「ロマンティシズムの奥底に横たわる「うしろめたさ」」ラストレター りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
ロマンティシズムの奥底に横たわる「うしろめたさ」
岩井監督作品って、そういえば『Love Letter』と『スワロウテイル』ぐらいしか観ていません。
珠玉のラブストーリー・・・というのが謳い文句ですが。
40代半ばの主婦・裕里(松たか子)。
姉の未咲の葬儀のあと、彼女の娘・鮎美(広瀬すず)から、未咲に宛てた同窓会の案内と、美咲が残した鮎美宛ての最後の手紙があることを知らされる。
鮎美宛ての手紙は彼女に委ねることとしたが、生徒会長だった姉の死を告げるために裕里は同窓会に赴く。
しかし、25年ぶりの同窓生たちは裕里のことを美咲と勘違いし、あまつさえも開会のスピーチまでせがまれてしまう。
本当のことを言い出せず、美咲になり替わってスピーチしたものの、いたたまれなくなり、すぐに会場を後にする美咲。
その背後では、もうすぐ取り壊される母校の写真に重なって、卒業式で美咲が読んだ卒業生代表の挨拶の声が流されていた。
帰途のバスを待つなか、裕里を追いかけてきたのは、乙坂鏡史郎(福山雅治)だった。
彼とスマホで連絡先を交換した裕里だったが、交換後に何度か連絡をしたのち、その内容を不審がった裕里の夫(庵野秀明)の癇癪のためスマホは毀されたため、乙坂から渡された名刺をもとに、簡単な手紙を送ることにした。
しかし・・・
作家の肩書を持つ乙坂は、高校時代に美咲宛てにラブレターを送っていた相手だったが、その手紙を仲介していた裕里は、その手紙を美咲には渡さなかった経緯があった・・・
というところから始まる物語で、書簡小説の映画化のような雰囲気。
書簡小説というのは、手紙だけで物語が進んで行く小説で、この映画の作りとは異なるけれど、雰囲気は似ている。
手紙・・・というツールは、書き手そのものがあらわれているように思えるが、その実、ほんものとは異なる。
たしかに、心情を吐露するがゆえに真実に近いように感じるが、何かしらを隠している。
この「何かしら」が重要で、映画で描かれる場合、特にロマンスものの場合、その奥底にはある種の「うしろめたさ」が隠されている。
この映画ではそれが如実で、わかりやすいのは裕里である。
高校生時代の初恋の相手・乙坂。
高校時代にも姉・美咲に彼からのラブレターは渡さず、秘かに姉になりかわって返信をしている。
年を経ても、どこか浮足立ってしまい、正体はわからないだろうと、姉になりかわってしまう。
浮足立ってはいるが、うしろめたい気持ちをある(そのうしろめたさが夫に伝わって、スマホが毀されるということになるわけだが)。
乙坂についても同様にうしろめたさがある。
ここからはネタバレ。
彼は同窓会にあらわれたのが裕里だと気が付いている。
気が付いているにも関わらず、初恋の人・美咲のことが気になり、手紙でのやり取りを続けてしまう。
途中から、そのやり取りの中に、別人の手紙が混じっても続けてしまう。
別人からの手紙が娘の鮎美だと気づいているかどうか不明だが(なにせ筆跡がまるで異なるので別人だと思っているに違いない)、気づいているからこそ、美咲のことが気にかかり続けてしまう。
彼は、一時期、美咲と付き合ったことはあるが、彼女が別の男性に走ったこと、走らせたことに踏ん切りがついていない。
それを隠して、「同級生」の乙坂として振る舞ってい、それに関してうしろめたさがある。
うしろめたいことは、さらに、美咲の娘・鮎美にもあり、彼女は母親と乙坂の関係を知っている。
知っていながら、知らぬふりをし、乙坂が現れることを期待している。
現れないまでも、彼が本当のところ、どんな人間なのかを知りたがっている・・・
