楽園(2019)のレビュー・感想・評価
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4はつけてあげたい。
人間というものを良くも悪くも解釈次第でよく描かれています。これらは演技する人の力が大きいと思いました。何か結論を求めたりする人やハッキリとした結末が欲しい人にはちょっと微妙な評価だと、、、個人的には4です。爽快感が欲しい時に見ていたら3ですね、、。
景色は綺麗だった
田舎の村人とか老い先短い爺さん婆さんの頭が物凄く固く、融通なんか一切きかないって当たり前すぎて何とも思わなかった。あいかの死体が出てこないのに精神障害ありそうなカンボジア人のたけしが犯人になれるのかって疑問が湧くし、東京で見つかった女の子があいかって名前で無事育ってるのも現実離れだし。ぜんじろうもただの初老のおっさんで今時の無敵の人見慣れると突飛な行動でもなく、つむぎが藤木みたいな偏屈爺さんにそんな罪悪感に苛むのも全然共感できない。片岡礼子のヌードも必要性感じないし、幼馴染のひろも相当ウザいから普通なら近づくとも思えないので徐々に親密になるのもなんだかな。なにもかもが共感できず景色が綺麗だった。
消化不良によるテーマの不在
エンディングに流れる音楽の歌詞の内容が全く入ってこなかったことがとても印象的でした。ストーリーが進む原動力となっているものが「Y字路」しかなくて、全部が唐突に変化する。きっかけや予兆無く爆発する感情がときに複雑でときに素直で気持ち悪い。私はこっち側の人間なんだろう。
良い点:画面のトーン、役者、風景
悪い点:焦点がわからない
ラストパラダイス
原作未読 ぜぜイズムというか、かなりの酷しいリアリティを観客にほおりなげる作品である。群像劇の様相を呈してるのは、原作の二つの短編を合体した作りになっているからであり、三人の主要人物が薄い範囲で影響し合う構成。直接的にはストーリーは混ざってはいないし、“場所”という基礎のみが同一されていて時間軸が流れていく。
まず、何が難しい内容かと考えるに、このシチュエーションを経験していないから感情移入ができない、故に心情を咀嚼することが難しいことが上げられる。なぜならば、今作のような“村”という限界集落の現実というものをメディアを通じてでしか知り得ない立場からすると、“村”の陰と陽をステレオタイプでしか捉えられないのである。
共通項は『閉鎖社会に置ける暴力的排他性』。一方は『スケープゴート』もう一方は『村八分』という邦画が60~70年代に得意としていたホラーサスペンス要素の復活を匂わす画力だ。しかし探偵みたいな立ち位置がいないのであくまで種明かしはなく、問題解決のない、カタルシスとは真逆の着地である。ラストの女の子の決意は物語の救い的な落とし所になっているが、チョッカイだし続けていた男が突然の白血病的な展開きっかけに少々の不自然さを得てしまう。何だかんだツッコミ処は散見してしまうのだが、テーマ性が人間の本質を如実に表現されて、その深さとあからさまな叙情の溢れ度合いに斜め目線を許さない迫力をビシビシと浴びせかけてくるのだ。
村人達の容赦ない感情の吐露、全てを自分達に都合良く納めて楽になりたいと思う強欲さ、川に溺れた犬を棒で叩く事に血眼になる、まるで地獄のような惨劇。そこには救いなど在りようもなく、唯唯、強烈な『業』が幅を利かす世界が拡がるのみ。タイトルである『楽園』とはそんな掃き溜めのような世界であり、それが世界中に存在する社会なのだ。自分の楽園を作る事すら認められない追い詰められ方は、暴発をも受け入れなければならない、そんな自然の道理を人間は今一度思考すべきだと思い返される作品である。
ヤフコメで散見される“自己責任論”、を言い放つ輩がこの田舎の連中と同じ。劇中では主人公の女の子は全てを抱えて生きていく決心をする。翻って、コメ住人達は気持が引っ張られる事に苦しい故、楽になりたい、荷物を卸したい一心で、自分には無関係なのにスパッと切り捨てる。まるで柄本明演じる老人と同じだ。エンディングを思い出して、そのことが痛い位充分理解出来た気がする。
原作を読んでから鑑賞しました。 2つの話がどう繋がるのか、膨らむの...
