「内面描写の難しさ」蜜蜂と遠雷 アラカンさんの映画レビュー(感想・評価)
内面描写の難しさ
原作は、直木賞と本屋大賞をダブルで受賞した傑作小説である。非常にユニークな作風で、ピアノコンクールという題材のため、記述のほとんどは登場人物の内面描写に割かれており、目立った動的な場面はなく、曲の解説も触り程度に過ぎない。だからといって、読者をクラシックのピアノ曲に詳しい人に限定するような内容ではなく、詳しい人にはより面白く、詳しくない人にもそれなりに楽しめる作品になっていた。
音楽演奏のステージに立ったことがある人や、さらにコンクールに出たことがある人には身につまされるような記述が多く、どちらの経験もある私は非常に実感を伴って楽しく読むことができたが、こんな内面描写ばかりの作品をどうやって映画化するのだろうと、興味深く鑑賞した。同じピアノでも別の人が弾くと全く違う音がするというような表現は、小説ならば簡単だが、映像と音で観衆に感じさせるのは至難の技だからである。
尺の関係で人物が端折られ、エピソードも間引かれるのは仕方がないのだが、常人とは違う天才たちが互いに影響し合って更に高みに上るという物語が、主人公が過去から立ち直るというだけの話になってしまっていたのが非常に残念であった。風間塵という特殊な才能の持ち主が、触媒のように他人の演奏に影響を及ぼし、特に主人公の栄伝亜夜が立ち直るための絶大な貢献をするのであるが、この映画の物語では塵と亜夜の関係がやや薄くなってしまっていたのも残念であった。
原作では、亜夜と高島明石が初めて会った時に互いを認め合って訳もなく二人で号泣するという非常に胸を打たれる場面があるのだが、映画が始まって間もなくこの二人が出会ってしまうのを見て、あの素晴らしいシーンが見られないのかと非常に失望した。それに代わるシーンが特に用意されていたわけでもなかったので、かなり物足りない話になってしまったと思った。
ピアノコンクールの映画といえば、1980 年のアメリカ映画「コンペティション」が思い出される。リチャード・ドレイファスとエイミー・アーヴィングの素晴らしい演技は、40 年近く経った今でも記憶から薄れることはない。あの映画でも印象的に取り上げられていたプロコフィエフの第3協奏曲は、本作でも大きく取り上げられていたところに既視感のようなものを感じて懐かしかった。
原作と特に大きく違っていたのはオケと指揮者との絡みであった。ピアノコンクールの本選であんな意地の悪い指揮者がいる訳がないし、練習を開始して流れてきたのがブラームスの第1交響曲だったのには何の意味があるのか全く分からなかった。更にモーツァルトのレクイエムの演奏も何故出てくるのか謎であった。
1次と3次予選の場面がほぼカットされていたのは尺の関係でやむを得なかったのだろうが、そのために、物語の流れが全く違ったものになってしまったのではと思えてならなかった。2次予選で出てくる委嘱作品の「春と修羅」というのは架空の作品であるが、映画ではきちんと聴かせてくれたのが一番嬉しかった。ドビュッシーとキース・ジャレットを掛け合わせたような作風は原作のイメージを損なわなかったと思う。また、各奏者のカデンツァの部分も非常に聴き応えがあった。
亜夜を演じた松岡茉優は、原作のイメージ通りで非常に良かったと思う。ピアニストの役は横から撮られることが多いので、横顔が美しい人が相応しく、その点彼女なら文句なしであった。塵役の鈴鹿央士は新人だそうだが、原作のイメージを損なわない良いキャスティングであったと思う。ピアノ演奏の演技は、ドレイファスやアーヴィングには及ばず、「のだめカンタービレ」の上野樹里や玉木宏にもやや及んでいなかったのはちょっと残念であった。
劇中曲はバッハとベートーヴェンとショパンが最初の方でサラッと出てくるだけで、モーツァルトやブラームスやリストやラフマニノフが全く出て来ず、ほとんどプロコフィエフ とバルトークがメインというのは、あまりに偏っていたのではないかと思った。
演出は、ピアノ演奏のリアリティがイマイチで、オケと指揮者によって与えられるプレッシャーという部分にやたら力を入れ過ぎていたところに違和感を覚えた。途中、手持ちカメラで画面を揺らすシーンがあったが、全く必要性が感じられなかった。原作を読まずに見た人の方が楽しめたのかも知れない。
(映像4+脚本3+役者4+音楽4+演出3)×4= 72 点。