僕たちは希望という名の列車に乗ったのレビュー・感想・評価
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鼻すする 響き渡る音 映画館
(俳句にした意味は特にないです)
物語自体が共産主義に弾圧されている気がする。
彼らのその後が映画では描かれていなかったり
上映館数が極端に少ないことも含めて。
単なる思いつきにも見える行為が
彼らを苦しめ、強くするものになるとは誰が予想するものか。
これから御覧になる方は
戦後の東西ドイツについての知識を得てから
鑑賞することをオススメします!10分程度で充分です
余談ですが…
今コンフィデンスマンJPが大ヒット中ですが
ドラマ版の最終回と話の流れは似ている気がします(笑)
静かに心に響き続ける
深い余韻に包まれて、エンドロールが終わっても、すぐに立ち上がれなかった。
大きな恐怖を前にして、葛藤の中で、もがき、苦しみながらも、意思を持ち続け、現実に真っ向から向き合おうとする彼らの姿に心を打たれる。
エリック役のヨナス・ダスラーがとりわけ素晴らしかった。
最後は悲しくも、暖かい。
独裁政治の始まり
今作はまだ東ドイツが完全にソビエトから支配される前だからなのか、私が想像したよりも緩い空気を感じました。独裁政治の始まりは思想の制限から言論統制、厳罰化、密告、処刑と順を追って過激になっていくのかもしれません。だからこそ、思想の制限を国家が進める前に何とかしないといけないのではないでしょうか。日本では抗議することがマイナスのこととして捉えられる事が多いですが、抗議できない社会に生きる人間はどうなるのか、行き着く先にある社会はどうなるのか。抗議の持つ重みを改めて考えさせられてしまいました。
第二次世界大戦終結後に、ドイツが東西に分割され朝鮮も南北に分断されました。歴史にたらればはありませんが、もしかしたら敗戦国日本もアメリカ陣営とソビエト陣営に分断されていたかもしれません。そう思うとこの作品が他国のことの様には思えませんでしたし、過去の話とも思えませんでした。独裁政治はいつの時代も起こりうる事だと思います。
ジャングルの裸女を見るために僕たちは列車に乗った
1950年代の東ドイツの高校生達が、ちょっとした反抗心から国家に追い詰められる姿を描いた実話らしい。
ソ連占領下の状況描写が、個人的には少し弱いと感じたが、同じドイツ人でもナチスやソ連になびいた者に対する姿勢や国家体制への反逆者を追求してクラスの仲間が揺れて行く過程がリアル。
国の未来を担う若者をスポイルする姿は醜悪の一言。
多くを語らないラストも潔い。
余談だが、映画冒頭で主役の二人の高校生が、わざわざ西ドイツに観に行く映画が、「ジャングルの裸女」だったのがツボ。
1957年?のドイツ製女ターザン?映画で、劇中ではエロ映画扱いだが、名優ハーディ・クリューガー主演で当時としては異例の露出トップレス姿の美少女ターザンのみが記憶に残る怪作。
時代の空気
最初から政治的だったかどうかはわからないが、たくさんの犠牲者への哀悼の気持ちを表す行為が反革命、体制への敵対行為とみなされる。最少のお咎めで良しとしてもらうために誤魔化す人たち、罠にハマる、脅しを受ける。
反革命分子を見つけ、罰することが革命への忠誠を表すことだから、なんとしても首謀者を見つけないといけない、真実なんてこの際どうでも良い。
この時は国境と検問所があった。
今は勝手にスマホが、SNSが忖度してくれて不快な情報から遮断される。
私たちの心の中に国境と検問所があるのかもしれない。
傑作。困難を乗越え信念を貫く若者達の気高さ、尊さに涙
終戦前までは反体制だった筈の旧東独逸の大人たちの、体制側になった途端の狡猾さ、醜さといったら。特に女性学務局員の振る舞いは戦時下のナチスかと思った。ベルリンの壁が出来る前までは東西独逸の行き来が(検閲はあるが)比較的容易だった事実を知った。自由とは、思想とはを深く考えさせられた傑作である。ラスト近く、決意を秘め次々に列車に乗り込んでくる彼らの姿を見て、涙が止まらなかった。彼らが西側で満ち足りた人生を過ごした事を切に望む。
時代と情報に翻弄されながら
東西冷戦の犠牲だったり、抑圧と搾取に対する憤りだったりは当然あるのですが、これは現代にも当てはまるし、今だからこそグサリとくるものがあった。
全体主義と戦っているようで、自分達もまた全体主義的であり、これを可哀想な小さな正義とみてしまうのも危うい。そんな事を、じっくりと考えさせてくれる、良い作品でした。
初めはただの悪ふざけだった
5月の初めに、就職に伴い実家を出てきた。その時母を泣かせたという心の傷が、この映画でえぐられる感じがした。
黙祷を始めたときは、彼らには家を捨てる覚悟など無かっただろう。過剰な抑圧が、彼らに覚悟を強いて、反抗の行動を起こさせたのだ。
時として人は、覚悟なくひょんなことから行動して、後悔と恐怖とともに覚悟を決めなくてはならないことがある。
今まさに、私はそんな状況だ。彼らのように潔く行動できるだろうか。
彼らは、ベルリンの壁ができるとは思わずに西側へ行った。壁が崩壊することも知らない。
私には、どんな未来が待ち受けているのだろう。
これが現実の話なんて
高校生達が何気なくとった行動が、どんどん波紋を呼んでいく話。
粗筋を読んだ時にどうかなあ?と思いつつ見たんだけど、感動しました。
今の自分の頭で考えると、当時の社会状況でそんなことしたら大変って思うけど、当時の彼らはそんな大変なことになるとは思わなかったんですね。
それからいろいろなことがわかって、途中から予想しなかった展開になり引き込まれて行きました。
自分で考えて、って映画の中で言ってたけど、クラスメート一人一人が自分で考えて大半が同じ結論を出すことが出来るなんて、すごいことだと思う。この高校生達すごい!