原作を読んでから鑑賞しました。
2つの話がどう繋がるのか、膨らむのか楽しみにしつつ観ましたが、原作を読んでいてもさらに楽しめました。
Y字路は、事件が生まれた分かれ目とあの集落に生きる人々の心も表していたのかな?とも思いました。
自分がここにいる意味。誰かに認めてもらいたい。受け入れてもらいたいという願い。
誰もが持っているはずなのに、他人のは無視してしまう時がある。不安だから、結果を欲しがる気持ち。その先にあるのは、正解とは限らないのに、正解と思い込ませる気持ち。
人は優しいだけじゃない。キレイなだけじゃない。怖くて、醜い姿を持っているんだとあらためて感じた作品でした。
綾野剛、佐藤浩市、杉崎花だけではなく、演じる方々の演技もよかったです。
残された者たち
生きる場所を楽園にするか地獄にするかは、その環境とその人次第。
誰も彼もが腹に一物持っていて、それをどの方向に向けるかはその環境とその人次第。
少女失踪事件を中心に置き、取り残された者たちの傷と人生を、淀んだモノをたっぷりと含ませて描く作品。
サスペンスフルな構成のわりに、事の真実には特に重きを置かず、むしろ中途半端に匂わせて投げてくる脚本には少しモヤモヤが残る。
起こる大きな出来事はもちろん、かなり細かい所にまで「嫌だな」と思わせるポイントが散りばめてある。
排他的な老人たちとムラの性質、後味の悪い集団心理、些細な言葉から滲み出る差別的な思考。
青果市場で小言をくらう紡と、善次郎の足元に頭を埋めた久子の好きはその最もたるシーンだった。私にとっては。
さりげなく存在していた愛華の弟にも地味に不穏を感じた。本人めちゃくちゃ元気で拍子抜けしたけど。
多くの人が無意識に持っている、人間の「イヤさ」を徹底的に目の前に広げられて、心がズンと沈むようだった。
大袈裟に見せるわけではなく、あくまでも淡々とそのまま置いていくトーンが地味にしんどい。
誰が何をしていてもどこかスリリングで、ピリッとした空気が流れる。
わりと衝撃的なことを唐突にスルッと見せてくる、そのテンションに戸惑った。
日常の延長線に事件があることを示されているように感じたけれど、もう少しドラマチックに味わいたかったかな。
登場人物は魅力的なのに、辛気臭い空気にメリハリが付くでもなく最底辺に落ち込むこともなく、ドヨーンとしているだけに思えてしまう。
嫌〜なことばかり起きる中で、紡を慕う広呂の存在が癒しだった。
広呂の存在は最初から紡の中で大きかったと思う。
あんなふうにまっすぐに想われるってどんな感じなんだろう。少しうざったい気もするけど、なんせイケメンだったしなあ…。
リアルで生々しいタッチの中に、どこかファンタジックで映画的な表現が混ざるシーンがとても印象的だった。
「楽園」という日常ではあまり使わない言葉が少し浮いていて、そのちょっとした違和感も嫌いじゃない。
スッキリする真実なんて以ての外、重々しく暗く沈む真実も得られず物足りない気もするけど、この映画のつくりや雰囲気は好き。
友達、家族、愛する人、時代、様々なものに取り残された人間の、どうしようもなく生きる様を観られただけでも良かった。私は何があっても生きていきたい。
息苦しー
聞いたことあるような事件(実際の事件が元ネタとか)の裏側を描いた、すごく重い話。
スティーブン・キングも真っ青の限界集落の重苦しい人間関係。観てるこっちも息苦しさを覚えるくらい。人間の猜疑心て怖いね。
綾野剛の苦悩する演技も上手いけど、佐藤浩一の鬱々と溜まっていく演技が上手くて怖いです。
島国ニッポンのムラ社会を描く力作
原作は『怒り』『悪人』『さよなら渓谷』の吉田修一。
映画化作品をこのように並べると、自ずと今回の作品もどのような映画かわかるというもの。
近くに山並みが続く田舎町。
ある日、ふたりの小学生女児がY字路で別れた後、ひとりが行方不明になってしまう。
町では捜索隊を組織して懸命に探すが、赤いランドセルが川端で見つかったほかは何も持つからなかった。
