「「絵は一刷けで描くものだ」」永遠の門 ゴッホの見た未来 いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
「絵は一刷けで描くものだ」
あの独特の技法と、当時は「不愉快・醜い」とまで言われた構図とデザイン、そして画家の数奇で過酷な運命。人物そのものが“ドラマ”そのものである、ゴッホの伝記映画である。ゴーギャンと共同生活を送るアルルへの移住直前から自殺とされる終焉までの期間が描かれている。
ゴッホ自体の伝記作品は、今作だけでなくテレビ番組も含めれば数多ある題材であり、教科書や読み物等も通して、大体のストーリーは知っている筈である。悪名の高い耳の切り落とし事件を例に出せば、それだけでもう彼の奇行、その元となる精神異常を思い起こさせるのではないだろうか。今作はそういう彼に巣くってしまった精神状態にスポットを当て、それを観客に追体験に相似したアングルや視覚技術で構成されている内容である。近すぎる顔のアップ、彼目線の映像の中央水平の線状ピンぼけ、経った今交わした台詞が心の声のように聞こえるリバース。ネガのような映像になったり、色彩設計の激しさが伴う自然描写と、どんよりと雲が敷き詰められたグレイが強調の屋内や街並。撮影レンズの傾きや回転も演出されていたりして、なるべく主人公の目から映し出す情景を作り出そうとする意図を強く感じる。なので、益々不安感や、不快感を以て映像を追ってしまう。それは作品そのものの否定ではなく、それだけ感情移入が激しいことの証明であろう。アルルの暖かい気候とは程遠い冬の季節特有の吹きすさぶミストラルの冷たさ、種を取られ枯れたひまわり、その景色の中を黙々と構図を追いかけるゴッホは、確かに宗教家、又は求道者、行者そのものである。英語とフランス語を駆使する語学力も兼ね備えているので、単純に学習能力の低さではなく、純粋に気質とメンタル面での脆弱さが最後迄彼を苦しめたのだろうと、今作で学んだ。後はそれぞれの転機の出来事、創作した絵画のモデルや風景等を散りばめながら、悲壮な幕引きへと近づく。126年間眠っていたゴッホの未公開スケッチや、自殺ではなく子供の暴発による事故といった、未だにコントラバーシャルな論議を落とし込むところの野心さも伺え、挑戦的な構築はされているが、今作の一番のメッセージ性は、“ゴッホ”という、絵画を体系立てて習得してこなかった天才が独学でオリジナリティを確立させた裏には、類い希なる深く哲学的で、しかし狂気にも足をかけた非人道さ、決して社会にはコミットできない苦悩を何とかして観客に感じて貰いたいという願いが、ひしひしを伝わる出来映えであった。本当に都合良く自ら起こした事件の記憶を忘れることができるのか、それとも弟に頼ってばかりの家族の鼻つまみ者という位置づけなのか、それともキリストのように未来の為に絵を描いた聖なる子なのか、今作の記憶を辿る度、その答えが固定できず心が揺れることであろう。哲学的な格言も台詞として多く、解読の難解さと、同じような場面のリピート(療養所への往復)の為、時間感覚や場面認識のおぼつかなさやぼやけが顕著になってしまうのだが、それも又この偉大な画家の追体験の一つなのかもしれない。「抑制などするものか! 熱狂していたい!」ゴッホがゴーギャンに言い放ったこの狂言は、あの厚く重ねられた油絵の具の一刷き、一刷きに込めた純粋さそのものであり、凡人である自分が垣間見ることさえ許されない、神の光=太陽の黄色なのかもしれない。