「死ね 殺すぞ ブス」殺さない彼と死なない彼女 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
死ね 殺すぞ ブス
私は普段から本当に口が悪く、特に慣れ親しんだ仲だとバカヤロウったりめーよなべらんめえ言葉がついつい口をついてしまう。
私の大学は差別的なものに対してかなりセンシティブな空気があり、もちそんそれは素晴らしいことなんだけど、私が誰かに「バカかてめえ」なんて言おうものなら「そういうのよくないよ」と怒られる。バカとかてめえとか死ねとかブスとか、まあ罷り間違っても「正しい」言葉ではないわけだから何も言い返せない。
だけど一方で言葉が正不正の範疇を超えた輝きを宿す瞬間が、「死ね」が「愛してる」に勝る瞬間が、この世界には確かに存在していると思う。
言うまでもないけどこれは相手に本心から死んでほしい気持ちが相手を思い慕う気持ちを凌駕しているということではない。ここでいう「死ね」も「愛してる」もその意味内容は同じだ。「死ね」でも相手への愛を表明することはできるはずだし、というかそうすることによってしか表明できない愛もある、ということ。
れいはななに「死ね」「殺すぞ」「ブス」といった罵言を浴びせかけるし、ななもそれに口汚く応戦するけど、それらは文字通りの意味を意味しない。むしろ2人の間でのみ密かに交わされている合言葉、とでもいうべきか。いじらしい微笑ましさがある。愛の言葉が「好き」「愛してる」「可愛い」しか存在しない世界だったなら、2人の関係はそもそも成立さえしていなかったと思う。
言葉のコレクトネスを何よりも優先させようとする人たちは、ある意味で怠慢なんじゃないかと私は思うことがある。言葉の多義性を否定し、字義通りの意味だけを持つものとして簡略化する。そしてそれらをシチュエーションに応じて組み替えることで、あらゆるコミュニケーションを数理的に攻略する。
だけどこういうやり方に甘んじていると、本当に重要なものごとを見落としてしまう。撫子は「好き」という言葉の有無をそのまま愛情の有無と認識していたせいで、「好き」という形を取らない八千代の好意に最後まで気がつくことができなかったんじゃないかと思う。
私が「バカかてめえ」と言ったとき、君はそれを「正しくない」と言った。それは確かに正しい指摘だけど、この「正しさ」っていうのは、社会とか国家とかいった、要するに何か巨大で漠然としたシステムが与えてくれたものだ。
そうじゃなくて、俺はお前に言ったんだ。
お前だけに向けて、お前だけに言った。