「頑張っても報われない」岬の兄妹 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
頑張っても報われない
目を背けたくなる行為と置かれた状況。スクリーンの中でもがく兄妹に観客たちはどこまで寄り添うことができるのか。兄が「偽善者」と詰る、警官の友人と我々の間にどの程度の違いがあるのだろうか。
この鑑賞の数日前、東京大学の入学式での祝辞が物議をかもした。上野千鶴子氏によるそれは、頑張りたくても頑張れない、頑張っても報われない、そうした人々に対する、余りにも厳格な自己責任追求への戒めを含んでいた。
大人が弱者のモラルや振舞いに対して不寛容、あるいは無関心な社会には、自分よりも弱いものはオモチャくらいにしか考えない「くそ」ガキがはびこる。プールのシークエンスは、まさに、映画でしかなし得ない表現である。
上野氏の祝辞は、そんなくそガキども(またはその予備軍)への親心であろう。
映画が描くのは、弱き者なりの生き抜き方とモラルである。これは、満たされた強き者のそれとは異なる。その異質な部分をことさらにあげつらい、蔑み、排除しようとする圧力の発生源が、自分の中にはないと言い切れる観客が何人いるだろうか。
生活保護や社会福祉、ケースワーカーなどに一切言及することのないこの作品は不自然だろうか。自分が手に負えない人々、自分の手を汚したくはない問題は全て役所に押し付ければ万事解決なのだろうか。
売春防止法の施行前の、遊郭の女たちを描いた溝口健二の「赤線地帯」でも、映画は仕事を失う女たちの悲哀に寄り添っていた。
ここでも、春をひさぐことで、ほんのひと時、社会との繋がりを持つことのできた兄妹が、その唯一の手段を失う。
オープニングのシークエンスに戻ってしまったかのような、ラストのシークエンス。川島雄三の「洲崎パラダイス 赤信号」のようではないか。
川島の作品は、ほんのわずかな希望をほのめかして映画が終わる。こちらの作品はどうであろう。希望と絶望とどちらとも受け取れるラストシーンだったが、私には絶望のように思えた。
冒頭で海に浮かぶ靴が回収される。今度こそは濡れた靴の持ち主がこの妹になるような気がしてならなかった。
往年の東映作品のような題字、音声など、やりたかったことが明確に伝わってきた。片山慎三監督の今後の活躍に期待したい。