永遠の門 ゴッホの見た未来のレビュー・感想・評価
全111件中、81~100件目を表示
孤絶の生涯が磨いたゴッホの才能
持たざる者は自身の優位を脅かされる危険を本能的に感じ取り、持つ者に敵意を抱く。「自分の描く画が理解されなくてもよい。しかし認められたい」という、ゴッホの相反する願いは叶わない。死後でなければ。
ウィリアムデフォーの表情も、佇まいも、生きとし生けるゴッホそのもののようで胸をつかれる。眉間に刻み込まれた深いシワ。削ぎ落とされたような頬の縦じわ。死が近づくに連れて、達観したような深い眼差しが脳裏を離れない。
孤絶の生涯が磨いたゴッホの才能を描き抜いた傑作だと思う。
ゴッホすきな人は絶対みるべし
このストーリーはすべて真実ではないと思います!この監督の真実解釈なんでしょう!人間ドラマがある訳でもなく映画としては面白くないですがゴッホや美術絵画に興味がある人には最高に良かったです!もちレプリカですがゴッホの作品をたくさんみれますよ!一回めのエンドロールの後にゴーギャンがで
てキレイなシーンがでるので座ってて下さいね!ただ音楽がピアノ一つでたくさんながれますが私の心の琴線には触れませんでした!教養着けるには最高の映画でしたよ!
「絵は一刷けで描くものだ」
あの独特の技法と、当時は「不愉快・醜い」とまで言われた構図とデザイン、そして画家の数奇で過酷な運命。人物そのものが“ドラマ”そのものである、ゴッホの伝記映画である。ゴーギャンと共同生活を送るアルルへの移住直前から自殺とされる終焉までの期間が描かれている。
ゴッホ自体の伝記作品は、今作だけでなくテレビ番組も含めれば数多ある題材であり、教科書や読み物等も通して、大体のストーリーは知っている筈である。悪名の高い耳の切り落とし事件を例に出せば、それだけでもう彼の奇行、その元となる精神異常を思い起こさせるのではないだろうか。今作はそういう彼に巣くってしまった精神状態にスポットを当て、それを観客に追体験に相似したアングルや視覚技術で構成されている内容である。近すぎる顔のアップ、彼目線の映像の中央水平の線状ピンぼけ、経った今交わした台詞が心の声のように聞こえるリバース。ネガのような映像になったり、色彩設計の激しさが伴う自然描写と、どんよりと雲が敷き詰められたグレイが強調の屋内や街並。撮影レンズの傾きや回転も演出されていたりして、なるべく主人公の目から映し出す情景を作り出そうとする意図を強く感じる。なので、益々不安感や、不快感を以て映像を追ってしまう。それは作品そのものの否定ではなく、それだけ感情移入が激しいことの証明であろう。アルルの暖かい気候とは程遠い冬の季節特有の吹きすさぶミストラルの冷たさ、種を取られ枯れたひまわり、その景色の中を黙々と構図を追いかけるゴッホは、確かに宗教家、又は求道者、行者そのものである。英語とフランス語を駆使する語学力も兼ね備えているので、単純に学習能力の低さではなく、純粋に気質とメンタル面での脆弱さが最後迄彼を苦しめたのだろうと、今作で学んだ。後はそれぞれの転機の出来事、創作した絵画のモデルや風景等を散りばめながら、悲壮な幕引きへと近づく。126年間眠っていたゴッホの未公開スケッチや、自殺ではなく子供の暴発による事故といった、未だにコントラバーシャルな論議を落とし込むところの野心さも伺え、挑戦的な構築はされているが、今作の一番のメッセージ性は、“ゴッホ”という、絵画を体系立てて習得してこなかった天才が独学でオリジナリティを確立させた裏には、類い希なる深く哲学的で、しかし狂気にも足をかけた非人道さ、決して社会にはコミットできない苦悩を何とかして観客に感じて貰いたいという願いが、ひしひしを伝わる出来映えであった。本当に都合良く自ら起こした事件の記憶を忘れることができるのか、それとも弟に頼ってばかりの家族の鼻つまみ者という位置づけなのか、それともキリストのように未来の為に絵を描いた聖なる子なのか、今作の記憶を辿る度、その答えが固定できず心が揺れることであろう。