「いつでも女は独りで闘う」ROMA ローマ masakingさんの映画レビュー(感想・評価)
いつでも女は独りで闘う
クレオが子どもたちの一人ソフィーに子守歌を歌ってねかしつける。
ソフィーは寝しなに「だいすきだよ」と囁く。
この台詞は、映画の終盤の砂浜の場面でも繰り返されるのだが、その重みは変わっているようで全く違わない質感を伴って響いた。
そして、そのきっかけとなるクレオの独白。
作中、ずっと溜め込んでいたのはこの思いだったのだな、と切なくなった。
子どもは、いつも危険と隣り合わせで、いつ天の迎えが来てもおかしくない危うさを孕んでいる存在だ。
作中でも、そのようなハラハラする場面は幾度となくおとずれる。
兄弟げんか、外出先での先走り、そしてクライマックスの砂浜での遊泳など、映画であるが故になにかあるのではないか、という不安が、胃の下のギュッと締めつけながらの鑑賞であった。
恐らくこの不安は、子どもの親だった経験がないと、あるいはかなり継続的に子どもを世話したことのある経験がないと感じないたぐいのものではないだろうか。
そして、親や庇護者は、いつでも自分の無力さをうしろめたく感じ、子どもを産み、育てる人間としての資質を自問し、罪悪感に嘖まれる。
虐待やネグレクトの経験がある親だってそういう瞬間はあるはずだ(と信じたい)。
子どもを産み育てることが、こんなに不安で後ろめたい思いをする時代は、いまだけではない。
その一点において、この作品は、単なるノスタルジーに浸るためだけではない、現代を描く映画だ。
いつの時代でもこの不安や後ろめたさに、女性は向き合い、周囲の人間に囲まれてはいながらも、結局は独りで闘ってきた。
四人の子どもたちの母であるソフィアも、同じ思いを初めてここで分かち合えたからこそ、クレオを抱きしめた。
終盤、砂浜で抱きしめ合う場面は、そんな女達が共に守ってきた子どもたちと共に、その哀しみを初めて分かち合う瞬間だったのだと思う。
誰か劇場の外で人が騒いでいるのではないかと錯覚するような音響の緻密さと、モノクロームの画面の深みには驚かされた。
どなたかもレビューで書いていたが、これは本当に劇場で観るための映画だ。スピルバーグが、こんなにも映画的なnetflix作品を排斥しようとしたのはなぜなのだろう。その本意を知りたくなった。