女王陛下のお気に入りのレビュー・感想・評価
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けだものの本性を隠すために着飾り、豪勢な宮殿に住む、国家を蝕む悪女たち。
さすがランティモス監督、「ロブスター」「聖なる鹿殺し」に連なる世界感。
政治倫理観を現代の尺度で測るのはフェアではないことは重々承知だけど、国民を露ほども顧みず、我が身の欲望のみに執着する姿を、ここまで見苦しいことなく描けるのは監督の手腕。むしろ、その傲慢さと権力への執着は潔いと思えるくらいだ。そう思えるのは、それぞれが自分の利己主義ぶりに気付きながらもそれを良しとしてふるまっているからだろう。だから、『私はいつだって自分の味方よ』と言い切るアビゲイルの視線が、かっこよく見えてしまう。エマ・ストーンもレイチェル・ワイズもいい顔してるんだよ、腹黒なのに。ラストの王女との嫌味合戦なんて、そこいらのセレブが足元にも及ばぬ火花が散る名シーンじゃないか!
魚眼レンズ
監督の過去作と比較して、残念だが興味が薄い内容である。英国版大奥といったプロットで、世界中で起こっている浅ましい人間模様を描くスタイル。
カメラの構図や、表題の通り特殊なレンズを使用しているところが変わった作りとして目を惹く。
ドライに突き放すような演出が監督の特徴なのだと過去の2作との比較で分る。
登場人物はwikiでも出ているので実際の人なのだろうが、あくまでも繰広げられている顛末はフィクションであろう。ただ、今作は自分にとってあまりのめり込めるような題材ではなかった。それぞれのエゴがぶつかり合うガチンコの中で、唯々、市井の人達がこの茶番の犠牲になっている事実を、今の時代も同じ構図として繰広げられている様は、本当に悪夢であり、無常観に苛まれるのみである。女性が観ればまた違った感想なのだろうか・・・
このエンディング❗
エマが好きなので、途中までは「虐めに負けないで頑張って❗」などとつい応援していたのですが
え?えっ?ありとあらゆる方法を駆使して没落貴族から上流階級に返り咲こうとするわけですね。犯罪らしき行為さえも厭わないと。
対するは聡明で美しき参謀サラ。したたかに陰で操り女王とイングランドを支配する。あ、ついでに旦那様もw
気難しく気紛れ。痛風などの病気に悩まされるア(ライグマ)ン女王は、女二人が自分を奪い合うのを見るが楽しくて仕方ない。いつも誰かに愛されたい、必要とされたいと願っている。でも近づいて来るのは権力目当ての人間ばかり。
要するに誰も幸せではなく、常に根底にある不足感。
お、重い(ーー; でもこういうエンディングは好きです。印象的。
うさぎ
動物は檻の中にいると異常な行動をとるらしい。動物園の動物は共同行動と呼ばれる異常行動(同じ所をいったりきたりする、毛を引き抜くなどの自傷行為)をしていると何かの記事で読んだ。確かに子供の時に行った動物園の動物は、同じ所をいったりきたりしていた。
人間も同じ様に狭い世界の中にいると、頭がおかしくなるのかもしれない。アン王女の過食も情緒不安定も檻の中に閉じ込められた動物と同じ様なものだろう。アン王女だけではなく、王室の男達が揃いも揃って気色悪いのもそのせいな気がする。気色悪い者同士で檻の中にいるものだから自分達がズレている事に気がつかない。
はじめは物事を俯瞰して見ていたアビゲイルも、狭い世界にいるうちに日に日に神経が麻痺してきたに違いない。1回で6匹もの子を産む多産のうさぎはアン王女の分身であるのに、事もあろうかアビゲイルはアン王女の子うさぎを踏んでもて遊んでしまった。今までのアビゲイルだったら、そこまでの馬鹿な真似はしなかったはずだ。やはり、狭い世界の中だと大きく物事を見る事ができず、油断して馬鹿になってしまった気がする。自分も狭いコミュニティに居過ぎないように、気をつけよう。
こんな人達でも国を治める事ができたのだ。いや、異常だからこそできたのか?しかしこれは18世紀のイギリス王室の事だけではなくて、現代国家にも通じる事かもしれない。現代でもアメリカのトップも中国のトップも日本のトップも総じて頭がおかしい。人類は全く進歩なんかしていないし、トップは自分達の世界の中だけで自己完結する生き物だ。そもそも人間自体がご都合主義な生き物だ。ヨルゴス・ランディモス監督からは、そんな声が聞こえてくる。
豪華な装飾と醜悪な人間
非常に評判が高い映画でしたが、好みではなかったのが残念。派手な化粧やダンスは、どれも過剰に感じたんですが、あれは演出?それともそう言う時代だったのでしょうか?女王のお気に入りの座を争う女通しの争いは想像通り。ラストシーン、愚かな女王の悲しみの大きさに心が塞がれました。
エンターテイメント派には・・・
オリヴィア・コールマンとイギリスものが気になるので、見に行ってみた。
女同士のドロドロが苦手な上に、映画にエンターテインメントを求めるライト派の私には、少し合わない映画だった。誰も幸せにならないし。
メインの女子は、3人とも癖がありすぎて、賢くて、したたかで、愚かしい。それなのに、なんとなく彼女たちそれぞれに寄り添うような気持ちになってしまう。それぞれを愛おしいとさえ思えてくる。