それから12年。
再び同じY字路で、またもや女児が行方不明になってしまう・・・
といったところから始まる物語は、いわゆる犯人探しのミステリーのようにみえるが、映画の焦点はそこにない。
描かれるのは、島国ニッポンのムラ社会。
小さな共同体を維持するために余所者・異分子を徹底的に排除する、というもの。
物語は概ねふたつで、それぞれ吉田修一の連作短編に基づいている。
ひとつめは先に書いたY字路の物語。
余所者と目されるのは、文字どおり移民(本人たちは難民と言っているが)の青年。
タケシという青年を綾野剛が演じている。
12年後に起こった事件、そして12年前の事件の犯人と決めつけられ、村人たちに追われ、結果、焼身自殺をしてしまう。
ふたつめは、親の介護のために故郷に戻った中年男の物語。
介護のためのUターンを村のひとびとは、「立派だ」とはいうものの、一度村を棄てて出ていったことに変わりはない。
さらに、養蜂で村おこしをいうに至って、異分子とみなされる。
徹底的な排除により、怒り心頭に達した男は、村人たちを惨殺してまわる・・・
戦前に起こった「津山三十人殺し」を彷彿させる中年男・善次郎を演じているのが、佐藤浩市。
このふたつの物語で描かれる排他的悪感情は凄まじい。
田舎のことだと決めつけることはできず、現在の都会のコミュニティやSNSのなかでも同様のことは起こっている。
SNSでは、ただ直接的な接触がないだけ。
だから、観ていて恐ろしい。よそ事、とはおもえないから。
そして、ふたつの物語をつなぐ役割が杉咲花演じる紡(ツムグ)という少女(12年後には成人しているが)。
紡はタケシにも善次郎にも悪感情は抱いておらず、むしろ、他の国から来た存在、別の世界をつなぐ人としてみているのだろう。
なので、紡は都会へ出て、ひとりで生きていこうと決意する。
タイトルの「楽園」という言葉は終盤2度登場する。
ひとつは、タケシが語る台詞の中。
そこでは、「ディストピア」としての意味を語るのに用いられている。
ふたつめは、ラスト。
紡の幼馴染のヒロ(村上虹郎)が彼女に投げかける台詞で、ここでは文字どおりの意味で使われているが、これはこの作品では余計なことだったのではありますまいか。
製作者サイドは、いわゆる「明るい希望」を表すようなラストにしたかったのだろうが、この台詞でガクッと腰砕けになってしまいました。
とはいえ、かなりの力作です。
不審者を見かけたら110番に
不審者を見かけたら110番に
犯人を突き止める、サスペンス映画と思ったら村社会がメインでびっくり。
タイトルである、楽園の意味はなに?
結局犯人は彼でいいの?それなら村のみんなが追い詰めて殺したと言える?
渋谷であいかと呼ばれていた女の子はたまたま?深い意味はない?
とまあこんな感じで消化不良はたくさんありました、が、もう一度見たいというくらいには好きな作品でした。
限界集落という狭い世界で、一度目をつけられたら終わり、居場所は無くなってしまう。たけし親子の居場所がなくなったのだってそのせいもある、そして次は善次郎の番。立場のある老人たちだから学生のいじめより余計タチが悪い。
ただたけしが犯人だった場合、集団で人間を貶める恐ろしさは伝わらない。あいかは本当はどこかで生きてるってことがあったり、?
佐藤浩市出演のシーンは本当にすごい。映画自体が締まる感じがする。人当たりが良くてみんなから頼られる万屋善次郎から、徐々に居場所をなくして心を壊す。ラストにかけての演技が圧巻でした。
自分の居場所という楽園を探すタケシとその母
妻を感じることのできる楽園を探す善次郎
自分が生きることを許される楽園を探す紬
楽園についてはこの程度の解釈しかできませんでした、、
ロクヨンに比べて映像はとてもトーンが高く、寄りの映像が多く画面が揺れ酔いそうな場面が多々あった。これは人の感情や脳の揺るぎなど人間の不安定さを表していたのでしょうか。
☆☆☆★★★ 原作読了済み。簡単に。 原作は5本の短編集の話。 「...