哲学的な格言も台詞として多く、解読の難解さと、同じような場面のリピート(療養所への往復)の為、時間感覚や場面認識のおぼつかなさやぼやけが顕著になってしまうのだが、それも又この偉大な画家の追体験の一つなのかもしれない。「抑制などするものか! 熱狂していたい!」ゴッホがゴーギャンに言い放ったこの狂言は、あの厚く重ねられた油絵の具の一刷き、一刷きに込めた純粋さそのものであり、凡人である自分が垣間見ることさえ許されない、神の光=太陽の黄色なのかもしれない。
ゴッホの伝記とか読みたくなった
ウィレム・デフォーが良かった。わずかに精神病んでるように見えるのって難しいと思う。
カメラワークは、「ゴッホは緑内障だったのかなぁ!?」と思わせた。
上野での美術展を見る前に、ゴッホの生涯を理解したいとこの映画を見たのだか、こんな痛烈なキャラクターだったとは。もっと知りたくなった。
孤独の中、生き方を模索していたのが伝わってきた。世の中の経済やライフワークについて考えさせられた。
ゴッホが今、目の前にいる…
そんな風な佇まいが、デフォーにあった!
映画が進む中、ゴッホの内面、目線で進んでいくところでは、自分がゴッホになったかのようだった。
ゴッホへの知識がある人は、幾らかの疑問符がつくかもしれない
不遇の天才を辿る先にあるもの
自分は芸術の世界はよくわかりませんけど
後に評価された作家の絵が何十億もで取引されて
回ってる業界には嫌悪があります
その作家が苦しい生活で一生を終えたとなれば尚更
フィンセント・ファン・ゴッホはまさに
その不遇さを代表する芸術家だったと思います
でも不遇と言ってもそれは一般社会から見た世界
からの話で、当のゴッホ自身は自分の世界から見える
美しい世界を辿り着いた技術で描ききったのだと
いう崇高さをこの映画では存分に表現していました
情熱の作家、狂気の作家と表現される所以を
感じ取ることが出来る一作でした
半分ぼやけたフィンセントの主観でカメラが回る
シーンでは心臓の鼓動や病の影響から来る幻聴の
ようなノイズが入り、これが結構没入していきます
昨今芸術という言葉に関して
やれ表現の自由だ補助金だという単語が飛び交い
およそそういう世界とほど遠い連中が跋扈していますが
芸術だからどうこうではなくこうした
妥協なき姿勢で自分の力で表現を貫いてきた
人々の結晶こそ芸術と呼べるのではないでしょうかね
何十億もで取引する世界を嫌悪とは言いましたが
広く世界でそうした芸術家の名が知れ渡り人類史に
名前が残った事に関しては素直に喜ばしい事だと思います
公開してる劇場もあんまり無いようですが
もし機会があればおすすめしたいです
色々と話し過ぎダス!お喋りし過ぎダス!
いやぁ、画には思い切り期待してたんだけど。思いっ切り裏切られた。風景も自然も、もっーーと芸術的に撮れんのんかと。ゴッホの有名な絵画がバンバン出て来て、ハッとするのも最初のうちだけ。
実は結構、イージーな映画じゃないのか疑惑が、沸々と湧き上がりだしてしまって。
生涯を通じて、一本の評論で絶賛された事を除いて、全く評価されず冷遇され続けたゴッホ。描くことへの情熱と自信は、社会からの孤立に、いとも簡単に変化し、孤独感は狂気へと、徐々に置き換わって行く。
何のために描くのか。と言う命題は、ジヌー夫人、ゴーギャン、牧師、二人の医師との対話を通じ、ゴッホ自身が語ります。が。あんまりハッとする要素が無いんだす。地味に。むしろ、左耳のアレに至る過程に至っては、異常性の描写が物足りない。ブラックアウトで、覚えてないです、って何なん?ってなりました。自己願望が叶わない諦めから、鬱に入ったアル中患者、ってわけでもないでしょうし…
デフォーは、全くもって素晴らしかったです。
『永遠の門 ゴッホの見た未来』観ました!