こういう風にみてる側に思わせる力を、演技力と言うのかな。
音楽もとても印象的で、すごく不安になったり気持ちを揺さぶられる。そういうのもちょっと苦手な感じだった。
美しさと醜さが堂々と同居する歪んだ空間
ランティモス監督の前作『聖なる鹿殺し』が私は本当に生理的にダメだったので、ちょっと警戒しながら観てみたら、今回はかなり良くて勝手に安心した次第で…
じゃあ何が良かったのかと考えてみると、あくまで個人の意見だけれど、
監督の持つ技法やセンス="終始画面からはち切れそうな不穏な雰囲気を醸し出す感じ"
が、女同士の静かな闘い(しかも思ったよりドロッドロで下世話)や時代背景と融合していたからだと思う。
例えば、(撮影技法に明るくないので間違っているかもしれないが)魚眼レンズや広角レンズで捉えられた世界は、
「宮廷」というとても閉鎖的な空間を覗き見しているような客観性と背徳感を同時に感じるように思われたし、
彼女たちのいる世界の全ては、様々な意味でとても狭くて窮屈なのだと感覚的に訴えてくる効果を感じた。
画面そのものの大半はパッと見ると、時代こそ少しズレるがレンブラントの絵画のような、劇的なショットが散りばめられていてとても綺麗。
室内の調度品や衣装美粧に関しては本当に息を呑むほどの美しさ。
バロック音楽の響きもいい。不穏な雰囲気マックスになると、ずーっと同一の音をチェロかな?弦楽器が奏でていて美しくて不気味という素晴らしさ。
ゴブラン織か何かで沢山覆われた壁や、宮殿の整えられた庭や、女たちのドレスやアクセサリーのきらびやかな質感…
乗馬や狩りの際のスタイルも格好良かったし、個人的にサラさんの眼帯スタイル…めちゃくちゃ綺麗でした。目の保養。ありがとうございました。
さて、物語の中心は感情的で人生にも女王の立場にも疲れ切っているアン女王の寵愛の行く末である。
足の具合が悪いことや肥満も原因のようだけど、車椅子に乗っている女王はもはや自己の制御が利かなくなっていて、
車椅子を押す者=最初はサラ・最後はアビゲイル
によって実質支配されている哀しさや醜さを視覚的に見せている。
サラとアビゲイルのやりとりの様子は、相手には直接的というよりは遠回しな表現とか行動で表していくので、陰湿といえば陰湿。
2人が狩りをするシーンが特にもういやらしさ満点で好きだった…サラがアビゲイルをけん制するようなことを言えば、アビゲイルが撃った鳥の血がサラにかかったりとか…
あとは、最後は勝った?かのように思われたアビゲイルには、常に物理的に「落下」のイメージが付きまとっていて、どこまでもわかりやすく不穏な描写でよかったなあと。
まず登場シーンか馬車で落下だし、ハーリーに脅される所も屋外で蹴落とされるし、途中所々上り詰めていくに連れて階段を「上がったり」するんだけど、お部屋から下がるシーンが多いので必然的に降りていくシーンが多い。
きわめつけは、ラストシーンではないだろうか。立っているアン女王と、しゃがんで足を揉むアビゲイル。
足を揉む=途中からプラス女王への慰めサービス付きと解釈できると思うのだが、そう考えたらこのラストもめちゃくちゃ不穏だしスッキリしない。
アビゲイルは上り詰めたように思われるけれど、女王には立場はもちろん、物理的にも"下"に居て、下のお世話もするしかない。下世話だけれども。
かつて「梅毒持ちの兵士に体を売るくらいなら…」なんて言ってたけど、
結局前にいた売春宿とやっていることはほぼ変わらないのではないかと思うと、
果たして彼女は"上り詰めた"と言えるのか?と思ってしまう。
また、このシーンではうさぎと女王とアビゲイルのショットが重ねられるのも特筆すべき点で、
冒頭の方では女王が足の具合を悪くした晩の、女王とアビゲイルとサラの3人の様子が重ねられていたが、
ラストではうさぎに変わっている。
うさぎはアン女王の子供たちの代わりであるだけでなく、多産と繁栄の象徴としても昔から捉えられていることも踏まえると、
アン女王とアビゲイルの行く末を暗示するにはあまりにも皮肉すぎて滑稽。
この辺りは監督のセンスなんだろうな…
それを考えると、一度は売春宿に拾われてアビゲイルと逆転したり、最終的に宮廷から追い出されたりしても、いつもサラからは気品を感じるのは何故だろう…
女王に対してのサディスティックな一面や、公務において容赦なく人を切り捨て強引に意のままに操る面は「悪女」なのかもしれないけれど、アビゲイルと比べるとちょっと違う印象だった。
おそらく彼女の多才ぶりや、国家や女王のために働いているような面が感じられたからだと私は思う。
ラストで窓の外を見遣る視線のキリッとした美しさ、私はかなり強く焼きついたシーンだった。
後から調べたら、史実でもその後も資産運用したり、政治界を裏から支えたり、バリバリ活躍してたようなので流石生まれ持った資質が違うお方なのかも…
最後に個人的な感想を。
・カツラ姿の男性陣の見分けが割と途中までついてませんでした…ハーリーもマシャムもみんな頭もこもこやん…
というわけで、もしかしたら話を盛大に勘違いしてたら怖いな…
なんとなく議会のシーンでホイッグ党=黒髪、トーリー党=白髪のひとが多め?と思ったけど合ってます?
