「「戦い抜いた人々の記録」として重たい一本」Fukushima 50 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
「戦い抜いた人々の記録」として重たい一本
<映画のことば>
「全身防護服の遺影か?」
「運転員らしくて、いいじゃないですか。」
東日本大震災に起因する、いわゆる「エフイチ」(福島第一原子力発電所)の事故を描いた作品ということですけれども。
電気を作っているところ(発電所)なのに、そこの電源が喪失してしまうというのは、何やら皮肉な話のようでもありますけれども。結局は「電気を作るためにも、電気が必要」ということになるのでしょう。
いまや官民を問わず、どこのオフィスに行っても、当たり前のように業務には、一人一台体制でパソコン使われていて。
そして、どこのオフィスでも、仕事に必要なデータは、全てパソコンの記憶装置に格納されていることでしょうから、電源喪失でパソコンが使えなければ、仕事にもならないことでしょう。
(充分な能力の自家発電の設備を持っている事業所の方が、むしろ少ないようにも思われます。評論子には。)
日本は資源(エネルギー源)が乏しく、中東諸国のご機嫌伺い(失礼!)をしながら買わなければならない石油に代わる、他国に依存しない「日の丸エネルギー」として、原子力は開発しなければならない技術なのか、それとも(やはり)開けてはいけない「パンドラの箱」なのか。
はたまた、電力需給という公共目的のためには「許された危険」なのか。
福島で作られてはいるが、実は、東京で使われるための電気ということでした。本作によれば。
これまでも、地方は自らの経済を破綻させ、マチを寂(さび)れさせてまで「人」(労働力)を東京に差し出して来たのですけれども。
「地方の悲哀」は、原発事故と、原発事故による直接の被害、そして福島県産の農水産物や福島から避難された方々に対する風評被害にまで現れているのかと思うと、本当に切ない思いがします。
そこまで思いを致すことができた作品として、評論子には、充分な佳作だったと思います。
(追記)
佐藤浩市と並んで主役を張っていた渡辺謙が、印象に残りました。評論子には。
(もちろん、佐藤浩市の影が薄かったという訳では決してありません。)
別作品『沈まぬ太陽』の恩地・国民航空労組執行委員長のように、ストイックな役柄が、今回もハマっていたと思います。
(追記)
原爆症の例があるとおり、放射線障害は今の科学(医学)でも全容が解明されているとは言えません。
それ故に、本作の運転員の方々を始め、当時に作業に当られたエフイチの作業員、消防隊員、自衛隊員の方々の健康に関しては、今(令和6年)でも定期的なモニタリングが行われていることと思いますけれども。
それらの方々に、作業に起因する放射線障害が発現しないことを、祈るような気持ちでいるのは、独り評論子だけではないことと思います。