☆☆☆★★★
原作読了済み。簡単に。
原作は5本の短編集の話。
「青田Y字路」
「曼殊姫午睡」
「百家楽餓鬼」
「万屋善次郎」
「白球白蛇伝」
予告編を観て感じたのは。この5本の中から、てっきり「青田Y次路」だけで構成されているのだろうと思っていた。
実は、原作を読みながら感じたのだけれど。原作を読み進めて行くと。(あくまでも個人的な意見として)段々と面白くなって行く気がしていた。
何故 ?この中で「青田Y字路」なのだろう?…と。
寧ろこの監督の作風を考えた時に、「万屋善次郎」こそが1番相応しいのでは?と思っていた。
映画本編は、「青田Y字路」と「万屋善次郎」それに映画オリジナルと言える、紡から見た物語の3っから構成されていた。
文庫本には監督本人のあとがきがあり。監督の言葉をかいつまむと…。原作者吉田修一のフアンと公言し。それらの著書には、地方に住む人の都会に対する憧れや、そこから発生するねじれた行動。また、中央と地方の対立概念。更には、人間の心に潜む差別的な行動原理等を挙げている。
それだけに。佐藤浩市演じる(後に)限界集落の村から差別を受ける善次郎が登場した時に、「ああ、やっぱり!」…と合点がいった次第。
観た印象として。どうやら「青田Y字路」を取っ掛かりとし、人間の引き起こす差別によってもたらされる事件に、監督自身は興味があり。趣きを置いているのだろう…と思われた。
そんな「青田Y字路」や「万屋善次郎」で描かれ起こる事件の背景は。罪の意識の無い人が起こす差別だからこそ根が深い。
人によっては、何の悪ぶるところも無く罪の意識も無い。
だが一方では。(明らかに悪くは無くとも)自分が引き起こしてしまったのでは?…との、罪の意識に苛まれ。粛罪を背負って日々を生きる人も居るのであろう…と。
ちなみに、「万屋善次郎」では、片岡礼子演じる女性は登場しない。
原作で、善次郎に対して優しく接するのは。映画のキャストの中だと、本来ならば吉行実子の筈。
だが、ここに片岡礼子を配した事で。(ほんの少しだが「曼珠姫午睡」の主人公である不倫願望を持ちつつも。最後にはそんな思いを捨てさる女性の、英理子の影をもちらつかせていた。
原作自体が短編だけに。別々の話を挟み込む為に起こるであろう違和感は、原作を読んだ身として。意外にも観ていて、スンナリと観ていられた…とは思う。
(但し、動物に対して人間が行う差別=虐待の論理が薄まってしまっている感は否めないのですが)
「青田Y字路」に「万屋善次郎」は。共にどこか救いのない終わり方だっただけに。映画はオリジナルの紡と広呂の物語を挟み込む事で、なかなかこちらの拙いレビューでは表現仕切れないのですが。どこか【粛罪】に苦しむ苦悩を描きながらも。原作には無い《一縷》の望みを託したラストにより、余韻を伴った締めくくりになっていたと思います。
2019年10月24日 TOHOシネマズ日本橋/スクリーン2
信じた人は殺人犯なのか?