・章分けしてたのは意味があったのか…?タイトルも台詞をそのまま持ってきた感じだし…
章で区切りがちな監督というと、私はラース・フォン・トリアー監督のイメージが強くて、めっちゃ長丁場だしタイトルも意味深な感じだなあと思ってるので、それに比べるとなんなんだ?と思ってしまった。
・某サイトでアビゲイル=サークラ女子と書かれていて、めちゃくちゃ腑に落ちた。
この映画、英国王室という巨大国家レベルサークルをクラッシュする女の話だったんや…これあながち間違ってないと思う。
アビゲイルちゃん、「国がどうなろうとわたしには関係ない」ってはっきり言い放ってたもんなあと…
面白さがわからない(少しだけネタバレ)
なぜかあまり面白くなかった。気持ちが高ぶらないというか。どっちかというと観ていて疲れが…というのが正直なところだ。
なのでこれはレビューではなく感想文でしかない。
確かに主演、助演の三女優の演技は素晴らしいと思う。誰が主演で、誰が助演かわからない位、伯仲していた。
一ヶ所だけ引き込まれたシーンがある。
それは、アビゲイルにアン王女を寝とられた(?)事を知ったサラが動揺しながら廊下をさ迷う場面だ。ここは、もっとアップでサラの表情が観たかった。
この映画を楽しめなかった原因は、たぶん自分にこの映画の舞台背景や時代背景、又この手のジャンルの映画についての素養が備わっていないからに違いない。
そこを少しでもなんとかするために、これからこの映画を楽しめた方々の絶賛レビューをゆっくり拝見していきたいと思っている。
全てあとの祭り
従順な味方がいつ危険な敵に変わるとも知れないんだから。毒っ気たっぷり。
鑑賞後の虚脱感はピカイチ。
アビゲイルののし上がり劇に興奮したのも束の間、だんだん出てくるやり過ぎ感とツケ払いが痛かった。
レディの立場を取り返したところで何かその先に目的があるわけではなく、絵に描いたような堕落と油断がやるせない。
最初はその野心的な姿勢に「いけいけー!蹴散らせ蹴散らせやっちまえ!」と応援していたものの、描き方が少し変わった途端に「やり過ぎでは?サラが可哀想…」と掌返す我々観客への皮肉が刺さる。
ただ見ているだけで何を偉そうに。申し訳ない。
常に寂しくて自分自身を悲観し人が妬ましくてたまらない女王陛下アン。
歯に衣着せない物言いの友達側近サラとの日々に突如現れた、甘い言葉を囁き全てを包み込み肯定し楽しませてくれるアビゲイルにどんどんハマっていく様が分かりやすい。
突拍子もないことを言い出したりするとはいえ、何を求めているかが分かればその心の内に入り込むのも案外容易な気もする。
大好きな二人が自分を取り合い牽制し合う様子が愉しいのはなんとなく分かるかも。
ただの脆い人と思いきや案外強い部分も見え隠れして、流石女王と言いたくなる。威厳って大事。
友人兼側近として常に女王を支え、参謀として実権力をモノにしていたサラ。
夫の戦績への欲なのか国のことを本気で考えているのか、その過激な金策は良いとは言えず、まんまとそこを利用されてしまう。
独占欲は強いが特に悪いこともしていない彼女の陥落は終盤見ていて少し悲しくなった。
愛に飢え権力に飢え、それぞれに喰われた女たち。
こんなはずではなかった、正しいことを言っていたのは誰だったのか、信頼は得られないと、諸々に気付いたところで全部全部あとの祭り。
共依存的関係が解消されると開放感と消失感が交互に襲ってきて辛いだろうな。
あの後のことを考えてもなかなか絶望的な生殺し状態が続きそうで背筋が震える。
この手の話になると必ず「女は怖い」などと安易に言う声が聞こえてくるけど、スポットの当て方が違うだけで皆同じだと思う。
敢えて言うならこの人たちが怖いだけ。
ハーリーの多方向から攻めてくる政治戦略を中心に置いてもまた面白そう。でもこの人はかなりまともなこと言ってるか。
普通の女は腕力では男に勝てないけど、アビゲイルはマシャム大佐に対して常に手の力で勝ち伏せていたところが好き。
わざとらしいオーケストラの宮殿音楽にどこか現代的な柄の混ざったご婦人たちの衣装、響くアクセサリーの鳴る音が素敵だった。
全体に漂うポップな不穏の空気は流石。とても好き。
女王陛下の終りのない悲しみ
レイチェル・ワイズ様とエマ・ストーンの2大美女対決が見ものか…と思っていましたが、もっさり女王を演じたオリビア・コールマンが持って行きましたね〜!
