演技、ストーリー。それぞれ総合した点数ですが、この場にはストーリーに対する感想(というか極めて個人的な考察)を書きます。
前作『君の名は。』はとても好きな作品です。しかしひとつ引っ掛かったのは、瀧くんと三葉が行った現実改編には代償が伴わないんだな、ということ。
起こってしまった悲劇を、過去に遡るなりして無かったことにする。比較的ありふれたストーリーだと思いますが、同時にこういった物語で描かれがちなのが『現実を作り替えたことによる代償を支払わされる』という展開だと思います。
現実を生きる私たちには、過去に戻ることも、犯した過ちを無かったことにすることもけして出来ません。『やり直すことが出来ないからこそ、今を必死に生きなければならない』というメッセージの裏返しとして、こういった展開は描かれるのだろうと思います。
今作『天気の子』もまた、起こってしまった悲劇を無かったことにする物語です。それも隕石落下のような誰の過失でもない自然現象ではなく、主人公の選択の結果として起こる少々自業自得にも思える悲劇をです。そしてこの現実改編には、大きな代償が伴う。しかもこの代償を支払うのは、主人公やヒロインではなく世界全体です。
主人公とヒロインの選択により、失われた『普通』の東京。今日結婚式を開く誰かのため、花火大会のため、喘息に苦しむ子供のためにも晴れていなければいけない東京の空が、もう永遠に晴れない。では、帆高の選択は誤りだったのか。彼らは自分勝手な選択をしたのでしょうか。
そうではなく、私はそもそも『普通の東京』こそが普通ではなかったのではないかと思いました。瀧くんのお祖母さんが言っていた通りです。元々沼地だった江戸を誰かが干拓し、造成して今の東京を作り上げ、それがいつの間にか『普通の東京』になったように、私たちが胡座をかいて『普通』と思っている全てが実は普通などではないのではないか。普通を成立させるためには、影に誰かの努力があり、犠牲があるのかもしれない。けれどそれが想像されることはほとんどない。
ふと思い浮かんだのが、かなり毛色の違う話にはなりますが、24時間営業コンビニについての労働問題です。働いている人がもう無理だと声をあげなければ、私は夜中も開いているコンビニをごく当たり前のものと思って生きていただろうし、それを成立させる苦労も知らずにそれが普通だと思っていた。
それと同じように、もしかしたらあの世界でも、ここ百年あまりの人間にとっての『普通』を維持するために、毎年陽菜のような生贄が捧げられていたのかもしれません。
人知れず生贄に選ばれた陽菜、彼女は前科者になってでも(あるいは殺人者になってでも)自分を引き留めようとする帆高がいなければ、きっとこの世界には帰ってこられなかった。何かの犠牲にされるとき、人が一人でそれに立ち向かうのはとても難しい。
たった一人の犠牲で普通が維持されるならむしろ大歓迎。須賀がそんな意味のことを言っていました。酷いことを言うなと思いましたが、しかし冷静に考えてみれば、現実も大体同じように回っている気がします。青い空の見える世界が普通、それが維持されないとみんなが困るとなったら、少しくらいの犠牲は仕方がない、あるいは当然のこととみなされる。
身近な誰かが晴れ女になってしまったとき、永遠に『普通』が訪れなくてもあなたが幸せならそれでいいと言える自分でいたい。けれど同時に、もし自分に須賀のように喘息で苦しむ娘がいたら。誰かの犠牲を黙って見過ごすのではないだろうか。
自己責任論が声高に叫ばれ、自分のしたことの責任は取れと強いられるわりに、自分ただ一人のためだけに生きることも許されないこの社会で、見えない人柱に気付くということ、せめてそれを想像しようとすること。その必要性を、私はこの映画のテーマとして受けとりました。