「「日記」か「ある視点」か」ぼけますから、よろしくお願いします。 critique_0102さんの映画レビュー(感想・評価)
「日記」か「ある視点」か
観察者の視点と状況への参加者の視点。
この双方をどのように映像に埋め込むのか。これが本作品の重要な課題だろう。
認知症を患う実の母親を(そもそも認知症を「患う」という言葉で語っていいのか、さらに言えば「認知」症という名付けでいいのか、これもまた考えなければならないのだが)、カメラで捉える彼女の視線は娘のそれではない。そこにあるのは、監督者であり映像表現者の姿だ。
本来はその場に参与すべき家族であるにもかかわらず、冷徹なまでに客観的な視線を送る彼女の姿はわからないでもない。だがしかし、そうであるがゆえが、映画を観る者にとっては複雑な思いにさせられる。
彼女の中にある観察者の視点(監督)とその場への参加者の視点(娘)の視点は、果たして重層的たりえただろうか。
我々をして観察者足らしめる視点というものは、言い換えればエゴイスティックな俯瞰であり、ワクに嵌め込もうとする理解である。これについて、この映画を通して我々は反省的に自覚することを迫られる。
この作品はドキュメンタリーである。
ドキュメンタリーであるがゆえに、本来は、そこに登場する人々の言葉が生の「血の叫び」として我々に届くことを、人は期待する。しかし、本作品において、観察者=参加者であるがゆえに、この「血の叫び」が一般化されてしまった。前提として、観察者=参加者であることを共有化してしまった我々オーディエンスは、いくら自分の身をそこから引き離そうとしても参加者たりえなかった彼女のカメラワークの支配にある。だから、その視点からしか、語れないし視ることもできない。
だからかえって、
両親を賛歌するだけに終始する薄っぺらな作品としないことを意図していたのであれば、監督者自身の「血の叫び」を、もう少し丁寧に描き切って欲しかった。小さい頃から、なんの不都合もなく、両親の愛情を一身に受け、そのことを躊躇いもなく語ること(一人っ娘で、国立中高一貫校に進学し、映像の中にもあるような大学「名」を受験をし、映像プロデューサーでであること披瀝する。このような、本来は必要のない「字幕」を入れ込むこと)ーこのような饒舌なしで、この「ドキュメンタリー」を語っていたとしたら、彼女が語った言葉ー「寄り添う」ーもさらに身に迫ってきたことだろう。そして、さらに言えば、彼女の病魔の宿痾をさらにオーディエンスの身近なものとしたいたことだろう。
本作品がが小賢しい日記でないとすれば、そしてまさにドキュメンタリー映画足らんとするのであれば、、そこには、全ての者(それを「演じる者」、それを「語る者」、そしてそれを「受け止める者」)の呻き、嘆き、泣き、笑いが描かれていて欲しかった。せめて、両親の製作者へと向けた「慟哭」を受け止め、その言葉で投げ返す、そのような「声」を聞きたかった。
自動洗濯機を使わない父親の3時間は、娘への「問いかけ」であり、それに答えた彼女の声は、やはり「観察者」の視点でしかない。参加者は、否定と肯定の言葉を持ちうるが、観察者はそうではない。その告白ではないか!!
この映画の100分余り、
「私を殺してくれ」の叫びの意味ばかりを考えていた。