(よくよく見るとコールマンさんが主演でした、納得)
本作は、アン女王の悲しみ・孤独・切なさが胸を打ちました。
17人子どもを失って、今は誰もいないってキツすぎるでしょ!昔は子どもの死亡率が高いからそういう悲劇もあるでしょうが、しかし17人…そしてウサギに失った子どもの名前をつけている…ホント、胸が張り裂けそうになりました。いや、張り裂けた。
女王の独白は、エマ演じるサイコパス女アビゲイルに向けられたものでしたが、情緒レスのアビゲイルもさすがに切なそうな表情をしていたと思います。
身体もボロボロ、癇癪持ちの女王ですが、なんだかんだと国民の負担を思いやる気持ちがあり、やっぱり優しい人なんだなぁと痛感。
そんな複雑で厳しい役をオリビア・コールマンはビシっと演じていたように思います。レイチェル様大ファンの私でも、本作でもっとも印象に残るのはアン女王でした。
何気に、エマ・ストーンも良かったです。序盤、アビゲイルは周囲から悪意ばかり向けられており、そりゃひどい人間になってしまうよな、と思わずにいられない。徐々に才覚を発揮して、同時にクソな人間性があらわになっていくプロセスは妙にリアル。私はエマ・ストーンにどこか下品な雰囲気があると感じていたので、この役は彼女にぴったりだったと思います。
顔芸も最高で、あの極悪なツラでの史上最悪の手コキは正直笑いました。いやー、役者ですねぇ!
レイチェル様は相変わらず高貴でお美しかったです。レイチェル様演じるサラはカッコいい女傑ですが、レイチェル様は少し憂愁の雰囲気があるので、劣勢になっていく後半の方が個人的には魅力的に思えたかも。
柔らかな光が美しい上質な映像なので気品ある映画になりそうなものですが、悪意と品のなさがそこかしこに噴出するため、いい意味で感じ悪いコメディに思えました。
ストーリーはコントなんですけど、やはりアン女王の悲しみが深く、ラストなどはなかなかに趣深い味わいを残します。なかなかの佳作でした。
上流階級の男子は化粧が濃いよ
エマストーンの悪女ぶりが良い。
あらゆる場面での画像が綺麗 独特の映像美でしたね。明暗差があり、蠟燭の灯が印象的。魚角レンズを一箇所に据えてのパーンワークが多かった。
不穏な音楽もいい。アビゲイルがアン王女の心を射止めた場面では、グースハントの音が被って。
モンティパイソン風味も絡んでるのか、下衆なトマト投げや、シリーウォークもありましたよ。
アン王女のラスト近くのシーンで見せる顔の表情は見事。腫れぼったく自由が利かない顔は麻酔剤でも打ってるのかな。
勝ちは負けで,負けは勝ち
サラにとっては,アビゲイルに「自分は勝った」と思わせておくことが勝利だったのではないか?
*
女王からの愛を失い,王宮から追い出されたサラ。
女王に手紙をしたためる。
だがアビゲイルは,女王が読む前に手紙を抜き取る。
そこには女王への愛と「忠実なサラより」という言葉が綴られていた。
手紙を女王に見せず、焼き捨てたアビゲイル。
「サラが国庫から横領していた」と女王に告げる。(横領の真偽は定かではない。)
女王はサラ夫婦の国外追放を決定。サラの邸宅に使いを送る。
(【2/23追記】女王はアビゲイルに対しサラの横領を認めなかったにもかかわらず、政治家たちの前でアビゲイルの讒言を根拠にサラの国外追放を決定する。これは女王の保身のためか?サラを自由にしてやるためか?はたまた、横領を知っていたか、自分がサラに金を渡していたか?)
窓から追放使節の一団が到着したのを眺め「手紙の返事が来た」とつぶやくサラ。
明らかに,やってきたのは手紙ではない。だがサラに驚きの表情はない。
まるで自分が追放されることを予期していたかのように。
まるで,女王の愛を取り戻すための手紙を送れば,アビゲイルがそれを盗み見て,自分を徹底的に排除しようとするであろうことを予測していたかのように。
サラの手紙を見たアビゲイルが、讒言によって自分を追放しようとするであろうことが予想されたのであれば、サラの手紙の真の宛先はアビゲイルであり、追放こそがアビゲイルからの返信なのだ。
ではサラは、国外追放されることによって何を得るのだろう。
それは「アビゲイルに勝たせること」(勝ったと思わせておくこと)である。
アビゲイルはサラに勝って女王の寵愛を得た。サラが再び、アビゲイルの競争相手になろうとすれば、アビゲイルは自分が得た地位をより堅固に守ろうとするだろう。自分が守ろうとしているものが、自分にとってどんな利益をもたらすかもよく考えずに。
自分にとって利益にならないものであっても、それを他者が奪おうとすると、なぜかそれを奪われたくないと感じ、競い、相手を蹴落とそうとする。しばしば人間に見られるこの習性をサラは利用したのだ。
こうしてアビゲイルは女王との親密な関係を守り抜く。サラに勝ち、自分は女王を手中に収めたのだ、と勝利した気になる。だが長い目で見れば、それは敗北である。なぜならば、女王に対して偽りの献身を続けなければなないからだ。愛してもいない女王に対し、愛情表現をし続けなければならないからだ。そのことに気づきつつあるアビゲイルは涙を流し、女王もまた、自分に言いよる者たちの愛情が嘘か真かを見極めることに疲れた表情を呈する。
ただ勝利だけを手にした(と思いたい)のはサラも同じである。彼女も政治的な地位を失い、国を追われて、実利のない勝利だけを手にする。
アン女王、アビゲイル、サラ、三者三様に、それを獲得した瞬間は興奮こそすれど、時間が経ってみれば中身がなく虚しいと気づく勝利だけを得て物語は終わる。
愛を偽ること。本当の愛情。これはヨルゴス・ランティモス監督が前々作『ロブスター』で設定した構図でもある。