サイレント・パートナー
きびしい映画だが、秀作である。信念と保身の間で揺らぐ緊迫した葛藤に息を呑む。
映像で見ると、いわゆる“黙祷”とは違って、“無言の抗議”という感じだ。元は軽いノリもあったのだろう。そこから生じた彼らにとって予期せぬ展開は、管理社会の重圧を表出している。描かれた内容は60年以上も前の話だが、現在でも依然として“言論の不自由”がまかりとおっている国はある。(彼らは“列車に乗った”が、残された家族や友人は迫害されなかったんだろうか。)
唯一残念なのは邦題で、長いし、あまりに情緒的すぎる。邦訳された原作の「沈黙する教室」でよかったのではないか。
この年代特有の真っすぐな思い。
戦争により、思想・言論を奪われた東ドイツの高校生達。
この年代だからこそ曲げる事の出来ない真っすぐな思いが、
各々の立場により翻弄され切ない。 家族、友情、恋愛、傷付きながらも真っすぐに進む彼らの姿が清々しく、気持ちのいい青春物。
今年の洋画ベスト候補
ドイツという国の在り方がよくわかる。ナチスのファシズムと、マルクスの社会主義。単純な国ではない。それが東西に分かれた。ベルリンに西側の飛び地ができた。歴史の必然と偶然が生み出したドラマ。実話ベースとは思えない別世界。
自由を求め惑う東ベルリンの若者たち
第二次世界大戦後、旧ソ連諸国および旧東側諸国はロシアの占領下に入った。最近の映画によるとナチスの時代よりも状況は遥かに悪くなったようだ。
今作はベルリンの壁ができる5年前、1956年の東ベルリンが舞台。ソ連の影響下で社会主義の名のもとに行われる恐怖政治。そこに自由はない。
ハンガリーの反ソの蜂起に同調したエリートクラスの高校生たちの「2分間の黙祷」が思わぬ波紋を呼んだ。
彼らを抑えつけようとする理不尽な論理に激しい違和感を覚える。まだ壁がなく西へ行ける可能性があったのが微かな救いだった。
自由の萌芽が決して見逃されることのないあの時代の閉塞感を嫌というほど感じる秀作だ。
のほほんと生きていると…
たまにこういう作品をみると今の時代が何て平和なんだろうなー、と痛感。たった1回の全員黙祷でこんな展開になってしまうなんて。同国の仲間で思想管理、軽い態度で家族離散。厳しい時代があっての今なんだな、と。
一生忘れない1本です。
55本目。
片手にビール、いつもの軽いノリで観に行きましたが、今年1番、一生忘れない1本になりそうです。
家族愛、親子愛、友情、ものすごく詰まってて、心がギュッとなるって、この事なんだなと。
心を掴まれました。
当時の葛藤が伝わってくる
石川啄木に「強権に確執を醸す」という言葉がある。26歳で死んだ詩人の胸のうちは今となっては知る由もないが、天皇を絶対権力として帝国主義政策を進める明治政府の強権的なやり方に反発を覚えていたのは間違いない。幸徳秋水たちによる大逆事件も少なからぬ影響を若い詩人に与えたはずだ。
本作品の若者たちも啄木に似て、社会主義のパラダイムを一方的に押し付けるソ連に対して、上手く説明できないながらも、精神的な自由を奪われつつあることに容易ならざる危機感を覚えているように見える。18歳ともなれば、思春期の反抗と違い、弾圧に対しては敏感に反応する、感性の鋭い年齢である。
予告編の通り、授業の冒頭にハンガリーの武装蜂起の犠牲者に対して追悼の意味の2分間の黙祷を実行し、権力側がこれを反体制(反革命)と見做して弾圧するというストーリーだ。かつての日本の過激派と同じく、仲間同士のリーダーシップや裏切りに対する倫理観が絡み、若者たちは一枚岩ではあり得ない。そして体制側は容赦なくそこにつけ込んでくる。そして若者たちの家族も、決断を迫られる。
役人たちは皆ソ連の傀儡だが、傀儡であることを卑下する気持ちはない。寧ろ自分たちは傀儡ではないと思っているフシがある。自分の立場を正当化する思いが強く、それがそのまま反体制的な勢力への弾圧に直結する。役人たちの若者への弾圧が容赦ないのは、それが役人たち自身のレーゾンデートルだからである。
かつてロシア革命に熱狂したロシアの民衆は、その後長きに亘って政治局による圧政に苦しむことになった。権力は必ず腐敗するという鉄則は、いつの世でも正しい。権力は統治システムとして官僚機構を構築し、官僚はある種の特権階級として国民を支配しようとする。国民はもはや国民ではなく、帝国主義時代の臣民に等しい。そしてソ連は自国だけでなく、世界大戦のドサクサで縄張りにした東側諸国のすべての国民をソ連帝国主義の臣民として支配しようとした。若者たちが反発するのは当然である。
