「ドイルは芸術のミューズをこんな風に撮る」ばるぼら momoさんの映画レビュー(感想・評価)
ドイルは芸術のミューズをこんな風に撮る
漫画界で先頭を突っ走っていた手塚治虫もどんどん周りの漫画家が売れてきて悩んでいた時があったのかもしれない。
火の鳥とかブッダとか芸術性の高い作品が生まれた背景には苦悩の時期もあったのではないかと思いを馳せた。
手塚眞監督は、天才の息子でありながら天才肌だと思う。普通は天才の息子は天才じゃないんだけどなあ。
デパートのマネキン女は、大衆におもねる作品だから好きだという。なんも考えなくていいしなんも残らないと。大衆とは、つまり血の通わない冷たいマネキンだ。飽きたらそっぽを向く冷たい存在なのだ。
代議士の娘は文学界での地位と名誉と金を与えてくれる。代わりに犬になった女にぺろべろ舐め回される事に耐えられるのか…
二人三脚で頑張ってきた編集者の女は雑文でも書いて安定をとか、ビーフストロガノフでも食べてと体の健康や家庭的な愛情を押し付けてくる。
手塚治虫は大衆におもねることもしたくないし、地位や金や名誉もいらないし、家庭を営む安定のための雑多な仕事もしたくなかったのかもしれない。
それらを全てぶっ壊しに来てくれる圧倒的な存在がばるぼらだ。
一見汚いアル中のフーテン娘ように見えて、彼女だけが芸術に向かわせてくれる。
作家が芸術の女神に魅せられ追い求める姿は手塚治虫の願望なのではないか。
よくホラー映画に出てくる藁人形も怖いけど、この作品に出てくる麻薬人形も怖い。手塚治虫の願望通りに全てを破滅に追い込む。
夢か現かわからない映像は、人の心の迷いを映し出してゆく。
稲垣吾郎、二階堂ふみという素晴らしいキャストを、クリストファー・ドイルの撮影でいやらしさを感じさせないで美しく撮りきった。
ばるぼらがさす透明オレンジのビニール傘に雨が降るシーンが素敵だ。二階堂ふみが着ると肩の破れた浮浪者のトレンチコートがまるでヴィヴィアン・ウエストウッドのデザインで計算ずくで肩に穴を開けたコートにさえ見える。
空や木々や光が美しい。歪んだ風景も、新宿の薄汚さも、エロティックなシーンも全てスタイリッシュに見せてくれる。さすがはクリストファー・ドイル!
ウォン・カーワイ監督作品のカメラワークで観る香港の風景も好きだが、日本の風景をドイルはこんな風に撮影するのかと鑑賞中、ずっと嬉しかった。
原作を今の時代に置き換えることはあっても大事なエピソードを大きく端折ることも無く内容的にはわりと忠実だった。
時代背景は現代の新宿になっていてスマホもでてくるけれど、世界観は確立できているので気にならない。
特に渡辺えり子のばるぼらのお母さんは完コピでコミックから出てきたみたいですごい!
人は水なしでは生きていけない。
お茶でもいいし、ばるぼらのようにウイスキーラッパ飲みでもいいけどみんな、何らか飲み続けて生きている。
ではどうやって飲むのか。
毎日お金の力でペットボトルのお茶やコーラや缶ビールや色々なものを買って飲んではポイと捨てる人もいるし、愛着を持って毎日お茶を沸かし、使い続ける水筒の飲み口に愛着を持ってしまう人もいる。
相手はいくらだっている。
と財力もあり女も取っかえ引っ変えの作家は思っているが、
いくらでもいるってことは誰もいないってこと。
とばるぼらに言い放たれる。
やがてばるぼらは作家にとって、唯一無二の大切な水筒になっていったんだなと思う。
もうばるぼらしか要らないんだ。
ばるぼら自身はお茶さえいれられない。お湯を沸騰させたまま消えてしまい自分はウイスキーを煽っている。
そんな芸術の女神はたくさんの男たちから愛されている。
女神を自分だけのものにしようとすると待っている結末は一つだ。