主人公は愛することを強制される環境では真実の愛を見つけられず、動物に変えられないため止むを得ず愛しているフリをする。
だが恋愛禁止のレジスタンスのもとに逃げ込んだ途端、真実の愛を見つける。
女王を愛する者は女王の要求とは逆のことをする。女王を愛していない者が女王の要求通りのことをする。その内外のギャップに,女王は苦しむのである。
このような「逆張り」を,ランティモス監督は今作でも見せたかったのだろう。
*
アビゲイルが手紙を盗み見るだろうことを,サラは予期していた。なぜそう言えるのだろうか。
それは,はじめ女王に対し憎しみの込もったメッセージを送ろうとしていたサラが,逆にご機嫌をとるような手紙を送ったからだ。
女王にとってのサラの価値は,ご機嫌とりではなく,厳しい言葉をかけることができることにある。女王を叱咤し,発破をかけ,高いレベルに引き上げようとする点にある。それがサラの"正直者"としての魅力である。(女王に対しては皆ご機嫌を取ろうとするので,女王を不快にさせる言葉を発することのできる者は正直だと思いがちだが,実際にはそうではない。「正直者」というサラのキャラクターも,半分は本当,半分はサラが自分自身に課した設定なのかもしれない。)
だとするならば,まさに憎しみこそサラが女王に伝えるべき言葉ではないのか。率直に憎しみを伝え,彼女の魅力をアピールすべきではないのか。ご機嫌とりの言葉をかける人物なら,アビゲイルで十分ではないか。
ご機嫌とりの言葉をかけたとしても,女王に対し,サラは自分を魅力的に見せることはできないのである。
それゆえ,サラがご機嫌とりの言葉を手紙に記すとすれば,それはアンに読ませるためではなかった,ということになる。
だがアビゲイルは,ご機嫌とりの言葉こそアン女王にかけるべきだと思っている。アビゲイルには女王がサラを愛する所以がよくわからないのだとすれば,サラが手紙に記した愛の言葉は,サラが女王への愛情を取り戻そうとしているように思えただろう。それゆえ,アビゲイルの目にはサラが脅威に見えるのである。
*
はじめサラは,女王に手紙を書くにあたって「あなたの眼を串刺しにすることを長い間夢見ていた」と書き記す。これはサラの本心だったのかもしれない。
だが仮にアビゲイルが手紙を盗み見るとしよう。サラの本心=女王への憎しみー実際には愛情も入り混じった「愛憎」とも呼ぶべきものなのだがーをアビゲイルが知ったとしたら,サラが女王の元を離れ,自由になれたのは,サラの勝利である。(もちろん,女王に取り入ることによる政治的・経済的なメリットは大きいのだが,その見返りとして,女王によって拘束されなければならない)
もしも「女王から離れること」が勝利だとしたら,アビゲイルは自分が今女王のそばにいることが敗北なのだと気づいてしまう。確かにアビゲイルは女王のそばにいることによって,最初のうちはたくさんの見返りを得るだろう。失ったレディの地位を回復し,豪奢な生活を送る。
だがやがて倦怠期が訪れるだろう。愛してもいない女王への愛を偽り続けることに疲れるだろう。ラストシーン,アビゲイルの感情を失ったかのような表情は,すでにその始まりを感じさせる。愛情を偽ったまま奉仕し続けることへの絶望感。
「感情を偽って奉仕し続けたくない」「早めに女王の元を離れよう」とアビゲイルに早々に気づかれては,サラは困るのだ。女王の寵愛を得てサラに勝利したという余韻に浸らせておき,気づいたら拘束され感情の自由を失っていた。そのような状況にアビゲイルを陥れることが,サラにとっての1つの勝利である。
もちろん,サラは政治的な地位を失った。そのため,全面的な勝利はあり得ない。サラはアビゲイルを鎖に繋いだことで,アビゲイルに勝利したと言えるし,アビゲイルは女王のお気に入りの地位からサラを蹴落としたことでサラに勝利したとも言える。
女王は,命じたことをなんでもやってもらえるがゆえに,サラのように反抗的な態度も取れる人物を好むかもしれない。誰もが女王に取り入ろうとしてなんでも進んでやってくれるがゆえに,本心から自分に献身してくれる人物を見つけようとする。その表れとして,あえてしばしば自分の意図に反して厳しく接する人物をそばに置く。だが,結局は自分の言うことを聞いてほしい。自分の望みを叶えて欲しい時に本心から奉仕してくれる人物が欲しいのであって,望みを叶えて欲しい時に厳しいことを言われるのも嫌だし,望みを叶えて欲しくない時に何かをされても嫌だ。
女王は,サラがしてくれないことをしてくれるアビゲイルを重用するけれども,アビゲイルはアビゲイルでただのイエス(ウー)マンである。して欲しいことをしてくれるけど,本心からではない。
いずれサラを呼び戻したり,サラのような性格の人物を登用するようになるのだろうか。それともすでにサラのような人物を経験したうえでアビゲイルを選んだことをわかっているから,しばらくはアビゲイルでいようと思えるのだろうか。
アビゲイルの才能は,上昇することにあった。サラとの勝負のさなかに発揮されるものであった。何かを獲得する時に発揮されるものであって,それを獲得したあと,勝利したあと,登りきったあとは虚しくなるだけであった。
その点については,サラの方がうまい。サラは勝負開始以前の,女王の寵愛を確保した頂点において,その地位を維持し,政治的手腕を発揮する治世者であった。
*
どことなく『ファントム・スレッド』で感じたような逃げ道のなさがフラッシュバックする。
同じ出世と転落の物語である『バリー・リンドン』もまた,豪華で優雅だが,下品さと汚濁をふんだんに盛り込んでいた。
I have spoken! 英国のドロドロっぷりにハマる!