最初はカメラワークがウザいなと思ったのですが、物語の構造上ちゃんと意味を成してるのでこれはアリだと思います!ただ、途中のガキのシーンは固定でいいでしょう…
終盤の方のある表現とかちゃんと狂った人に見えたし興味深かったです笑笑
オススメです!
絵具は粘土のようで、絵は彫刻のよう
それにしても、ゴッホの絵から抜け出たような俳優陣とメイクだ。
ゴッホだけではく、郵便配達人、アルルの女(ジヌー夫人)、そして、医師ガシュ。
前に、ある美術評論家の人がテレビで、美術館のエキシビジョンの鑑賞の方法と言うのを話していた。
始めに全体を歩いて見てから、直感で好きな作品、印象に残った作品、特に自分の家に置けたらいいなと思う作品を見つけて、それらを中心に鑑賞すると良いと言っていた。
特に反論はないが、付け加えさせてもらえたら、所有してたまに出して、じっと見て、頭の中に焼き付けておきたい作品も加えたい。
ゴッホ作品でいったら、「麦秋のクローの野」や「ローヌの星月夜」は、リビングの壁にかけて、ゆっくりくつろぎながら眺めたいが、「星月夜」や「オーヴェルの教会」はそんなわけにはいかない。
どちらかと言ったら、大切に保管しておいて、たまに出して、じっくり鑑賞して、吸い込まれるような感覚を味わいたい。
ゴーギャンがゴッホに、
「お前の絵は、絵の具が粘土のようで、絵は彫刻のようだ」と言う。
付け加えさせてもらえれば、晩年の作品は、構図や線は歪んで、脳裏に巻きついて締め上げるよう感覚を覚えるし、タッチは針でも飛び出しそうだ。
そして、あのずっしりとした大胆な色彩。
ゴッホには何が見えていたのだろうか。
やはり、ゴッホは唯一無二だ。
ゴッホの生涯は悲劇的で、言い方は良くないかもしれないが、ドラマチックだ。
生前は絵が売れなかったこと、弟テオとの交流、ゴーギャンとの親交・確執、耳の切断、精神疾患、テオも決して豊かではなかったがゴッホを最後まで支えた。そして、死。
死の真相は定かではない。ただ、2年前に公開された、ゴッホの絵のようなアニメ「ゴッホ 最後の手紙」でも示唆されたように、自殺などではなく、事故だったのではないかと信じたい。
オーヴェルに移った時は、精神疾患は良くなっていたと信じたい。じゃないと、あれほど多くの作品を残せないだろうと思う。
ポスト印象主義は、後世のアートシーンに大きな影響を与えた。
ピカソは、セザンヌのガルダンヌと言う風景画を見て、これは完成作品なのかと驚き、全体は個の本質の集合(→もっと違った表現だったかもしれない)という考え方を背景にキュビズムを追及する。
これに対して、ゴッホの感情を揺さぶる大胆ともいえる作品は、感情をキャンバスにぶつけるようや表現主義やフォビズムなどに受け継がれます。
やはり、ゴッホは作品を観ましょう。
そんな気になります。
ポスト印象主義に浮世絵の影響が見られることや、白樺派が彼らをプッシュしたこと、東郷青児美術館が大金で「ひまわり」を落札したこともあって、日本ではゴッホは大人気で、エキシビジョンも多く、目にする機会は沢山あります。今は、クオリティの高い画集だってあります。
ゴッホが作中で語るように、彼は絵の中で、作品とともに生きているように思うのです。
まるで美術館へ行ったみたい
デフォーがそっくりで、1枚、1枚絵画を見てるような作り、全編に流れるピアノの旋律。
ゴッホの辿った道は知ってるつもりでしたが、もっと過酷で狂気に満ちていた。
それでも、温かく、太陽、陽射しを大好きと言っていたように、観るものを魅力する。大好きな画だ。
ラストは知らなかった~。ピストルは知られてたがまさか。
酔った
ウィレム・デフォーが、自画像や、ゴーギャンの残した人物画にあるゴッホとイメージそっくりすぎ。
熱演しすぎて、本当に狂ったんじゃないかと思わせてくれました。
丁寧な作りで芸術性に富んだ素晴らしい映画ではあるものの、人の意識を引きつける演出すら抑えてしまっていて。
時々「ゴッホ自身の目でどう見えているか」のカメラワークが入るのですが、ソフトフォーカスや下半分すりガラス状エフェクトが入り、さらに手ブレ。
こんなん、酔うわ。
そして、自問自答の多さ…しかも普段は無口で、突然ぶつぶつ意味不明なことを独り言で呟くので、会話が成立するゴーギャンが登場するまで眠くて眠くて。
少し寝落ちたりもしましたわ。
シュナーベルの自己満足で作り変えられた、悪趣味なゴッホ像
史実をとらわれずに作った作品であることは、観る前から分かっていた。
しかし、シュナーベルの自己満足で作り変えられた、このゴッホ像はひどすぎる。
違和感がある部分を挙げれば、キリがない。
(1)自然がない、色彩がない
ゴッホは事物の実際の色彩を無視して、非常にカラフルに描いたが、逆に、シュナーベルは、確信犯的に色彩を削ぎ落としている。
南仏の自然や風物は、どこに行ったのだろうか?
