Girl ガールのレビュー・感想・評価
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タイトルなし
大人のトランスジェンダーの映画はそこそこあるけれども、思春期にあるトランスジェンダーを描いた映画は少ないのではないか。シスジェンダーも思春期には自分の内面と変わっていく身体との折り合いに悩むのが普通なのにトランスジェンダーであればその葛藤はより一層激しいであろう。しかもララはあまり話さない。話しても「大丈夫」というだけ。でも、大丈夫でないのは、その焦燥感は、表情・仕草そして踊りを見ていればわかる。映像で語る「映画」である。彼女の焦燥感・意固地さは周りの大人にも伝わっている。大人は大人のアドバイスをする。でもララには通じていかない。誰がみてもララは女の子にしか見えない。大人たちはその外見に惑わされてララの内面まで達しきれない。父親でさえ。しかしララにはわかっている。彼女には他の生徒にはないギャップがあることを。自分の性と身体の同一に何ら悩むことなく踊りに集中できる同級生との間のギャップを。練習への人一倍の努力でもそのギャップが乗り越えられないとわかったとき、彼女はあの行為に走る。あの時ララがあげる苦痛の呻き声は肉体の痛みだけから出たものではないのだろう。でもその痛みと引き替えに彼女は解放される。ラストの彼女の落ち着いた、でも凛として歩いて行く姿は感動的さえある。(BGMが市川昆版『細雪』と同じなのは面白かったが。)
最後の表情に救われた
全編を通してララの痛みが、しんどいくらい伝わってきました。
厳しいレッスンの後、脱いだトウシューズから滲む血や、こっそりトイレで着替える姿、下半身を無理矢理隠すためのテーピング、クラスメイトからの意地悪な目。
家族や治療を担当する医師達は優しく、ララに焦らないで、と伝えつづけるけどララは手放しにその助言に身を任せることはできない。
「大丈夫?」と聞かれてもただ「大丈夫」と答え続けるララ。途中でララが感情を爆発させたり、父親や信頼できる大人にすべて打ち明けてくれたら、見ている方も楽になれるのに。
そうならないのは多分、ララにもまだ言葉に出来ないことがあったり、心と身体の痛みは他人とシェア出来るものじゃないからかな、と思った。
トランスジェンダーとは話が少し違うけど、トゥシューズを無理して履き続ける姿を見て、最近の#KuTooを思い出しました。
心と容れ物が合わない、身体の変化に心が伴わない、って誰しも経験があるはずで、そういう点では共感しやすいのじゃないかな…。
あと、人によって見方が違いそうだけど、作品中ではララはまだ恋はしていないのかな、と思った。
恋を出来るかどうか試すような行動が、また胸が痛くなった。
こんなに痛みに共感させられた映画ってなかなかないし、ララの懸命に立っている美しさに惹きつけられた。
パイ生地のような痛み
ジェンダー作品群に素敵なものが多いのは偶然ではない 社会の根底にある " 性 " というテーマに、真正面から取り組むより他ないから 約9年 この映画の製作にかかった時間 薄皮一枚一枚を重ねたその後で、その生皮をまた一枚一枚 剥がすような 痛々しさ 自分がスクリーンの此方側にいる、それ自体が痛みになる感覚 私が他人と " 違う " という思いと 、 あの人が私と " 違う " という思いは、 完全に 異質 なもの 私達は そうやって 少しずつ 誰かを傷つけている 『ヘドウィグ & アングチーインチ』 『リリーのすべて』など 過去作品へのオマージュも含めて 大切なことを、思い出させてくれた “ リリーのスカーフ ” は、まだ大空を舞っている
トランスジェンダー
ララの気持ちがよく伝わりました。 バレエに打ち込む姿が素敵でした。 父の娘を思う気持ちもよく表現されていました。 好意を持った男性へのアプローチはビックリしました。 ラストの行動には驚かされました。 ラストシーンの表情よかったです。 素晴らしい作品だと感じました。
【ルーカス・ドン監督の執念の果て、ヴィクトール・ポルスターという稀有な俳優が降臨した。】
- 自分の前に聳え立つ高い壁に挑もうとしている方々が観ると、勇気を貰って、新たな一歩を踏み出そうと思える映画だと思いました。- ・主役を演じたヴィクトール・ポルスター(この映画が初出演とのこと。信じ難い)の心の機微が滲み出る気丈で美しく、且つ時折見せる哀し気な表情に魅入られました。 ・悩み、葛藤し、初めての恋に戸惑い、父親との関係にもちょっと苛苛する姿(でも、こんなに理解ある父親ってそういないよなあ。)も違和感なく受け入れられました。 ・終盤、”ああっ!”となるシーン(私の隣の男性は一瞬、下を向いていました)からの、ちょっと技巧的な場面を挟んでのララの爽快な表情が印象的なラスト。 ・印象深く琴線に響く作品でした。 <2019年7月6日 追記> ・この作品が数々の映画祭で作品賞を受賞した事は知っていたが、ヴィクトール・ポルスターの受賞部門が「男優賞」という事に違和感を覚えたのは私だけであろうか?
