「一人の女の生きた足跡を描く映像詩」ラストレター keithKHさんの映画レビュー(感想・評価)
一人の女の生きた足跡を描く映像詩
遠野未咲という、自死した女の生き様、生きた足跡を、他者の視座から描いた作品で、予告編やTVCMのようなラブストーリーではないと思います。
物語は自死そのものには触れないまま、自死後の現在、そして30年前の未咲の日々を忠実に粛々と記録して進み、そこには苦渋や屈折や挫折といった重苦しさは一切ありません。
画を捉えるカメラは、前半は松たか子扮する裕里の視座でややコミカルに姉・未咲の足跡を辿り、後半は福山雅治扮する乙坂鏡史郎の深刻で重々しく、悔悟の心情が込もった目線で描き出しています。
そのメリハリはあっても、従い、映画は裕里と乙坂のセンチメンタルジャーニーを追いつつ、各々己が今在る原点を探ることにより、己の人生を見つめ直し覚醒していきます。
比較的ローアングルカットも多いのですが、画像に威圧的な印象はなく、寧ろ被写体の人物、特に乙坂の意思の強さ、確固たる決意と行動力を感じさせます。
裕里の視点の時は、手持ちカメラが多用され、不安定なカットにより裕里の揺れ動く不安な心情が漂います。一方で乙坂の視点では、カメラはフィックスで比較的長回しも多く、乙坂が確信を持って固い意志と決意で行動していることが画面から滲み出てきます。これまでの半生の間、無自覚的に韜晦してきた己の原点、即ち原罪を探り当て、徹底的に自省し自戒することにより、新たな自己の創生を希求する、その強烈な意思が湧き出ていました。
広瀬すず演じる遠野未咲の、そこに実存しているかのように儚く時空を行き交って物語の舞台回しをしていく役割は、将に幽玄であって物の怪の如くであり、翻弄されて一旦は自己を見失う裕里と乙坂は、過去に行なってしまったこと、行なえなかったことに引き摺られ、縛られてしまっている現代人を表象し、その苦悩と悔恨を体現しているようにも思えます。
ストーリーはあるものの波瀾もどんでん返しもなく、極めて淡々と静かに時間が進んでいく、この映画は、岩井俊二監督による、一人の女の清冽にして激烈で無器用な人生を謳い上げた、いわば映像詩といえるかもしれません。
その視点で遠野未咲を見てみると、故・辻邦生氏の初期の小説の代表作「夏の砦」の主人公、支倉冬子と重なり合うように感じます。