ロマンティシズムとは、果たせなかった夢、手に入れることが出来なかった憧れだと思うが、そういう自分を納得する自己肯定ともいえる。
ただ、自己肯定だけで終わってしまうと、ただの「自己満足」にしか過ぎないのだが、同時にその夢や憧れやそれに関わった人々を受け容れることで、一段、昇華できるのだと思う。
そして、そのロマンティシズムには、往々にして、うしろめたさがつきまとう。
肯定できない自分・・・
うしろめたく肯定できない自分、自己に受け容れた他者、肯定した自己・・・というのがロマンティシズムなのだろう。
この映画は、そんな映画だと感じました。
追記
裕里、鮎美、乙坂をポジとすれば、美咲の夫・阿藤は陰画(ネガ)。
ならば、美咲はどうなのか。
自己を肯定できないまま死んだ彼女は、裕里、鮎美、乙坂に受け容れられ、理解されたことで、ポジに変わったかもしれません。
この映画の主役は、画面に一切現れない、高校卒業後の美咲かもしれません。
さらに追記
この映画では、ロマンティシズムの奥底にある「うしろめたさ」を強く感じたわけですが、それ以外にも印象的なところがありました。
それは、死者に対する想い。
「私たちが想い続けている間は、美咲は生きているんでしょうね」という意味の台詞です。
これは常々感じていることだったので、「そうだよ」と納得しました。
この「想い続ける」ことのメタファーとして用いられているのが、「美咲が読む卒業生代表の言葉」と、乙坂が書いた小説。
後者については映画の中でわかりやすく描かれているので、それ以上に言及することはないのですが、前者については補足しておきたい。
ご覧になればわかりますが、タイトルが示すものは、「美咲が読む卒業生代表の言葉」の原稿だったわけですが、これは乙坂との共同作業でした。
これが後の乙坂の小説『美咲』に繋がるのですが、前半で、効果的に使われています。
同窓会のシーン、裕里がスピーチの後、いたたまれなくなって席を立った時に、学年主任の老教師が、自宅で見つけたという「卒業生代表の言葉」のテープ、その音声が流れます。
出席者は神妙に聞いているわけですが、その前に裕里を美咲と勘違いしていることから、皆は実は「忘れている」わけです。
憶えていると言いながらの、忘れている・・・
この残酷性。
忘れない、思い続けていることのメタファーとして、最後の最後に出てくる原稿。
この対比、この語り口はあまりにも巧み。
そして、優しい。
もうひとつ補足しておきたいのは、キャスティングのシンクロニシティ。
相似形といってもいいでしょう。
鮎美と若き日の未咲を演じる広瀬すず、若き日の裕里と裕里の娘・颯香を演じる森七菜は二役なので、当然似ているわけですが、それ以外に、乙坂役の福山雅治と裕里の夫役の庵野秀明も似ている。
似ていないよ、と言われるかもしれませんが、ぼさぼさの髪、黒ぶちメガネ、無精ひげと雰囲気が似ている。
かつ、乙坂は小説家、裕里の夫は漫画家と職業も似通っている。
ぼさぼさの髪、無精ひげというパーツを通して、美咲の夫・阿藤役の豊川悦司も同一線上に並びます。
この相似形は念の入ったことに、裕里の実母役の水越けいこと義母役の木内みどりにも及び、さらには裕里の家で飼われることになる犬にまで及びます。
同じ犬種の大型犬が2頭。
この相似形が美咲と裕理に及ばないところが難点なのですが、これを最後に、乙坂が撮る鮎美と颯香の写真を牛腸茂雄ばりの構図に仕立てあげることで、相似形を生み出しています。
こう考えると、個人的には若き日の乙坂役を八代目市川染五郎に演じて欲しかったところ。
そう、松たか子の甥です。
徹底した相似形のマジックとしてのキャスティング。
そんな妄想も膨らんだわけですが、追記もこれまで、といたします。