2019年度アカデミー賞に軒並みノミネートしている本作。納得の怪作でした。今まで余り英国王室に思い入れとかなかったのですが、本作を観て色々検索すると本当にドロドロしてるよなぁっと思います。アン女王以外でもドロドロした話がてんこ盛り。で、多分なんですけど、本作の監督ヨルゴス・ランティモスもギリシャ人ですしイギリスには余り思い入れは無さそうで、イギリス王室の醜聞を渇いたタッチで描いています。うーん、面白かった。
あのカメラを定点視点で固定して見せるのって面白い撮り方ですよね。最近でいうとVRで動画見るとあんな感じの視点になるので上手い事取り入れてるなぁっと思いました。なんというか自分もその場にいて見てる感じになるんですよね。
レイチェル・ワイズ、エマ・ストーンの演技が素晴らしいのは勿論の事、アン女王を演じたオリヴィア・コールマンのインパクトったら!実際のアン女王も頭使うより体動かす方が好きな人物だったみたいで、歳を取ってからはブランデー好きが祟って肥満や痛風で苦しんだようなのですが、オリヴィア・コールマンはそんなアン女王を見事に体現してましたね。もう本人そのもの!そして、ニコラス・ホルトが楽しそうでした。
長年アン女王の右腕として政治も取り仕切っていたサラに比べ、結局アビゲイルの目標って貴族に帰り咲く所までだったんですよね。で、貴族になったらなったで、サラも追い落としちゃった後は何処となく退屈そうで。アン女王の方はサラを切っちゃったんで自分で悩まなくっちゃいけないようになってて。字が読めないような体調でも虫メガネ使って苦労してて。んー、誰も幸せになってないんじゃ!?
色々検索するとアン女王はサラを追放した四年後には亡くなってるみたいなんですよね。で、アビゲイルもそれと共に宮廷を去ってるようです。片やサラは84歳まで長生きしてて。確かに映画の中でも、サラは最後には何ともいえぬスッキリとした表情してましたし、人生何が良いのかわからないもんだよなぁっとしみじみ思いました。
この物語には出口も終わりも無い
久しぶりに見た普遍性のあるテーマの映画。感動無し、涙無し、驚き無しだが、見るべき映画だってことは確実に言える、まぁ、人それぞれですけど。
アビゲイルの成り上がり物語から垣間見えるのは、権威権力者の「お気に入り」が国策にまで影響し、時に権力者に変わって決定さえ行っていること。
「梅毒の兵士に抱かれる時に、道徳的であった事を後悔したくない」アビゲイルは、道徳を捨てて媚び始めます。女王のお気に入りとなり政策にも影響する事が出来る立場に立っても、彼女にはその気が無い。ただ、再び落ちぶれたく無い一心。ここが皮肉。
一方のサラは媚びない。愛してるからこそ正直なのだと言うが、女王には思いが届かず、最後はアビゲイルの策略の果てに、国外追放の身まで落ちる不幸。
権力者の孤独。故に求める「お気に入り」。お気に入りになるために媚びる者の醜さ。志無く媚びる事の愚かさ、引き起こされる悲劇。
映画のラストは、媚びる事を忘れたお気に入りに、媚びる事を命じながら、出口の無い苦痛の迷路でひと時の快楽に恍惚する女王と、これまた出口の無い屈従の迷路に囚われた事を知ったアビゲイルの姿を映し出して終わる。オチも決着も無いラストシーンの意味するのは、「この構図は18世紀の英国だけの物語りに非ず」と言っている。世界中の至るところ、あらゆる時代、あらゆる階層で、この物語りは繰り広げられている。
そう言いたいのだと思う次第。
俺も今日から、帰ったら女房に媚びます。
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オリビア・コールマンのオスカー受賞記念追記(2/28)
「The favorite」には、designated winning horse=勝ち馬になると見なされる、のニュアンスがある。映画を観る限り、このタイトルは「女王の第一側近そのもの」を指している様です。アビゲイルとサラの椅子取りゲームは、「プライドをかなぐり捨てた卑屈さと策略」と「純粋な社会的欲求」を対比させながら、滑稽さを強調することで、見るものをゲンナリさせてくれます。王室の描写は不敬です、笑っちゃうほどに。
女王の元から追い出されたサラは後悔と、尚も持ち続ける社会的欲求から、女王に本心を理解してもらうための手紙をしたためます。最初は「辛辣な本音」の文章。何度も書き直すうちに内容は徐々に変化し、最終的にはアビゲイル流に遜ります。自分を殺して卑屈になることも厭わない姿勢ですが、手紙は女王に届きません。警戒したアビゲイルが検閲していることなど、「卑しい人間」には縁が無かったであろうサラには想像できなかったでしょう。増税を主張して来た場面でも、「べき論」にのみ思考を支配され、「現実」に1分の理解も示そうとしないサラの頑固さと、宰相としての浅さが故の悲劇。
