「二階堂ふみは素晴らしい」人間失格 太宰治と3人の女たち 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
二階堂ふみは素晴らしい
鑑賞前に「人間失格」と「斜陽」を読んでおいてよかったと思う。いずれの作品も不明なことは不明のまま物語が進む。現実との整合性や科学的な根拠などを調べることなく、作家は自在に言葉を紡ぐ。科学や現実よりも自意識が大事なのだ。特に「人間失格」では、大いなる自意識が主人公を苛み、自棄的な行動へと追いやる。
20世紀を代表するイギリスの詩人ウィスタン・ヒュー・オーデンは「小説家」という詩の中で次のように書いている。
詩人たちは軽騎兵のように突進するが、
彼は子供くさい天分を惜しげもなく振り落し、
平凡、老拙の道をひとりで歩まねばならぬ、
誰も振り向いてくれない者にならねばならぬ。
(深瀬基寛訳)
映画の太宰治はオーデンの詩のように、意外に普通の人間である。小説家だから自意識は強いほうだし、小説の中の主人公たちはいずれも否定しているが、世のパラダイムに対するルサンチマンもあるだろう。世間に何の借りがある、おとなしく従ってたまるか、だいたい世間なんてそこらへんにいる人間のことじゃないか、という思いがあるに違いない。そういう弱さの中の強さみたいなものが作家を支え、作品に向かわせた。
映画では、高良健吾が演じる三島由紀夫に世間を代表させる。三島はパラダイムを自分で主導して国家を自分の考えるあるべき姿に導こうとした人で、太宰とは対極にある存在だ。世間に背を向けて書きたいものを書き、生きたいように生きる太宰が許せなかったのだろう。三島が全力で太宰の生き方を否定する場面は、世間が太宰を否定することを象徴する場面である。そして太宰が笑い飛ばしたのは三島ではなく世間なのだ。
太宰は自分に小説の才能がなければ、ただの落伍者であることを自覚していた。その虚無的な感じが女性に何らかのアピールをする。「人間失格」の主人公と同じように次から次に女性にモテるのだ。そして生活力も経済力もない太宰は、女性に頼って生きる。まさに太宰は女性に支えられて作品を紡いだ作家なのである。映画の副題はその辺を表現していてなかなかいい。
二階堂ふみは素晴らしい。初対面の太宰から手を握られ、激しいキスをされて、それだけで身も心も溶けるような恋に落ちてしまう女というものの弱さと、すべてを捨てて太宰を守ろうとする強さの両方を表現する。女は弱い、そして女は強い。山崎富栄はそれを地で行くような女性で、この難しい役を二階堂ふみは演じているふうでもなく演じてみせた。
宮沢りえの美知子夫人はもう少し若い女優のほうがよかった。他の若い女性たちとのバランスが悪くて、どうしてこの人をキャスティングしたのかわからない。演技は悪くなかったが、肉感に欠ける。
沢尻エリカだけが作品の雰囲気から浮いていた。この人のキャスティングもやや疑問。実際の太田静子はもう少し奥行きのある女性だったと思う。
小栗旬は偉い。相手役の如何に関わらず、太宰という稀有の才能を演じきった。主人公は酒に溺れ女に溺れ、のべつ幕なしにタバコを吸う生活をしているが、どこか自分を鳥瞰しているようなところがあり、決して声を荒らげたり暴力を振るったりすることがない。妻の美知子が結婚前に太宰の小説を読んで「自分で自分をついばんでいるようだ」と感じたように、太宰は自分を突き放して生きる。現実は人まかせ、女まかせなのだ。
太宰が小説を書けたのは、荒れた生活とはあまり関係がない。それは彼の才能であり、小説はどこまでも小説家の想像力によるものだ。作家は作品によってのみ評価されるべきで、川端康成が太宰の私生活を批判したのは川端の狭量と嫉妬のなせるわざだと思う。世間のパラダイムと自分の存在の乖離に悩む太宰にとって、薬に浸ることも酒を飲むことも女に溺れることも小説を書くことも皆同じことである。書かずにいられないから作家になった。でなければただのヤク中でありアル中である。弱い人が自分の弱さをさらけ出すのは勇気のいることだ。とてもシラフでいられない。
本作品は演出がやや過剰なところも散見されたが、小栗旬と二階堂ふみが作品の支柱となって、太宰治という作家の人となりを存分に表現した傑作だと思う。