観る側に委ねられすぎて賛否両論あるのは分かります。が、作品の良し悪しの前に〝観る〟そして考えることに価値のある映画だと思いました。
被害者側にも、加害者側にも誰もがなり得る、大切な人を残して逝く人にも、残される側の人にも。わたしが、わたしの身近な人があちら側に行くかもしれないという恐ろしさを感じました。そして、それと同時に登場人物全員愛おしい気持ちにもなりました。どうしようもないやるせなさ、行き場のない気持ちを書かながら生きてゆく姿の健気さ、苦しくもありましたが美しかったです。
俳優陣の素晴らしい熱量のお芝居に拍手を送りたいです。主演の綾野剛さんはもちろん、壊れてゆく佐藤浩市さん、そしてなにより杉咲花ちゃんが本当に本当に素晴らしかったです。彼女の代表作になるのではないでしょうか?内に押し込めた繊細な空気感、柄本明さんとやり合っても負けない力、圧倒されました。
この作品を届けてくださった瀬々敬久監督にも心より感謝します。どうか、たくさんの人に届きますように。
岐路と選択
人間は1日に、9000回の判断をして生きているそうだ。テレビのチャンネル、電車の乗車位置、ランチのメニュー…。その何処かに人生の岐路はあるはずだが、大半は後から思うもので、その瞬間には、選択をしている意識すら無いものだと思う。
本作の二人の主人公、紡(杉咲花)と善次郎(佐藤浩市)も、そんな岐路を後悔しながら、閉鎖空間である村社会に暮らし、それぞれの物語を生きていく。2人の接点はもう1人の人物、豪士(綾野剛)の物語でつながりを持つが、全く別の物語という面白い構成だ。後で知ったが原作は2作の短編とのこと。なかなかのチャレンジだ。
紡は幼い頃、学校からの帰り道、Y字路で分かれた友達が行方不明になり見つからず、その責任の一端を感じながら生きてきた。豪士は、幼い頃に母に連れられて日本に住むが、母に捨てられる恐怖を抱え、狭い村にも馴染めず内向的に成長する。善次郎は、早逝した妻を忘れられず、思い出を胸に生まれ故郷に戻り、養蜂を始める。そんな時に豪士を巻き込む事件が起き、村人は秘めていた閉鎖性と排斥性を剥き出しにし始める。
全体的にのっぺりと重いトーンであったが、役者陣の奮闘で飽きずに最後まで。ちょっと間違えたら、滑稽な演技になりかねないところを、皆さんうまく落ち着けた感じがする。柄本明さんも、孫を失いどうして良いかわからない老人を名演。諦観や壊れた心の片鱗が垣間見える、独特の雰囲気だ。
スケープゴートを見つけて、叩くことで全体の安心を得る。昔ながらの田舎の村の話ではなく、日本全体もあまりかわって無いのかもしれないと、少し怖くなった。
ラストの紡の選択と電話のシーンは、賛成。それがあるからこそ、この映画のテーマである怖い性質が際立ち、全体の閉塞感が思い返された。でも、そのせいでもう一度見ようという気にならないけど。
二度観ることは当分ないだろう
私の持論、「この映画は一度観ただけでは面白さは分からない」というのはただの言い訳。
ほぼ、最初見て面白いと思わなかった映画をすぐにもう一度見て面白いと思うことはない。何十年とか経てばわからないけど。
まあ、そんな映画。
最初に面白いと思えた人にはいい映画だろうし、そうじゃない人には、謎の映画。役者は頑張ってるんだろうけどね。
結局、楽園と思えば楽園になるかもしれないし、そうじゃないと気づいた時にはそうじゃなくなるんでしょ。そんなの知ってた。
閉塞感から抜けるということが楽園なのか。
長野の田舎で小学生が行方不明になり、いまだ見つかっていない。12年経過し、第2の行方不明者が出るも、それは発見される。
第3の事件は田舎の人間関係からの村八分になった男が同じ集落の老人6人を殺す。これは犯人と動機がハッキリしている。
ただ、その事件を描くことがこの作品の目的ではない。ミステリーなら犯人がきっちり描かれるはずだし。
そうではなく、
行方不明になった少女と最後にあった紡、
労働目的でやってきた母親を持つタケシ、
早期退職でUターンし養蜂をしていてのちに村八分になる善次郎、
3人の闇の部分、3人が周囲から受けるプレッシャー、3人が12年の間に揺れ動く心情を浮き彫りにしていくことがこの作品の目的では、と受けとめた。
群集心理で動く犯人捜しは根拠がなく、それで犯人扱いをしてしまう心の弱さを誰もが抱えている。それが露わになった。
楽園とは
率直に言うと和製ジョーカー。
ジョーカーを先に見たため余計にそれを意識した。
まずこのお話には最後の最後まで徹底的に救いが無い。特に善二郎の物語はジョーカーそのものだ。1人の普通の男がどのようにして、村の人間を6人も殺傷してしまう殺人鬼になったのか。
誰が少女を誘拐したのか。それは最後まで明言はされない。もしかしたら生きていてどこかで幸せに暮らしているのかもしれない、又は外国籍の青年が誘拐したのか。
作者が描きたかったのは明確に個人を犯人とすることでは無い。
村の全ての人が少女を誘拐したのだ。そう思った。
狭い集落の中で起こる排他的な村八分といういじめ。
外国人というだけで差別的な扱いを受ける青年。
それら全ての人が少女を誘拐し恐ろしい連続殺人事件を起こしたのだ。
この作品に出てくる登場人物ははそれぞれ楽園を探してもがいている。
それらのもがき、苦しみが一切ない楽園は果たしてこの世にあるのだろうか?
