「「いい加減」或いは「好い加減」な映画」ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ 冥土幽太楼さんの映画レビュー(感想・評価)
「いい加減」或いは「好い加減」な映画
1, 東洋思想
虚しい、空しい、そんな言葉がとっても似合う映画である。全編通して無常観に溢れている。
ストーリーはあるようでないし、ないようである。
そんな感覚を意図しているとしたら、かなり東洋思想の色即是空や禅的な映画である。
人が無常を感じるのは如何なときであろうか。
「時」の移ろいを通して、もう取り返しのつかない「過去」をまざまざと見せつけられる瞬間ではないだろうか。それはどんな人間にもやがてやってくる。
それは「ノスタルジア」でもあり、古今東西あらゆる詩人たちが詩にしてきた感覚である。
特に日本なんてのは、そういう美意識が土着的に中国に次いで根強かったはずだ。
芭蕉の「夏草や、兵どもが、夢の後」や平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」なんて、その表現の最たるものだった。
いつの頃からか、そんな美意識は徐々に薄れていった。(昨今はつげ義春や寺山修司などのアングラサブカル文化、又はアカデミズム、伝統などのお堅いものの中にしか見受けられない)
中国では連綿として、その歴史の系譜が芸術という文化を通して紡がれている気がする。
(像は静かに座っているにもそのエッセンスは見受けられたが、中国の地方都市自体にその雰囲気が根付いているのかもしれない)
2. 夢
本作は途中からまるまる夢の世界である。
「現在」と「過去」、「夢」と「現実」、「自分」と「他人」が入り乱れて統一していく。
そういった感覚は、極めて映画の芸術性と相性がいい。
これはタルコフスキー、デリッドリンチ、フェリーニ、今敏、めまい、スローターハウス5、ねじ式、去年マリエンバートなど多くの芸術映画で実験されている。
シュルリアリスムは自己の無意識を覚醒時に表出させるフロイト心理学に基づいた芸術であったが、それを映像表現で昇華させたものが上記の作品郡ともとれる。
そういうものがわからないという人にあえて本作の見方をわかりやすく説明するならば、「映像というツールを用いて、人間が夢や走馬灯をみている時の感覚を完全に再現してみせようとしている実験」ということである。
ここで問題なのは、そういうサブテキスト(物語の裏テーマ)を用いつつも、上記の作品群は物語の大元にテーマや思想、メッセージがそれぞれあったのだが、本作にはそれが見受けられない。なぜならば、本作は本当に「まんま」夢の世界そのものだからだ。
だから中身がないだとか、物語性がないだとか、内容がないだとか言ってみるだけ本末転倒なのである。
そもそもがそのくらい薄っぺらいものなのだ。笑
だって、どこに夢の世界に理論的な物語を求める人間がいるのだろうか?
よって他の映画のように「実験」は「要素」ではなくて、「実験」自体が「目的」なのである。
そしてそれが前述した東洋思想的な雰囲気と滅茶苦茶相まって、ビーガンの世界は構築されている。
だから一方では「いい加減」ともとれるし、一方で「好い加減」ともとれるのだ。
りんごや馬や拳銃の象徴をフロイト的に夢占いみたいな解釈をすることで別アングルからでも解釈できるとおもうのだが、そういうのは他に任せて、本作ではいい加減にしておきたい。