どうしようもないもの
自分の努力ではどうしようもないもの。それは、生まれつきのもの。もの静かで控えめな性格のララが、耐えられなくなって衝動的になってしまったのか、それともずっと前から考えていたことなのか、スクリーンを通して私もララ同様に痛みを受けた。ララは精神的な痛みと交換に肉体的な痛みを選び、苦しみと決別したのだろう。
もうひとつの視点、痛みについて
悲しみも、辛さも、喜びもなにもかも押し込めてしまったようなララの表情と、バレエにひたむきに打ち込む姿が、独特の緊張感となって、想像だにしなかったエンディングにつながっていく。
ただ、最後の場面、メトロの地下通路だろうか、歩くララの表情は、どこか吹っ切れたようで清々しい。
ララは、なぜ、あれほどバレエに打ち込んだのだろうか。
きっと心と身体が一致しない不安を、必死で振り払おうとしていたのではないか。
父親や、バレエ学校のコーチ、医者やカウンセラー、周囲の人々が、支えようとすればするほど、ララの心の痛みは募ってしまう。
口では「大丈夫」と言っても、そんなことはなかった。
父親の「自分も時間をかけて男になったんだ」という言葉も、ララの焦燥感を軽くは出来ない。
男性を求めてしまったのも、女性であることを自身で確認したかったからだろうか。
僕たちは、こうしたトランスジェンダーの物語を、恋愛の葛藤といった演出のなかで観ることが多かったように思うが、これほど、心と身体の不一致の痛みにフォーカスしたストーリーは初めてだ。
ナチュラル・ウーマンは、様々な偏見と相対しながら、それを乗り越えて生きようとするトランスジェンダーの物語で、他とは異なる視点だったが、この作品は、更に別の視点でトランスジェンダーを見つめた秀作だ。
多様性という観点で外形的に語られることや、恋愛を介したストーリーで作品化されることが多いテーマだが、こうした刺すような心の痛みを抱える若者がいるのだということを、自分の心に留め置きたいと思った。
ビクトール・ポルスター 唯一の人
映画を観ていくにつれ、痛々しさだけが、残るものとなっている。ララに対し、すごく理解ある父親の存在。彼女のため引っ越しをし、環境を変えてまで彼女の望みをかなえようとする姿、また6歳の弟すら、友達と別れ寂しい思いを味わわなければならなくなる。そんな彼女は恵まれていると称される方もいるが....。
15歳のララ、友達と思っていたバレイ仲間が、単に好奇心の塊で、彼女に接していたことや自分自身の体に対する変化やジェンダーとして変わってほしいと思っている部分が何にも進展しない失望感や不安感、焦燥感など複雑で自分では、理解できない感情をコントロールできないでいる。しかし、その感情を失禁することは決してしない。表に出さず、一人苦しんでいる。
You don't know why you're crying ?
You don't know ? Or you won't know ?
-No, I don't know.
..............................(略)
-I don't know. I'm scared that it won't work.
-That it won't change a thing.
I see a lot of change already.
I think you don't realize how brave you are.
You're an example to lots of other people, you know ?
-I don't want to be an example.
-I just want to be a girl !................
撮影当時、14歳であったビクトール・ポルスター、バレエの練習後のシャワーのシーンや医師の診察など、とにかく全裸や上半身裸のシーンが出てくる。最初、恥ずかしいことだが、"Peeping Tom”的というか窃視的というか、自分が情けなくなるような行為をしていたのがわかるし、この映画を観ていくにつれ、恥ずかしい気持ちになっている自分に気が付く。
監督と主演のビクトール・ポルスターが、カナダの映画フェスの舞台あいさつで、監督が、ダンスのクオリティーにおいて、彼に勝るものがいなかったとコメントをしているが、この実在の人物のドキュメンタリーを考えていた監督が、その映画作りがかなわなかったために、このモキュメンタリー風な映画が出来たことは、かえって良かったと個人的に考えるし、この映画が、ポルスターという役者がいなければ成立しない、世に出ることのないものだと考えられる。
イギリスの保守系新聞紙、Times (UK)の保守系ならぬコメント「映画を観たことによって、このシスジェンダー評論家は確かにトランスジェンダーの人生の現実を理解しようとは、求めないだろうけど、そういうことがかえって、自分だけは理解しようとする事となる。」また、アメリカの映画レビュー Webサイト、RogerEbert.comによると「いくら論争を疎ましく思っても、監督のルーカス・ドンの全てピント外れなところが、この映画をつまらないものにしている。」と別の意見もある。
個人的には、イギリス人が書いた小説を何を間違ったか、日本のアニメーターがベルギーとオランダを取り違えている「フランダースの犬」や最近でも話す言葉の違いから国民同士の対立がとりあげられることがしばしばある国で、国際的にはNATOや団結力が問われているEUの本部がある国としか、イメージがわかないが、ただ単に主演のビクトール・ポルスターの不思議さや27歳の監督のある意味勇気のある、しかもトランスジェンダーに対してシスジェンダーが抱く違和感のあるものも、いくぶん感情移入のしやすい映画作りがされていると思うのだが.....しかし? 一部の通称“クイア”と呼ばれる人たちからこの映画に対しても監督に対してもかなり批判めいたものが寄せられているのは、事実で、その批判もわからないではないのだが?
穏やかな映画作りの中に、シナリオ自体が息を詰まらせるような映像もあるのため、多くの方はつまらないものと感じ、人を寄せ付けない映画かもしれないが、そんな中でもララの心の微妙な動きやララが痛めた足をトゥー・シューズに無理やり入れ、努力する姿、そしてララの心から湧き出るメタファーを理解できない方は見るのを諦めてもらうほうがよいかもしれない........。
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