強烈な太陽や、吹きすさぶミストラル。
果樹園や花盛りの庭、青いアイリス。
アルルの街や公園。
働く農夫、洗濯女。
地中海。
夜のカフェやカフェテラス、そして星月夜。
麦畑や積み藁。
代わりに映されるのは、何も生えていない畑や、ただの原っぱである。
そのため、他ならぬ“ゴッホのアート映画”とは言い難い色調の作品となっている。
(2)許しがたいほど、ゆがめられた人物像
(a) 「“耳切り事件”の前に、すでに精神に異常をきたして入院している」(アルル)
ゴーギャンが来る前は、比較的落ち着いて「果樹園」、「跳ね橋」、「漁船」などを描いていたことは、周知のことである。
しかし本作品では、早い段階で施療院に入って、「人を殺すか、身投げするか」と語っているのだが、そんな事実は無い。
何より、ゴッホが“画家の共同体”を夢見ていたことを、完全にスルーしていることが許せない。
ゴッホが、金欠のゴーギャンを南仏に強引に誘ったのであって、ゴーギャンが「南へ行け」と勧めたのではないのだ。
(b) 「羊飼いの女にモデルになってもらおうと乱暴して、施療院に監禁された」(サン=レミ)
何のためにこんな暴行事件をでっち上げて、ゴッホを侮辱するのか?
また、「許可を得ずに施療院から脱走しようとした」ことはなく、何度も襲ってきた発作ゆえに、ほぼ自発的に施療院で過ごしたのだ。
(c) 「自分をイエス・キリストになぞらえた」(サン=レミ)
ゴッホが神父との会話で語った、「神が“時代”を間違えた」とか、「自分は“未来の人々”のための画家である」と考えていたという話は、一つの人物解釈として、十分アリだと自分は思う。
しかし、画家になって宗教とは距離を置いたとはいえ、「イエスも無名で、30~40年後まで知られていなかった」などと、イエスと自分を比較するような傲岸不遜はあり得ないと思う。
(d) その他、あり得ないと思う改変は、まだまだある。
アルルで「ゴーギャンへの“謝罪のため”に、耳を切って、ゴーギャンに届けようとした」というのは、勝手な創作だ。
また、いかに正気たらんと欲して苦しんでいたかを思えば、オーヴェルでガシェ医師に「病は人を癒やす」とか、「狂気は最高の芸術」などと語っているのは、全く信じがたい。
ゴッホは、言うことがコロコロ変わる人だ。
本作品で、キャラクターが最初から最後まで変化せず、生き生きしたゴッホ像が描けなかったのは、勝手な改変を積み重ねた挙げ句、史実から離れすぎて、身動きが取れなくなったためだろう。
演じたデフォーの年齢のせいではない。
(3)無駄に長い、あるいは、意味不明なシーン
たった111分の映画だから、無駄なことをしている余裕はないはずである。
しかし、ジヌー夫人(酒場でのシェイクスピア談義)、家政婦(花瓶の西洋キョウチクトウ)、同僚の患者(施療院の浴室)等との間で、何の意味も無い長い会話シーンがある。
また、最初や最後の方で、ゴッホが延々と走り続けるシーンがあるが、これもよく分からない。
エンドロールでは、スクリーンが黄色くなってゴーギャンの言葉が語られるが、あの“ダジャレ”に何の意味があったのだろうか?
