「闇の向こうにある場所」タロウのバカ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
闇の向こうにある場所
怒りの衝動と仲間内の高揚、そして覚醒の時間。スパイラルのように繰り返されるシーンが、やがて振り幅を大きくしていく。松尾芭蕉の「面白うてやがて悲しき鵜船哉」という俳句を思い起こさせる切なさが、物語全体を包む雰囲気となっている。
俳優陣はかなりしんどい演技だったと思う。長回しの上に登場人物たちの気持ちが複雑極まりない。よくこんな芝居を演じ切ったものだと感心する。意外かもしれないが、中でも半グレの吉岡を演じた奥野瑛太が特によかった。暴力と奸計で大金を手にする存在は、非力で孤立している主人公たちの対極を象徴している。
人間社会に生きていることはそれだけで不条理だ。誰もが不安と恐怖を感じ、欲求不満と怒りを抱いている。しかしのべつ幕なしに怒りを爆発させたり欲望のままに行動してしまうと社会では生きていけない。それは他人に不安と恐怖や実質的な被害を与え、社会の秩序を乱す行為だからだ。社会の秩序を維持することは快適な生活を担保する重大なファクターなのである。
だから誰もが心に闇を抱えつつ、それをひた隠しにしながら生きている。大抵の場合は自分自身に対しても隠している。そのほうが楽だからである。闇を自覚している人は他人の闇を想像する。他人に対する怒りは他人からの怒りに等しく、自分に跳ね返ってくる。だから怒りを表に出すことはない。結局自分自身の問題なのだ。
しかしそれでも何もかも投げ捨てて、全て壊してしまいたい衝動はある。壊すことは創ることだ。人間の文明は自然を壊すことで築き上げられた。しかし人間の生命は一度壊すともう元には戻らない。だから人を殺すためには一度自分が壊れるしかないのだ。
大森監督は人の心の闇を描く。2017年の「光」では闇の島から都会に出てきた若者を闇から来た父親が訪ね、闇、光、闇という心の変遷の物語を紡ぎ、2018年の「日日是好日」では茶の湯に光を求めながら心の奥底には闇を抱えつづける女性像を浮かび上がらせてみせた。いずれの作品も役者陣にとっては骨の折れる演技だったと思うが、それによって瑛太や井浦新、それに黒木華はひとつ壁を破ることができたと思う。
本作品では菅田将暉と太賀、それに新人のYOSHIは、様々な自己抑制、心のブレーキを振り捨てて、闇の衝動の発露を存分に演じてみせた。天才の菅田将暉は別格として、太賀の演技の自然さとYOSHIの存在感は大したものである。
理性のコントロールを捨てた彼らの行動を理性の集積である常識で批判することには何の意味もない。それよりも彼らの行動の根っこにあるものが、社会で生きる我々の最も隠しておきたい部分に一致していることを畏れるべきだ。怒り、破壊衝動、それに強力な武器。この組合せは中国で日本軍がやった残虐行為を思い起こさせる。
武器を失い仲間を失って破壊する手段の一切がなくなってしまえば、あとは叫ぶしかない。孤独で非力な人間の叫び。ある意味必然的なプロットであり、大いに納得のできるところだ。
演じた役者陣ほどではないが、観客にもそれなりの覚悟がいる。エージもスギオもタロウも観客自身の心に存在することを否定しない覚悟である。ひた隠しにしていた闇の存在をこの映画によって暴かれることは観客にとって辛いし、しんどいことだ。しかしそれを映画のせいにして批判するのはネトウヨと同じ精神構造である。誰もが心に闇を抱えていることを認め、自分自身を掘り下げていくことで闇の向こうにある場所に辿り着けるかもしれない。
タロウ、エージ、スギオの閉塞感。出てくる大人たちの醜さ。知的障害者の方に対して、はからずも持ってしまう感情。
自分の中にある暗い部分を自覚させられ、やりきれない気持ちになります。