「セカイの見方が変わる映画でした」天気の子 namiさんの映画レビュー(感想・評価)
セカイの見方が変わる映画でした
以下ネタバレを含みます。
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冒頭、島育ちの少年が「光」を追って家出し東京へ出る。
この少年の生い立ちや心理について描写は少ないが、あえて「外へ出たい」「光が指す世界を目指したい」
という抑圧からの開放を求める若々しい希望のみを感じさせてる。これは思春期誰しも少しは感じたことのある感情に近い。
そんな少年が出てきた東京の実際は
新宿の雑踏・池袋のラブホ街などおよそ光とはほど遠い薄汚れた世界である。
やけにリアルに描かれた街並からは、人が作り上げた世界の混沌や狂いを感じさせる。
また警察・児童相談所・子供と引き離される親・就職で同調を求められる女性・チンピラとの絡みなどの描写からは感情のまま動くことへの「抑圧」「障壁」のイメージを持つ。
対して少年の女性に対する新鮮な反応や、貧しくはではあるがこの上なく美味しそうな食事は、人の持つ本来の感情の瑞々しさが表現されている。
少年から見て「光」となるのは100%の晴れ女の少女との出会い。少女のチョーカーは彼女の力を表すアイテムであろう。
彼女は少年との関わりを通して「人々は晴れを願っている」「能力は人の役に立つ」と自分の役割を意識する。
一方で少年は彼女に惹かれ、愛情を持つ。
その後、少女は東京に襲いかかる災害を自分が「人柱」となることで回避できるのだと知る。
自分の役割を意識しながらも、15歳の少女に葛藤が無いはずがない。しかし彼女は人々の生活と少年の何気ない返事から自分が犠牲になる選択をする。
少女を犠牲に東京は晴れた。人々は喜んだ。
人々の夢の中には「晴れ女」が空に登っていく姿が映された。
人々は何も知らず喜んだように見える。そうではない、人々は大勢の幸せのために、犠牲になる「誰か」の存在をなんとなく感じているが無視しているのだ。
従来この世界では大勢の利益のために個人犠牲とする選択を重ね、またそれを美徳とする意識が根付いている。
大勢の犠牲を出してでも個人を守る行動を悪とさえ認識してしまっているのだ。
だからこそ、少女を取り戻したいとする少年の反社会的で非常識な自分勝手な行動(警察から逃げ出す、銃を向ける、線路を走る)を理解できず批判し、少年に感情移入出来ない。何故ここまでの行動をとるのか?
異常気象で人々が困る選択で良いのか?と。
映画自体に賛否が分かれているのはおそらくこの部分であり、新海監督はあえて共感出来ないような描写を入れているのだと感じた。
共感できない方は是非もう一度考えて欲しい。少年と少女の純粋な気持よりも大勢の利益や社会の秩序を意識した自分がいる事を。そしてこの部分がいわゆる”大人”である須賀の人柄に集約されている。
少女を取り返したことと引き換えに、東京は水に沈んだ。雨が降るのは少女のせいか?
そうではない。世界はもともとそう創られていたのだと占い師や神主へのインタビュー、夫を亡くしたおばあさんの話から汲み取れる。
そして水に沈んだ東京でも、人々はやはりそれなりに対応し生活を続けることが出来ている。
3年間、少年は自分の選択がセカイの形を変えてしまったと罪悪感に苛まれ彼女に会うことを躊躇する。なんと言えばよいのか分からないのだ。
東京は海に沈む運命にあったんだ、人は生活しているから気にすることはないよ、と少女への言い訳めいたことを考えながら再び会いに行く。
しかし坂の上で祈る少女と再会するとそんな考えは吹き飛んでしまう。
ただ愛する人が生きてそばにいる。セカイは確かに変わったけれど、
自分たちはこれで「きっと、大丈夫」なのだと確信したのだ。
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自分が純粋な感情を無視できるようになった(この映画いう「大人」になった)からこそ、考えさせられた。
本作は個人を犠牲にし集団の利益を優先している心理、そして純粋に人を愛することに障壁がある現代を表した作品であったように思う。
私達が住むこの混沌としたセカイと水に沈んだセカイのどちらが狂っているとするか。感情を無視し「常識」へ順応することと、愛する人のため周りを見ず駆け抜けることのどちらが狂っているのか。
もう一度見て、考えたくなる映画でした。