(4)おとなしすぎるキャラクター、奇妙なカメラワーク
デフォーの熱演は素晴らしかった。
だが、ゴッホにもゴーギャンにも、男盛りの“生臭い”人物像や、強烈なキャラクターに欠けている。
また、カメラの“手ぶれ”もさることながら、「遠近両用サングラス」を使ったという、“下半分のピントがぼやけた”映像が気になった。
それらの“小細工”で、ゴッホの“錯乱した精神”を描写しようとしたとすれば、馬鹿げているとしか言いようがない。
(5)意外にも良かったシーン
とはいえ、普通のゴッホ映画なら、まず描写されなかったであろうシーンがいくつか見られた。
・葦(公式サイトでは“竹”となっているが嘘だろう)で、ペンを作ってドローイングする
・冗長でイマイチだが、“頭で描く”ゴーギャンと、“自然から描く”ゴッホとのアート談義がある
・石を投げられるなど、子供たちに虐待される
・自分を賞賛するアルベール・オーリエの評論に、不快感を示す
特に、モデルに窮していたゴッホが、ゴーギャンのおかげで、ジヌー夫人をモデルに描けたシーンは良かった。
帰宅して、ジヌー夫人が居るのにびっくりして、慌てて画架を降ろして、油絵で直接描き始める描写は素晴らしかった。
(6)結語
その生涯が謎の人物なら、馬鹿げた創作でも許されるだろう。
しかし、よりによってゴッホは、“手紙”の存在で例外的にその人生が知られており、また、そうであるがゆえに、悲劇的人生とあいまって、今も人々を惹き付けてやまない画家なのだ。
ガシェ医師を演じた俳優は言う、「監督を通してゴッホを見て、またゴッホを通して監督を見る」(公式サイト)と。
つまり、本作品で描かれているのは、ゴッホではなく、シュナーベル自身なのである。
シュナーベルは自身、モダンアートの作家として、世界中の観客を挑発したくて、“ゴッホを利用した”と言えるのではないだろうか?
時代が違ったら?
160本目。
監督もアーティスト志向が強いのか独特の世界観、映像。
酔ったらどうしようかとも思ったけど。
時代が違えば、ちゃんとした治療を受けられたと思うんだけど、それじゃゴッホがゴッホでなくなるのかな?
☆☆☆ 謎だ! 本当に謎だ! ジュリアン・シュナーベル程の、世界的...
☆☆☆
謎だ!
本当に謎だ!
ジュリアン・シュナーベル程の、世界的にも評価の高い監督が。今、何故に学生映画の様なホラー映画の撮り方で映画を撮ったのか?全くもって謎だ!
映画は全編の多くがホラー映画によくある画面作りになっている。
画面は固定せずに手持ちで、登場人物達の周りを行ったり来たり。画面は絶えず揺れに揺れカメラ酔いしそうな程だ。
1番分かりやすいのは、ゴッホがあらゆる人物達と会話する場面だろう。
映画冒頭でのゴーギャンとの会話では。カメラは2人の会話を1台の手持ちカメラで、「撮り逃がしてなるものか」…とばかりに。長回しで2人の間を行ったり来たりと、とにかく忙しない。
元兵士との会話では。全てでは無いが、兵士が一方的に喋り。ゴッホの言葉は、画面のオフから聞こえて来る。
あれは牧師なのか?精神病院での会話は、牧師の横顔越しのアップが多い。
映画の後半での弟のテオとの会話では。2人をオーバーラップさせながらの会話で、いずれもホラー映画等でよくある演出だ。
ファーストシーンでもあり、映画終盤に再び描かれる。少女にモデルを頼む場面等は、ホラー描写にしか見えないし。ゴーギャンがアルルを去ると告げると、ゴッホが狂った様に走り出す場面等は、最早ホラー映画でしかなかったし、何よりもカメラ酔いしてしまいそうだった。
ゴッホの映画を観に来たのに。「あれ?俺、『ウトヤ島 7月22日』を観に来たのか?」と、思った程だった。いや本当にマジで!
