「真実追求のドラマと云うより、自己愛が強い私映画のフィクション」新聞記者 Gustav (グスタフ)さんの映画レビュー(感想・評価)
真実追求のドラマと云うより、自己愛が強い私映画のフィクション
内閣情報調査室に配属された元外務省官僚の杉原拓海と東都新聞社会部記者吉岡エリカが、ウイルス研究のための大学新設計画の機密情報をリークする社会派フィクション。権力の不正告発の制作姿勢の映画としての切り口は興味深いも、荒唐無稽な生物兵器の為の特区申請に絡む内閣府の闇とする思い込みが能がない。内閣情報調査室の実態にリアリティがないことも、映画の説得力を大いに削いでいる。また、”官邸権力と情報メディアの現在”という劇中座談会をドラマに何度かインサートして、原案者の望月衣塑子氏と元文科省官僚前川喜平氏の発言を引用する表現が、フィクションとして潔くない。真実追求のドラマリテラシーではなく、自己愛の強い自意識過剰な個人映画に終わっている。故に、松坂桃李とシム・ウンギョンの思い詰めて泣くシーンや、ラストの立ちはだかる権力に悩み彷徨う姿に、感情移入することは出来ない。
官僚の利権と天下り、一部政治家の政治資金の流れ、フェイクニュースで世論操作するマスメディアなど、映画として表現すべき社会派テーマは幾らでもあるのに。ウイルスで云えば、2020年に中国から世界に拡散したコロナウイルスの文明破壊の社会問題が発生した。医療と対策の観点で、細菌学に特化した医学部の新設が国家に求められているとすれば、荒唐無稽だけは訂正しなければならない。
日本アカデミー賞を否定する訳ではないが、日本映画の凋落は予想以上に進んでいるようだ。
頭のいい人ほど嘘がうまい。嘘がうまい人ほど騙せる。うまく騙せればお金儲けができる。映画も世間と同じようなもの。フィクションに騙されて、思わず感動できる新作日本映画に巡り合いたいものです。
これまでの時代の価値観で大まかに系統立てるとすれば、初期の古典的な映画の評価基準のプライオリティが”良いか悪いか”だったのが、アメリカニューシネマを経た1980年代に終わったと視ています。社会が成熟して映画表現の多様化が進み、人其々の価値観が許される時代では、”好きか嫌いか”が映画鑑賞の最優先になりました。それが更に進んで21世紀ではその人にとって”気持ち良いか悪いか”が発言出来る自由な時代になったと言えます。その表れとして、1996年の周防正行監督の「Shall We Dance?」の中で若い女性がダンスパートナーの竹中直人役に、はっきりと気持ち悪いと言って嫌悪感を露にするシーンがありました。気持ち悪さをユーモアに転化した竹中氏の演技力と個性で見逃しがちですが、個人的には衝撃のシーンでした。
現在では、リアリティとその共感性が映画鑑賞の最も大事な要素になっているのは明らかです。但し、今まで信じられてきたマスメディアの嘘=(フェイクニュース)が蔓延しては、虚構の世界で想像力を楽しませる映画の見方も変わらざるを得ません。これまでもフェイクニュースが無かった訳ではなく、それらが秘密のベールで包まれて社会が成り立っていただけに過ぎないのかも知れません。SNS含む情報過多のこれからは、何を求め信じるかの個人の選択の重要性が増していくばかりと思います。
ハッキリ言えば、この映画の主人公のモデルは魅力的ではありません。50年以上映画を観て来て一番良かったことに、人に騙されなくなったことが挙げられます。地位や経歴、その他社会的にどう評価されようが、自分の眼で判断できるようになりました。いい俳優の台詞や表情を優れた監督の演出を通して考える、これが映画最大の美点ではないでしょうか。
また今のマスメディアの嘘が減らない限り、リアリティの追求に醍醐味は形成し辛いのではと考えます。日本のテレビドラマがここ二三年で一気につまらなくなったのも、それに起因していると思います。
つまり、この映画「新聞記者」は、共感性の点でもリアリティの点でも評価できないという事です。最も評価しているのがマスメディアの片隅にもいる映画界という皮肉に、ある種の無念さも感じてしまうのです。