「都会の排泄物」ばるぼら kossyさんの映画レビュー(感想・評価)
都会の排泄物
父親の偉業を越えることができないジレンマ。誰にだってあることだろう。最初に愕然としてしまったのは手塚眞が父の『ブラックジャック』の監督を見たとき。遺産でもある手塚治虫作品を丁寧に扱おうと、ただストーリーをなぞってるだけのような、そんなイメージを持ってしまった。真似をしなくてもいい。もっと自分の才能を別の作品で開花させてほしいと願ったものだ。それが、この作品でようやく父と並んだ!と評価してもおかしくないほどの映画。
ところで、“ばるぼら”って何?と、手塚作品の中でも読んでないものがあった!
ジャック・スパロウの悪役海賊?それはバルバロッサ!
オスカルとアンドレの?それはベルばら!
タガログ語で浮気者?それはパロパロ!
Eテレの番組?それはバリバラ!
書いてることがバラバラになりそうなのでやめときますが、英語表記ではBARBARA(普通に女の子の名前)、ギリシア神話の知的活動をつかさどる女神の姉妹の末っ子の名だそうです。美倉洋介のスランプともいえそうな状態から知的な部分を引き出してくれる存在となっていく様子はそのままだったのです。
しかし、女神らしからぬ超能力(?)によって洋介に人形や犬が美女であるかのように幻覚を与えたり、洋介自身もアル中にさせたり、大麻使用で逮捕させたり・・・なんだか、あげまんのようであり、さげまんのような存在でもありました。
特にシビアだったのが人形に針を刺して呪うという行為。一瞬佐藤浩市か?とも思った政治家と一瞬仲間由紀恵か?と思った娘とのしがらみは、結局は彼にとって良い方向に向かったと言えるが、熱心な担当者・石橋静河にも使ってしまうとは・・・
耽美的、悪魔的な世界観もあり、ドロドロした堕落的描写もあり、この点では成功しているし、厭世的な思考へと変貌する洋介の脳内ワールドも感じ取れた。最後はもうネクロフィリア。所詮は都会の排泄物としてしか存在意義がなかったかのように、芸術そのもの、いや人間そのものをも否定するかのような結末に打ちのめされた。それよりも渡辺えりにもムネーモシュネーという役名(ギリシア神話の女神名)があったとは・・・おっかさんじゃなかったのね。