映画の背景にある時代は、権力行使がストレートだったが、現代はインターネットの時代で情報が猛スピードで拡散するから、権力は以前のような暴力的な手法を取ることができなくなった。何をするかというと、インターネットを逆用してフェイク情報を大量に流すのである。流れてきた情報を取捨選択する能力のある人はいいが、多くの人はインターネットの情報をそのまま鵜呑みにしてしまう。自分で考えることをしないからである。現代の教育がそういう風に育ててきたのだ。
そして若者たちは情報の真実を探求することなく、権力のいいように操られ、投票する。かつての若者たちが命がけで戦ったことなど、もはや知る由もない。国のため、子どもたちのため、家族のためという大義名分は、権力が民衆を欺くときに使う言葉である。本作品の若者たちのように、国のためでも家族のためでもなく、自分のために戦うことが正しいことなのだと気づかなければならない。権力は常に腐敗する。若者たちが「強権に確執を醸す」ことは、世の中のバランスを保つために必要不可欠なことなのだ。
作品としては当時の様子や軍人が街中のいたるところにいるという戦後のヨーロッパの有り様が十分に伝わってきた。役者陣はみんな上手い。ナチズム、ファッショ、社会主義といったイデオロギーに関する発言が飛び交うのは、やはりそういう時代だったのだ。人は多かれ少なかれ、時代を背負って生きている。戦争の惨禍の記憶は未だに消えず、若者たちは不安と恐怖の中に生きている。安全無事を目指すのは簡単だが、強権と戦っている人々に対して恥ずかしい生き方はできない。当時の若者たち、そして彼らを取り巻く人々の複雑な葛藤が伝わってくるいい作品だった。
高校生(18才)による小さな革命
ベルリンの壁建設の5年前に東ドイツで起こった高校生による小さな革命。衝撃と感動の実話。
18歳とは思えぬしっかりとした考え方で、友情と信義を重んじ、希望、自由のために権力に立ち向かう若者たちの姿に、絶賛を博したい。
彼らのその後も気になるので、「沈黙する教室」を読んでみようと思う。
僕たちの今とは異なる青春
ソ連では恐怖政治を続けていたスターリンが死に、その後のフルシチョフがやや融和的だったことも影響して、ハンガリーでは民族の自立や、人々の自由を求める運動が起きたのだろう。だが、フルシチョフはこの動乱の鎮圧のために、ソ連軍を送り込む。
こうした最中の東ドイツの若者の葛藤や勇気の物語だ。
高校時代に、自分にこんな勇気があったかと問われると、ノーだ。
言論の自由とか、国民主権とか、やっと認識し始めた頃で、その意味や、その有り難みさえ、ちゃんと理解しようとしていたか考えると、恥ずかしながら怪しい気がする。
マルクスやレーニンが唱えた共産主義は、本来は労働者のためのものだったはずだ。だが、映画では、労働階級は、格差の下層のように語られていて、この若者はこうした矛盾にも気がついていたのだ。
言論や表現の弾圧は恐ろしい。日本でも大戦中には言論や表現を弾圧するために官憲が配置されていた。
僕たちは、歴史から何を学ぶべきだろうか。
この若者たちの葛藤や、無謀とも言える勇気から、何を学べるだろうか。
残念なことに、こうした自由を求める空気が共産党政府の危機感を募らせることになり、ベルリンでは東西を隔てる壁が、その後築かれることになる。
そして、約30年間、それは東西ベルリンの壁にとどまらず、鉄のカーテンとして世界を東西に分断する。
結局、ソ連共産主義は崩壊し、ベルリンの壁も取り壊されたが、今、世界はまた分断主義という壁に向き合おうとしている。
世界には人々を監視し、人権を蔑ろにし、言論や表現の自由を制限し、信教による差別を厭わない国家もある。
一方で、そこで稼げるのであれば、政治体制と、利益は別という資本主義者も存在する。
僕たちは、この若者たちから何を学べるだろうか。
この若者たちは、卒業試験をパスして、その後はどうしてるのだろうか。
ひとつだけ確実に言えるのは、きっと自分たちの青春に誇りを持っているに違いないことだ。
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