「手塚治虫の優しさなのかもしれない」ばるぼら 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
手塚治虫の優しさなのかもしれない
二階堂ふみは今や日本を代表する若手女優である。最初に注目したのは映画「脳男」で、当時19歳ながら迫力のあるテロリストを存在感十分に演じていた。その後鑑賞した映画では「私の男」「SCOOP!」「何者」「翔んで埼玉」「人間失格」そして本作品と、まったく異なる役柄ながら、それぞれに上手に演じ切る。
稲垣吾郎は前から演技が上手だと思っていたが、本作品では二階堂ふみの演技に引っ張られるように、これまでより一段上の演技ができていたと思う。最初から最後までほとんどのシーンに出ずっぱりだが、シーンごとに雰囲気が変わっていて、主人公美倉洋介の揺れ動く心が伝わってくる。
さて作品は本当にこれが手塚治虫の原作なのかと疑うほどエロティックでデカダンスで反権力である。美倉洋介は売れるための小説を器用に書きこなす売れっ子作家だが、自分の作品に文学的な価値がないことを自覚してもいる。バルボラと出会って真正面からそれを指摘されて、洋介は変わっていく。
世の中は上辺を飾らない人間には生きづらい。高級マンション、高価な洋酒。洋介はいつの間にか自分も既存の価値観に染まってしまっていたことに気づく。バルボラは女神だ。洋介が権威に絡め取られようとするピンチに現れた。バルボラを拒否してこのまま欺瞞の人生を送るのか、バルボラを受け入れて真実を追求して社会から追放されるのか。どちらも地獄へ続く道だ。
このあたりに手塚治虫の心の闇が見える。つまり、手塚治虫が描いていた「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」など、権威や権力の側に立つような漫画は、本来描きたい漫画ではなかったのではないかと思われる。あまり知られていないかもしれないが「バンパイア」をはじめ、既存の価値観に異を唱えるような漫画もかなりある。大量の仕事を続けながら、家族を蔑ろにしない、社会的にもきちんとした大人でありつつ、内に抱える闇を漫画にして吐き出していたような、そんな気がする。
本作品は実写だけに漫画よりもずっと暗い雰囲気で、ひと息つく場面もない。転がり落ちるように社会を逸脱していく洋介をなんとか既存の安定社会に引き戻そうとするのが石橋静河が演じる加奈子で、建前社会の窓口としての役割を上手に演じているが、一度道を外れたアウトサイダーがインサイドに戻ることはない。
ラストシーンもエロティックで、二階堂ふみのポテンシャルを余すところなく存分に撮り尽くした印象だ。とても美しいラストシーンである。人生の最期に死が待っている以上、ハッピーエンドは本来的にありえない。誰でも心に冷たく凍った闇を抱えて震えている。本作品はその闇を少しだけ溶かしてくれた気がした。それが手塚治虫の優しさなのかもしれない。