「苦悩する芸術家の精神世界か、魔女に魅入られた男の地獄絵図か、どっちつかず!」ばるぼら kazzさんの映画レビュー(感想・評価)
苦悩する芸術家の精神世界か、魔女に魅入られた男の地獄絵図か、どっちつかず!
評価の難しい映画だ。
美術性を好評価するか、劇映画としての内容を酷評するかだが、ヴィジュアリスト手塚眞の本領が発揮された作品だとは言える。
学生の頃、手塚眞が撮った学生映画の観賞会に行ったことがある。40年近く前の話。
上映前に手塚治虫が登壇し、その映画を製作中の息子(眞)との会話で、芸術家の言葉だと感心したというエピソードを語られていた。
大林宣彦に刺激を与えたほどのアマチュア映画作家だった。
映画の頭で手塚治虫生誕90年のロゴが映し出される(生誕90年は2018年)ので、記念作品なのだと思う。
その記念に手塚マンガのなかでも特異なこの作品を選んだのは、手塚眞の理知的で気取ったセンスなのだろう。
この摩訶不思議な物語を譚美的とも退廃的とも言える雰囲気で映し出しているのだが、都会の猥雑さの表現も、イメージショット的な編集も、前衛ジャズのようなBGMも、実は70年代に使い古された手法ではないか。廃材置き場のデザインもどこかの演劇で見たセットのようだ。
進化形の映像美で再構築してみせてはいるが、手塚眞と同世代にとっては既視感を抱くのは否めない。
流行作家である美倉(稲垣吾郎)が、街で拾った謎の女バルボラ(二階堂ふみ)との関わりによって人生を翻弄される。
美倉の幻想に現れるマネキン女に作家性を揶揄させたりして、作家としての迷いが美倉にあることを示唆してはいるが、彼の創作の苦悩はあまり重要視されていない。
バルボラと出会ったことで成功を得て、彼女を失ったことでスランプに陥ったという描き方ではなかったから、美倉自身がバルボラのことをミューズだと言っても、芸術の女神らしい効力は示されていない。
むしろ、美倉がバルボラの虜になったのは肉体的快楽によるものだと思える描写だった。
元々スランプ状態だった美倉の心の隙に入り込んだ魔性の女としてバルボラを描きたかったのだとしても、呪い人形やアングラな儀式などのせっかくのアイテムが未回収で、黒魔術的なバルボラの背後も説明がないから、二人の逃避行の理由も解りづらい。
…山道で車がエンストするなど、いつの時代かと驚いてしまった。
映画オリジナルでマネージャー(?)(石橋静河)の設定を追加しているのに、彼女の扱いが中途半端だった点も残念だ。
芸術家の創作の苦悩をテーマから外してしまっているので、原作の「大団円」(後日譚)はカットされているが、マネージャーを絡めれば、美倉が死の淵で書きなぐった遺作を活かしたエピローグにできたのではと思う。
二階堂ふみの裸に☆一つ献上‼️‼️‼️