そもそも、その手紙を女王に届ける気などサラサラ持ち合わせないアビゲイルは、雑に封蠟を剥し、目を通し、燃やしてしまいます。自分こそが「designated winning horse」になったことを確信した瞬間ですが、それは同時に、「遜ったウソで手に入れた地位を守るために、屈従の迷路に囚われてしまった瞬間」でもあり。それを思い知らされるのは、少し後の事ですが、まさに後の祭り。
女王には届かなかった手紙。待ち続けた女王から下された処分は国外追放。社会的欲求は粉々にされましたが、おそらく、思い残すことなど無く、国を去るサラ夫妻。晴れ晴れとした表情は「卑屈に生きなければならないレース」に身を投じずに済んだこと。レースから「解放」された実感からなのだと思う。
時に5歳、ある時は60歳。あらゆる年代の「女」としての人格が、一人の人物に同居している女王アン。情緒は一定せず、時に依存心丸出しの幼女になり、時に権威を前面に押し出した女帝として振る舞い。とどのつまり、女王アンの心の安寧には、アビゲイルとサラの両者が必要なはずなのだが、サラを切ってしまうと言う失敗は、いつか苦痛となってアンに戻ってくる、だろうに。
この面倒くさくてしょうがない、幼いメンタルの女帝を演じきったオリビア・コールマンに拍手。オスカーに値する演技だった…いや、獲ったんだから値してたんですね!
煌びやか
今年度アカデミー賞最多ノミネートの今作といったところでかなり多くの人が観ていた。制作会社の「フォックスサーチライト」は個人的に一番好きな制作会社なので普通に期待していた。
物語としては18世紀のイングランド王室を舞台に女王と彼女に仕える2人の女性の入り乱れる愛憎を描いていた。
煌びやかな衣装やセット、今作出ている俳優陣の高い演技力によってスッとすぐに物語に溶け込むことができた。また、アビゲイル(エマストーン)とサラ(レイチェルウイズ)両者ともに物語を見ることができ何回でも楽しめると個人的に思う。
エマストーンは「アメイジングスパイダーマン」などで清純派ヒロインをかなりしているイメージがあるが、個人的にだが今作のように嫌な女を演じることが上手い役者だと確信した。だが、俳優陣で一番よかったのはアン女王を演じたオリビアコールマンである。彼女は他の作品をみたときには大柄なイメージはなかったのだが、今作はかなり大柄であり、弱々しい一面を見せながらも、横暴な所もあり、役作りを徹底的しているなと思った。
ストーリーについてだが、8パートほどに分かれており、小説でも読んでいるように軽々と進んでいった。今作を語る上で絶対に外すことができないのはラストシーンであるが、3人の悲壮感や虚しさ、女王とアビゲイルとうさぎのあわさった画面を含めて丸く終わるよりも、結局誰も得しなかったや、この世にハッピーエンドなことなどないと強調されたり、女王の存在感がたっぷりと味わえたのでよかったと思う。
今年のアカデミー賞は「ローマ」、「グリーンブック」のどちらかと考えていたので今作を観てますます作品賞が楽しみになってきた。衣装やセット、役者をみるだけでも楽しいので是非みなさんのお気に入りにして下さい。
不条理なウサギのカゴに閉じ込められた王宮
映画マニアが大好物の"フォックス・サーチライト"作品。昨年は、「シェイプ・オブ・ウォーター」も「スリー・ビルボード」も"サーチライト"だった。今年も本作が、アカデミー賞最有力候補のひとつ(最多の10部門ノミネートしている!)。
ヨルゴス・ランティモス監督はよく、映画ライターたちに"鬼才"に分類される。自分の常識で測れない人を、容易に"鬼才"と紹介されるのは困る。結局、"鬼才監督"は何人もいて、無価値になってしまう。
ヨルゴス・ランティモス監督の作品は、いやらしいほど"不条理"で、けれど"知的なセンス"が溢れる。設定が常識的な観点からはズレている。登場人物はいたって真面目で、人間の本質的な反応をさらけ出す。だから、その滑稽さに自然と笑ってしまう。
またランティモス作品には、世界的に著名なトップ俳優たちが出演することを心から望んでいる。
「ロブスター」(2016)では、コリン・ファレルとレイチェル・ワイズが出演。「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」(2018)では、ニコール・キッドマンが出ていた。本作にはエマ・ストーンとニコラス・ホルトの出演が話題となった。
本作は、ランティモス作品にしては相当ハードルを下げているように感じる。今回は脚本にランティモス監督自身が絡んでいないのと、伝記モノというのが分かりやすい。またテーマが"女同士の嫉妬心"というのに理解しやすさがある。
