「犬の子」金子文子と朴烈(パクヨル) いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
犬の子
相当の侮蔑語らしく、シャレじゃ通じない語彙とのことで、これを詩の題材にする程のかなりヤンチャな人物だということは容易に想像出来る。作品中の何処までが史実に則っているのか、フィクション部分がどこなのかは分らないし、多分どちらの国が制作しようとそこに恣意が入るのは仕方がない。それは政治云々とは関係無く、ナショナリズムの根源たる『間違いとは思いたくない』という人間の性分がそうさせているだけである。この思いに囚われている限り、人間は絶対に進化しない。そんな諦観に支配されながら、本作を鑑賞した。少なくとも此方の国で上映できたという事自体が進歩したのだというほんの爪先程の移動に拍手を送りながら。
南海トラフ地震の予想を鑑みるほどもなく、常に地震の恐怖と隣り合わせの日本に於いては、その壊滅的打撃の不安やネガティヴな想像が至極当たり前に蔓延している。そしてそれを利用して権力は国民を統制し、意のままに操ろうと模索する。左右関係無くだ。第三の道である、無政府主義ではどうか。そもそも類人猿の頃に回帰できるのだろうか?まぁ、現実的では無い。彼や彼女のような焦燥感に駆られる、薄幸な青年達が幾ら勇気や自命を投げ出しても権力は反省しない。国家転覆など夢物語だ。
暗澹とした気分に苛まれながらも、今作品の注目すべきは金子文子役の女優の存在であろう。頭脳明晰さと均整の取れた容姿、そして努力を弛さない真面目さが表情に表われ、瑞々しさが零れる演技であった。勿論キュートな仕草も作り物とは思えず、イメージとしては仲間由紀恵の凛々しさと清々しさを大いに感じさせる。日本人が使う韓国語の辿々しさをきちんと日本人にも分るように表現する技術も舌を巻いた。その器用さも今後の活躍を裏付ける担保となるであろう。一時でも日本での活躍を熱望したいものである。
さて、幾星霜を経ても差別は無くならず、その意識を押し殺すことさえ出来ない我々は、何故に存在しているのだろうか・・・写真に一緒に写る二人の頓チキなポーズ、そして谷村新司ばりの左手の乳房への位置、あの自由さを羨ましいと思うほか有るまい。