つじつま合わせに生まれた僕等
高層ビルに磔の 価値観は血の涙を流す
消費が美徳の人間が こぞって石を投げつけるから
騙されねーと疑い出して 全部が怪しく見えてきて
人を信じられなくなったら 立派な病気にカテゴライズ
不健康な心が飢えて 悲劇をもっとと叫んでいる
大義名分が出来た他人が やましさも無く断罪する
人殺しと 誰かの不倫と 宗教と 流行の店と
いじめと 夜9時のドラマと 戦争と ヒットチャートと
ふざけた歴史のどん詰まりで 僕等未だにもがいている
結局なにも解らずに 許すとか 許されないとか
死刑になった犯罪者も 聖者の振りした悪人も
罪深い君も僕も いつか土に還った時
その上に花が咲くなら それだけで報われる世界
そこで人が愛し合うなら それだけで価値のある世界
だからせめて人を愛して 一生かけて愛してよ
このろくでもない世界で つじつま合わせに生まれた僕等
amazarashi / つじつま合わせに生まれた僕等 より抜粋
この世に楽園なんて在りはしなのか?
在るとするならば、
それはヒトの拠り所であるこころの中だけなのか?
だがそんなささやかな幸せさえも
人生においてほんの一時に過ぎないのか?
楽園をこころに抱き続けるにはあまりに短い、
こころを膿むにはあまりに長い、時の螺旋状…
それでも、我々は渇望する。焦がれる。
もがき、抗いながら、安息の地を求める…
ギスギスした都会にも、花は咲く。
自然に溢れているが、封鎖的な限界集落。
「どこへ、いっても、おなじ…」
やるせない。ただ、ただ、やるせない…
暴力や戦争を用いて理不尽を表現する以上に
無関心を決め込む社会の風潮に紛れ
声高に主張する煽動者による決め付けが
こんなにも理不尽を生むのかと、ただ、ただ、呆然…
だとしたら、何を信じればいい?誰を信じればいい?
そして、何をすればいい?
わからない。わからない。わからない。
自分の作った楽園に逃げ込むか?
自分しか存在しない楽園に…
それは果たして楽園と言えるのだろうか?
愛するヒト、信じたヒトがいる「この世界」を
楽園だと思うことはできないだろうか?
そんな疑問符を投げかけ続けて幕が降りる…
瀬々監督の過去作『友罪』と同じ構造ではあるが
本作『楽園』は更に人間の集団心理が絡み合う
極上のサスペンス!いやほとんどホラーに近い!
最後まで12年前の事件の真相を明確に語らない
切り口が、様々な解釈を生む。
目を覆いたくなる事件が近年に増し、
各方面のメディアを通じて色々な報じ方がなされますが
我々はその報道をどう受けとめ考えたら良いのでしょう?
加害者が当然悪い。だが被害者に全くの非がなかったと
誰が言い切れるのでしょう…
ひとつの事件が、
社会の歪みを暗示しているのではないか?
社会全体の問題の種が、知らず知らずのうちに
各個人に植え込まれているのではないか?
あなたにとって、社会問題を考える上で補助線を
一本でも増やせるような作品になることを願います。
合わなかった
ミステリーが解かれるに連れて、だんだんと繋がる伏線。
そしてラストで一気にこっちと繋がってたのか!
という映画ではなかったのでした。
二つ目の行方不明事件の時の地域の人が一気に行動し始めたところでリアリティが感じられず、退屈になってしまいました。
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