歴史上の人物には"不条理"な人が多い。"英雄"や"功績を残した人"は、やはり常人とはズレていて、滑稽である。
18世紀の英国女王アン(オリビア・コールマン)と、彼女に使える2人の女官サラ(レイチェル・ワイズ)とアビゲイル(エマ・ストーン)の愛憎劇。アンが女王即位した1702年は、"生類憐みの令"の徳川綱吉将軍の江戸時代。アン女王は、イングランドとスコットランド両国を合併して、現在のイギリスの元となるグレートブリテン王国の最初の君主である。
スペインやフランスと戦争を繰り広げていた時代だが、実際はアン女王に仕えた女官サラ・ジェニングスが戦争を進言していた。そこにサラの従妹アビゲイル・メイシャムが現われ、アン女王の愛を勝ち取るため、狡猾な女性の争いが繰り広げられる。
やはりエマ・ストーンの華やかさと大衆的な魅力が出ている。賞レースも3人の女優の奪い合いとなる(もしくは、3人ともまとめて敬遠される)。
さて、オープニングの20世紀フォックス・ファンファーレが、"おやっ?"と思うほどちっちゃい。本編を見ると腑に落ちるのだが、どうやら"ウサギの鳴き声"で歌っている?
そして劇中にもウサギが出てくる。劇中でアン女王は17匹のウサギを飼っているが、これは6回の死産、6回の流産を含め生涯に17回妊娠したが、一人の子も成人しなかったという事実に基づいている。実際には当時のイギリスにウサギを飼う習慣はなかったという(ウサギは食用)。
ウサギは人間と同じく1年中発情しているというイメージから、多産・豊穣・性のシンボルとして選ばれる(バニーガールもそう)。また生命と復活の象徴からキリスト協会の復活祭"イースター"では、卵(イースターエッグ)を運ぶ、"イースターバニー"の名前で登場する。
王宮の中で外界を知らずに暮らす人々=カゴの中で飼われるウサギたち。ウサギを踏みつぶそうとするアビゲイルのシーンは自分自身への諧謔であり、エンディングへ向かって、"ウサギ"と"人間"が重なっていく。不条理な世界に閉じ込められた人々を描く、ランティモス監督のいつもの視点がここにある。
ちなみにアン女王の寵愛を失ったサラは、夫である初代マールバラ公ジョン・チャーチルの妻でサラ・チャーチル(Sarah Churchill)とも呼ばれる。そう、ウィンストン・チャーチルは子孫である。また直系の子孫にはダイアナ元王太子妃もいる。
アン女王と正反対に2男5女に恵まれ、その血統はウサギのごとく脈々とつながっていった。
(2019/2/15/TOHOシネマズ日比谷/ビスタ/字幕:松浦美奈)
風変わりに味付けされたイギリス版 " 大奥 !? "
戦時下の財政難を議論する絢爛豪華な王室で、全ての権力を有するはずの女王アンが最も不自由で孤独で惨めに描かれている。
すったもんだの愛憎劇の結果、アンの「 お気に入り(favourite)」を勝取ったアビゲイル(エマストーン)は、次第にアンに対する愛と忠誠心をないがしろにしてゆく。
目を患ったアンは、皮肉にもこれまで見えていなかったアビゲイルの本性を悟ってゆくが、最後の最後で自尊心に目覚めるラストシーンが印象的だった。
コメディータッチながら、時代を問わず人間の普遍的なテーマを描いた良作だと感じました。
権力って恐ろしい
アカデミー賞最多ノミネート
と言う言葉だけで、なんとなく観に行くと、人によっては、はい?ってなりそうな人を選ぶ映画
明白な白黒とか、起承転結とか、勧善懲悪とか、その手のものじゃないとって方はもやっとしてしまうかも
あと人間関係に疲れている時に観るのはオススメ出来ない映画
権力が絡むと、人の欲望はこうも面倒くさいものになっていくのかレベルのかなりのドロドロ劇が展開される
最初は、それほど狡猾に見えなかったアビゲイルも、後半には、最初から狡猾だったのかってなるし、どこまでが友情でどこまでが権力欲なのかなって思ってたサラも、後半には、やはり権力ありきなのかなってなる
そして結局、3人の誰の肩も持てなくなってくる
正直、今の気持ち的にこの手のドロドロを楽しく観る状態じゃなかったから、だんだん気持ちが落ちてきてしまった
ラストシーン、アビゲイルのウサギへの態度に気づいた女王を見たとき、何か展開が?と期待してしまったから、少し「はい?」ってなりかけたけど、エンドロール見ながら、これってそういうことよね。。。とあとから怖さがじわじわとくる
子供っぽかろうが、病に力を奪われていようが、権力のトップに君臨する女王であるアンをなめてはいけない
詰めが甘いぞ、アビゲイル
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