「束の間の線香花火」岬の兄妹 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
束の間の線香花火
売春婦は世界最古の職業と言われている。現在の日本では男女の貧富の差が一定ではないから、必ずしも男が女を買うだけとは限らない。最近では富んだ女が男を買う「娼年」という映画まで登場した。
男娼または娼婦が体を売るのは、売れるからである。需要のあるところには供給が生じる。そして価格との相関でそれぞれ増減する。一般の商品と同じである。だから品質がよければ需要は高まるが、同時に価格も上昇するので、需要はその価格に見合う程度に下がっていく。低品質でも低価格であれば、それなりの需要はある。
人間は理性によって自らを律することができるが、食欲と死の恐怖については簡単には律することができない。衣食足りて礼節を知るという諺の通りである。食欲に比べれば性欲は比較的に律しやすい煩悩だろうと思うが、それは痴漢やゴウカン(このサイトでは当該の漢字が使えない)の衝動を制御する程度のことで、性欲そのものを消し去ることができる訳ではない。人は常に性欲に振り回され続けている。ときには僧侶も国会議員もそれで信頼を失う。しかし人類が性欲から解脱したら、世界は一気に少子化となり、100年経たないうちに絶滅するだろう。それはそれでいいことなのかもしれない。
本作品は生活に行き詰まった兄妹が、あるきっかけから知恵遅れの妹に売春させる話である。いくつかの失敗を重ねると、兄は効率のいいやり方を見つけていく。場末の港町にも売春の需要はあるのだ。
兄も妹も障害者であるにもかかわらず、登場する行政は幼馴染の警官だけで、福祉関係については人も建物も何も出てこない。この兄妹みたいな人々は日本にたくさんいるのに、行政は彼らが自分で手続きしない限り何もしない。それどころか、小田原市の職員のように「生活保護なめんな」とプリントされたジャンパーを着て、保護申請をした人々に対して不正な申請と決めつけて威圧するような役人ばかりである。大抵の役人と政治家は、国民から預かった税金を自分たちのものと勘違いしている。
兄妹にとって頼れるのは自分たちだけ、そして資本は体だけだ。妹を売春させるのは必然の成り行きである。兄は妹がいつまでも若くないことを知っている。行き詰まれば妹を殺して自分も死ぬしかない。そういった事例は、全国にたくさんある。報道はされないが、WHOによると日本では毎日200人が自殺している。アベノミクスで生活が向上したと言い張っている日本は、確実に貧しくなっている。ヨシオとマリコは日本中にいるのだ。そして確実に増加している。
兄妹は売春の金で一息つくと線香花火を見て束の間の幸せを味わう。これまでも、これから先もいいことは何もないだろう。しかしときどきはハンバーガーとポテトを食べられるかもしれない。祭の縁日を歩けるかもしれない。また線香花火を楽しめるかもしれない。
まさに線香花火のように儚い二人の人生だが、彼らの人生を否定することは、人間そのものを否定することになる。人は束の間の線香花火を楽しむために、長くて辛い人生を歩むのだ。