だが不思議なモノで。ゴッホが自らの耳を切り落とした後での会話では。カメラは固定された状態になる。
(厳密には、レンズを絞っている為なのか?ゴッホの姿に対して、カメラは少しだけ寄ったり離れたりするのだけど。)
観客側の見た目では固定されている様に見えるので。この場面だけが、映画全編の中で際立って落ち着いた雰囲気が漂う。
ゴッホの芸術活動を通した苦悩を描いているだけに、ゴッホ好きならば、お馴染みなモデルとなった人物や。いかにも、「ああ、この雰囲気。この構図はゴッホだなあ〜」…と言った場面が時々映し取られるので、目が離せないのだけれど。映画終盤で、ある有名なゴッホの絵画のモデルとの会話では。ゴッホの肩越しで会話する場面があり…と。
この映画では。人と人とが会話する時に、あらゆる撮り方での会話場面が撮られている。
観ていて、言い方は悪いけれど。まるで学生映画の様に。或る意味でスキルの無い人が、習作の気持ちで映画を撮っている様にしか見えなかった。
もしも数年後に。ジュリアン・シュナーベルが、歴史に残る様なホラー映画の傑作を撮ったのならば。この映画の価値も、死後に価値が高騰する画家の絵と同様に、評価は上がるのだろうけれども。
現時点では、何故?の思いが強すぎてしまい。謎だけが残る作品と言わざるを得ないなあ〜…と。
ところで、初めてゴッホの「ヒマワリ」を見た時に。その異様な迫力に圧倒された記憶があり。何故、生前にゴッホの絵は全く売れなかったのか?が全く理解出来なかった。
作品中に、ゴッホはベラスケスやドラクロワ等の巨匠の作品を仰ぎ見る場面があり。それらの緻密で、人を惹きつける様に計算された構図の作品と比べてしまうと。ゴーギャンがゴッホに言った「君の作品は、粘土を使った彫刻だ!」の言葉は。確かにゴッホの絵は絵の具を盛り上げ、更に何度も重ね合わせていて。当時としては斬新過ぎる作品ゆえに売れなかったのかな〜と、その理由の一端を知る事が出来た。
2019年11月8日 TOHOシネマズ上野/スクリーン8
【画家でもあるジュリアン・シュナーベル監督が新たなゴッホ像を美しいアルルの風景とともに、アーティスティックな映像で描き出す】
南フランス、アルルの明るい陽光と緑に溢れた風景が美しい。麦の穂の中、風を両手を拡げ、全身で受け止める印象的なシーンの姿や、ゴツゴツした岩山をキャンバスを担いで登る姿のゴッホ(ウィレム・デフォー)は従来のイメージと違って生き生きとしている。
パリでは花開かなかったゴッホはアルルに移住し、美しい風景を次々にキャンバスに写し取っていく。
”花は直ぐに枯れてしまうが、私が画に書けば永遠に残る・・。”
一方、意気投合した筈のゴーギャン(オスカー・アイザック)はゴッホの早書きを窘め、風景ではなく人物画制作に没頭する。
この辺りで、二人に不協和音が出てくるが、この映画ではそれを映像、セリフのディテールの積み重ねで描く。
ゴッホが徐々に狂気に病んでいく様は彼の視点と思われる映像が、画面下がぼやけている事や焦点の合わない映像などで表現される。
ゴッホが精神を病んで収容されていた診療所の聖職者をマッツ・ミケルセンが演じる。彼とゴッホの遣り取りは青年期に牧師を目指したというゴッホの精神的な支柱が見て取れるし、彼が決して心を全て狂気に乗っ取られたわけではない事を示している。
又、マチュー・アマルリックがガシェ医師と思われる人物としてゴッホの絵のモデルになっている姿で登場するのも、ジュリアン・シュナーベル監督ならではで、嬉しい。
<美しい風景の中で楽しそうに絵筆を走らせるゴッホ=ウィレム・デフォーの姿が印象的な作品である。>
全111件中、81~100件目を表示