「人間不在の絵には生命がない」ある画家の数奇な運命 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
人間不在の絵には生命がない
エンドロールの途中で席を立つ人がいる。急ぎの用事があるのかもしれないから、一概に否定するつもりはない。しかしアンミカがテレビで言っていた「アメリカではエンドロールなんか見る人いない。みんな席を立つ」という発言には不快感を覚えた。アメリカのすべての映画館のすべての観客がエンドロールを見ずに席を立つという明確な証拠でもあるならまだ容認できるが、証拠もなしに発言していたなら感心できる話ではない。当方はエンドロールまでなるべく全部見る派である。エンドロールも人の手間と時間がかかっている作品の一部なのだ。
本作品のエンドロールは文字ばかりの普通のエンドロールだったが、BGMがヒーリング音楽みたいで大変心地がよかった。おかげでこの長編映画をゆっくりと反芻することができた。189分の映画だが観ている間は長いと思わず、観終わるとずっしりと来る作品である。それは優れた作品の特徴のひとつだ。
当方は絵画に縁がない。子供の頃から絵が下手だった。絵が上手な子は教師から褒められるが、下手な子の絵は笑われる。自然と絵を描かなくなり上手な子との差はますます広がっていく。だから絵を描く楽しさが分からない。そこが残念で仕方がない。絵を描く楽しさが分かっていれば、下手なりに絵を描き続けていたかもしれないし、本作品の捉え方も違っていたかもしれない。
とは言え、本作品は絵が下手でも美術に造詣がなくても理解できるように作られている。ひと言で言えば、人間不在の絵には生命がないということだ。政治的なイデオロギーによって描かれる絵は、見た人に訴えかけるものが何もないのだ。主人公クルト・バーナートは東側のソ連傘下に入った東ドイツではイデオロギーの枠の中の絵しか描けない。
西側では自由に描けるはずだが、今度はテクニックに惑わされてしまう。クルトの作品にはクルト自身が見えないと教授に指摘されると、クルトは創作者が一度はハマる、頭が真っ白になる状態になる。クルトは何かを創り出せるのだろうか。
物語はクルトの幼少時から始まる。自由人だった叔母の影響でクルトも既存のイデオロギーやパラダイムに支配されない自由な精神性を持っている。その叔母はナチスドイツの優生思想による政策でガス室に送り込まれた。送り込んだ医師ゼーバントはナチス党員であり、権威主義、国家主義者であった。
クルトが青春を迎えたある日、かつて叔母が世界の真実を悟ったと叫んだようにクルトも世界の真実を悟ったと叫ぶ。若いときにはこういう日が一度はある。当方も高校生の頃にドストエフスキーやショウペンハウエル、ニーチェなどを読んで、世界を理解した気になったものだ。しかしそれが勘違いであったのと同様に、クルトの悟りもおそらく勘違いだったと思う。
その後東ドイツの美術学校で出逢ったエリーが偶然にもゼーバントの娘だったが、エリーの家族もクルト自身もそれに気づかない。そして西側の美術学校でちょうど創作に行き詰まっていた頃にいくつかの出来事が重なり、クルトは持ち前の映像記憶力でそれらを組み合わせ、大戦時に叔母に起きた事実とゼーバントとの関係、ぜーバントとナチスの関係を洞察する。そしてそれをキャンバスに表現しはじめる。そこからがクルトの本来の芸術のスタートとなる。
芸術家としてのクルトの成長と、恋愛から結婚に至る個人的な生活が物語の両輪で、主人公クルトと恋人エリーに対し、国家主義や優生思想などの象徴としてのゼーバントという権威主義者の俗物を対立軸として置くことで、立体的な作品に仕上がっている。精神的な自由を重く扱った映画であり、世界の人々が再び陥りそうになっている危険な思想への傾倒に警鐘を鳴らす作品でもあった。いかにもドイツ映画らしい作品だと思う。
自由は辛くて厳しい。人間は放っておくと自由を投げ出して権威の前にひれ伏し、代わりにパンと家を手に入れようとする。そこを踏ん張って自由を守り続けるには勇気が必要なのだ。自由を投げ出して共同体に同化すると国家主義になる。戦争をするのは決まって臆病者たちなのである。