「見ろ、人が蟻のようだ。」ヒューマン・フロー 大地漂流 とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
見ろ、人が蟻のようだ。
不謹慎だなあと自分ツッコミを入れながらも、こう言いたくなる映画。
尤も、ムスカのように笑いながらは言えないけどね。
予告でも絶賛されているように、映像がきれい。
目を見張る自然の風景の中で蠢く人・人・人。
無機質な難民キャンプの部屋すら、一つの芸術作品のように撮っている。
UNHCR WILL2LIVE 映画祭2019にて鑑賞。
他に上映された映画が、ドキュメンタリー・フィクションの違いはあれど、”ある”人々にフォーカスされていたから、この映画に出ていらっしゃる方々が、名もないたんなる”人”としての存在にしか感じられなくなる。
映画の途中でパスポートを交換する場面があるが、このような状況では、出身とか、名前とか、これまで生きてきた成育史とか、すべて意味を失くし、はぎ取られ、ただの”人”になってしまうということか。そうすると、途端に、〇〇の誰それという記憶の仕方でなく、他に代替えの利くたんなる”人”、もっと言えば”風景”になってしまう。なんて恐ろしいことだ。
”難民問題”を知ろうとして映画を見るならば、もっと感情移入できるものや、状況を理解できる作品、未来を感じられる作品が他にある。
この映画だけを見ていると、きれいな風景、粗悪な環境、映し出される人々の喜怒哀楽はあれど、映像として流れて行ってしまう。
けれど、
監督ご自身が、時の政府によって強制移住させられ、一個人としては至極まともな言動によって政府に目を付けられ、逃亡生活を送っていると聞く。
自分の権利・生活を保障してくれるはずの国が、自分の権利・生き方を制限する。財産のあるなし・人脈のあるなしや、監督は表現活動にご自身のアイデンティティを根ざしているが、そういうアイデンティティを維持できているか、いないかという違いはあれど、監督とここに映し出される人々は同じなのだ。
そう考えると、監督はこの映画で、自身のルーツと未来を探っているようにも見えた。そして、それは”世界”のルーツでもあり、未来でもある。
”難民問題”を考えるときに、ぶち当たる壁。
よりよく生きようとすることとはどういうことなのか。
彼らの場合。私の場合。
ぶつかり合う利害。奪い合うパイ。
個人レベルで。世界レベルで。
”難民”≒”ヒューマン・フロー”
それは、
”彷徨えるアイデンティティ”であり、”彷徨える未来”でもある。
受け身で観ると退屈な映画。
でも、一度は鑑賞してみてほしい。
圧倒される。